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3-3

 市道紫帆の家は市内にある普通のマンションだった。

 8階建ての6階にある角部屋で、先ほど彼女が言った通り部屋には誰もおらず、しんとした空気が漂っている。

「今コーヒー用意するね。紫帆の部屋、えっと、左のドアだから。中でゆっくりしてて~」

 市道紫帆の声を聴きながらすぐ横に視線をやる。左右に1枚ずつドアがあって、彼女の言葉通り左側のドアを開ける。ちらっと中を覗くとそこはなんだか奇妙な空間だった。

 長方形の部屋はまぁまぁの広さだ。ただ右側に木製のパーテーションが設置されている。

 広い部屋の真ん中にパーテーション置いて無理やり分割したのだろうか。彼女の家族構成は分からないが、右側の部屋はおそらく誰かが使っているのだろう。

とりあえず部屋に入る。奥にベッド、手前にテーブルとクッションが置かれている。

壁にはクローゼット、小さなサイズのモニター。デスクトップパソコンも置かれていた。

 こういう言い方はあまり正しいとは思えないが、パッと見、男の部屋と見まがうほどのシンプルさだ。

 ひとまずローテーブルの近くに座る。

 少し待っているとすぐに彼女がコーヒーとお茶菓子を持って現れた。

「お待たせ、砂糖とミルクいる?」

「いや、大丈夫。どっちもいいよ」

「はーい」

 四角いローテーブルで僕の斜め前に座る市道紫帆。彼女も僕と同じくコーヒーをブラックのまま啜った。

 意外だ。甘い物とか好きだからてっきりコーヒーもクタクタになるほど甘くするものだと思ってたが、そんなことはないらしい。

「コーヒー、ブラックで飲むの意外だった?」

 マグカップで口元を隠しながら、市道紫帆が訊いてくる。

 少し見過ぎたのだろうか。僕はマグカップを持ったまま「あー……」と言葉を濁し、コーヒーをズッと啜った。

「そうだね、この前出かけたときは甘い物ばっか食べてたし」

「飲み物はね、甘いのはあんまりなの。なんか、喉にとろみが残るのが嫌で」

 ちょっと変わった理由だ。まぁ好みなんて人それぞれだからなんとも言えないけど。

「あと、甘い物食べながら飲む苦いコーヒーが一番おいしいから。ね? 柚臣くんも食べてみて?」

 嬉しそうに笑い、市道紫帆がお茶菓子として持ってきたクッキーを口に入れる。

 どこにでもありそうなチョコチップクッキー。やや歪んだ丸型のクッキーを一枚手に取り口へ放り込む。

 ポリポリと咀嚼し、ズッとコーヒーを啜る。まぁ確かに、これはブラックのコーヒーに合うな――なんて、呑気にコーヒーとクッキーをいただいていると、彼女がジーっとこちらを見ていることに気付いた。

 なにか間違えただろうか。マグカップを置いて小首を傾げると、市道紫帆が視線を右往左往させながら、おずおずと口を開いた。

「あ、あの、クッキーちゃんと食べれた? 変じゃなかった?」

 恥ずかしそうに訊ねてくる彼女。察するにこのクッキーは手作りなのだろう。それを何も言わずに差し出すなんて中々思いっきりがいいというか、チャレンジャー気質というか。

「全然、変じゃないよ。美味しかった」

 素直に感想を伝えると、市道紫帆はホッと安心したような表情を浮かべた。先ほど鼻息を荒くしながら僕のケツを揉んでいた人とは思えない。

「えへへ、よかったぁ……めっちゃ練習したんだぁ」

「練習って、お菓子作りを?」

「うん、紫帆のヒーローになってくれる人ができたら、食べてもらいたくって。ほら、手作りのお菓子とか渡すの、なんかヒロインっぽいよね」

 大きな目を輝かせながら語る市道紫帆。ヒロインっぽい、まぁ中らずと雖も遠からずというか、好きな人に対してベタな行動というか。

 まぁそんなことを指摘するほど僕は野暮な人間じゃない。ひとまず彼女の言葉を笑って受け流し、もう1枚クッキーをもらった。

「昔は料理とか苦手だったんだけど、色々特訓したんだ」

 過去を思い出しているのか、市道紫帆が腕を組みながらフンフンと頷く。

 料理って特訓して上手くなるものなのだろうか。せいぜい手際が良くなるとかそんなもんだと思うけど。

「てことは、今は普通に作れるってこと?」

「うん、うちは共働きだから紫帆が家族のごはん作ることもあるんだよ」

「それは……普通にすごいな。いやほんとに」

 僕も自分の分くらいなら作れるけど、そんなすごいものは作らないし、大抵の場合相浦さんが作り置きを用意してくれている。家族の分までだなんて、高校生にしてはすごいんじゃないかと思う。

「でしょ? 次はお菓子じゃなくてご飯ご馳走してあげるね。ブランジーノ、好き?」

「ぶらん……なに?」

「ブランジーノ。紫帆の得意料理なんだよ」

「……あぁ、あれか。ブランジーノ。鱸だっけ、あれのオーブン焼きだよね」

「……うん、そうだけど。えっと……知ってたの?」

「食べたことある」

「……どうやって食べるかも知ってる?」

「食べたことあるからね」

「思ってた答えじゃない~」

 へにょへにょと市道紫帆がローテーブルに突っ伏す。仕方ない。今はそうでもないけど昔はよく父とホテルのレストランで食事をとっていたのだ。洋食も和食も色んなものを食べさせられた。

「一応聞いておくけど、君が思ってた答えって?」

「うぅ……ブランジーノの食べ方が分からない柚臣くんに、紫帆がぴったりくっついて手取り足取り教えるつもりだったのにぃ……」

「足では食べないだろ」

 今回ばかりは父が『親子での食事の時間』を大事にしていたことに感謝するしかない。あれがあったおかげで僕は今助かっている。

「ていうか、マスクの話じゃなかったっけ?」

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