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3-7

 食事も無事に終わり、市道紫帆から布製のマスクとヘルメットとスーツ、それにポンチョを受け取った。あとはもう帰るだけ――そうして市道紫帆と共に玄関まで来たところで、彼女の母親である芙美香さんが背広を着てやってきた。

「帰るんでしょ? じゃあ送っていくから」

「え? いや、そんな。悪いですよ」

「こんな時間に未成年を1人で帰す方が悪いよ。大丈夫、昔はよく補導した子供を送ってたから」

「……補導した、子供ですか?」

「そっ、あれ? 言ってないっけ? 私警察官なの。捜査一課の刑事」

 気さくに笑う芙美香さん。サラッと出てきた情報に面喰いながらも僕はどうにか「そう、なんですか……」とだけ返事する。

 伝達の不備を訴えるように市道紫帆に視線をやると、彼女は僕と目を合わせ可愛らしく舌を出した。

 忘れちゃったとでも言いたげだ。まぁ彼女の母親が刑事だからどうということはないのだが。

「分かりました。お世話になります」

「素直でよろしい。じゃあ紫帆。ちょっと出てくるから。お父さん帰ってくるまでに洗い物片付けといてね」

「うぇ~今日紫帆がほとんどご飯作ったのにぃ」

「ちゃんとやっておいたらお父さんに黙っておいてあげる。親が留守の間に男の子連れ込んだこと」

「すぐにやります」

 市道紫帆が苦い顔をしながらも承諾する。芙美香さんはしたり顔で「よろしい」と言って先に玄関を出た。どうやら今日のお誘いは彼女にとっても突発的でイレギュラーなことだったらしい。

 ていうか、バレたらまずいって分かっていながらキスまでしようとしてきたのか。

「じゃあね、柚臣くん」

 上目づかいで見上げながら控えめに手を振る市道紫帆。親がいた手前、いつもの積極的なアプローチとは違うやり方に、どことなく可愛らしさというかいじらしさを感じ取ってしまう。

