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3-10

「ただい――」

「坊っちゃん! どこ行ってたんですか!」

 どうにか荷物を回収して家に着いた瞬間、秘書の相浦さんが飛び出してきた。

 ただいまの挨拶