「あぁ、それじゃあ」

「うん、じゃあね」

 ふにゃっと彼女が笑う。いつも無遠慮にガツガツ来るから、たまに見せるこういうのに弱い。もしこれを意図してやっているとしたら、僕はどうしようもない間抜けだ。

 照れていることがバレないよう、サッと背中を向けて玄関から出る。

 芙美香さんはすでにエレベーターを待っていて、僕は手で口を抑えながら息を吐き、顔が赤くなっていないか心配しながらも彼女の母親の隣に立った。

 そのままやってきたエレベーターに無言で乗り込み、1階に降りる。裏側の出入り口から駐車場に出て、前を歩く芙美香さんの後を追う。

 メタリックシルバーのクラウン。ピッピッという電子音と共に少しくすんだ車のロックが解除される。

 当然芙美香さんは運転席に乗り、僕はひとまず後部座席に乗った。

「家の住所、憶えてるー?」

「はい、憶えてます。えっと、市内の――」

 すらすらと家の住所を伝えると芙美香さんは「あーあそこら辺か」と言ってエンジンをかける。

 ナビとか使わないのだろうか。少し顔を傾けて真ん中にあるモニターを見るが、芙美香さんがそれに触ることはなかった。

 ただ、それとは別にモニターの下にある小さなレコーダーデッキみたいな端末に触れ、電源を入れた。同時に端末から伸びた耳掛け式のイヤホンを右耳に着ける。

「じゃあ出発しますかー」

 ゆっくりと車が動き出す。静かな走行音と共に夜の景色が動く。

「紫帆のこと、色々ありがとね」

 最初の信号で止まったところで、運転席の芙美香さんが唐突にお礼を言ってきた。

 僕はひとまず窓の外の景色を眺めるのをやめて前を向く。

 フロントミラー越しに芙美香さんと目が合って、咄嗟に表情を隠すように額を掻いた。

「あの子、昔からあんな感じだから。きっと色々無茶言って柚臣くんのこと振り回してるんでしょ?」

「それは……まぁ、そうですね。振り回されてます」

「初めてなの。好きな男の子ができるの。多分付き合うのもね。だから分かんないの。どうアピールすればいいとかね」

 信号が青に変わり、車が再発進する。夜の街を進みながら僕は芙美香さんの言葉を反芻する。

 好きな男の子。あまりにもシンプルなその表現に思わず黙り込み、気まずい顔をしてしまう。

 だがその表情もミラー越しに見られてしまったようで、クスっと芙美香さんが笑った。

「ほら、あの子家では大人しいから」

「にわかに信じがたい話ですね」

 さっきは普通に元気だったし、キスを迫るほど。

「それで? 柚臣くんはうちの子のこと、実際どう思ってるの?」

 車が角を曲がる。やはり直接的なその物言いに、僕はミラーから視線を逸らす。

 なるほど市道紫帆の強気で遠慮なくグイグイ来る感じは母親由来のものらしい。

 つまり、ここで正直に答えておかないと、納得いく返事をもらえるまで、しつこいくらいに追及してくるのだろう。

 面倒だ。ただでさえ知り合いの母親だなんて気まずい相手だというのに。

「……えっと、まぁ、そうですね。いい人だとは思いますよ。明るくて、前向きですし、パワーもありますし」

「なんか一歩引いた意見だなぁ~男としてだよ?」

「それは……」

「うちの娘、かわいくない?」

「かわいい……と思います」

 言わされた。ミラー越しに表情を確認すると、さっきまでクールな表情しか見せていなかった芙美香さんがニヤニヤと目を細めていた。

 遊ばれてる。僕はハッと短く息を吐いて、首を横に振る。

「やっぱり綺麗ですし、それ以外にも、羨ましいなって思ってます。表現がおおらかというか、素直というか。無邪気で行動力があるところとかも、いいなって思います。僕には持ってないものですから」

「おーべた褒めだね」

「そりゃ母親の前ですから」

 そりゃそうだ。と言って芙美香さんが笑う。

 車が交差点を渡り、駅の近くの通りを走り抜けていく。

「でも本当に良かったよ。あの子に好きな人ができて。柚臣くんに助けてもらった日なんて家でもボーっとしちゃってさ。と思ったら急に元気になって、学校で柚臣くんにアタックしまくったんでしょ?」

「アタック……そうですね、あれはまさしくアタックというか、勢いで言うとタックル気味のアタックでしたけど」

「そうそう、と思ったら嫌われかも、どうしよ~って泣きついてきてね。なにやってんだかって思ってたらその日のうちにデートしてきたって満面の笑みで報告してきたし」

 芙美香さんの話を聞き、僕はひきつった笑みを浮かべる。

 あったこと全部親に報告してるのか。高校生で反抗期真っただ中だろうに仲が良すぎるだろ。

「正直、好きな人ができただけであんな元気に戻ったのはびっくりだけど、紫帆のこと、よろしくね」

「……はい」

 不本意ではあるがここはこう言うしかない。どうにか芙美香さんの言葉を吞み込みながらも、一瞬だけ、ワンフレーズだけが喉に引っかかった。

 元気に戻った――なんだか妙な言い方だ。それに、先ほどの発言と矛盾する。

 最初に芙美香さんは市道紫帆のことを昔からあんな感じだったと言っていた。なのに、今は元気に戻ったと言っていたのだ。どっちが本当のことなのだろう。

 戻ったということは、そうじゃない時期があったってことだ。でも彼女は昔からあんな感じだったってことは――口を引き結んで考えていると、不意に、前の席に置かれていた端末が光を発した。

 細長い液晶画面は光るだけで文字は映っていない。フロントミラーへ視線をやると、さっきまで穏やかな表情をしていた芙美香さんの顔がみるみる固くなっていく。

「柚臣くん、ちょっと止めるね」

 ぼそっと呟いて、芙美香さんが車を路肩に停める。

 なにかあったのだろうか。訝しんでいると近くのドアのロックが解除された。

「ごめんなさい、送るって言ったけど急用ができちゃって。ここで降ろすことになるけどいい?」

「え? あっ、はい。大丈夫です」

 こちらを気遣うような言葉のわりに、芙美香さんの語気は強めだった。とりあえず聞いてはいるが、有無を言わせない重みがある。

「ありがとう。それじゃあ気をつけてね。そうだ、あれだったらタクシー使って」

 芙美香さんが財布を取り出し、五千円札を差し出してくる。突然の金銭授受に僕は慌てて手を振った。

「いやそんな、悪いですよ。ここまで送ってくれただけでも十分です。ほんとに」

「いいから、持ってきなさい。その代わり、駅には絶対近づかないこと。いいね?」

「えっと、駅ですか?」

「そう、電車を使わないでバスかタクシーで帰って。いい?」

「はぁ、まぁ……分かりました」

 受け取らないと話が進まなさそうなので、仕方なく五千円を受け取る。

 ドアを開けてひとまず車から降りる。助手席の窓が開き、芙美香さんが僕を見上げた。

「寄り道しないですぐに帰ること。紫帆のこと、よろしくね」

「は、はい。どうも、ありがとうございます」

 ペコっと頭を下げると、助手席の窓が閉まる。なんの余韻もなくすぐに車が発進した。

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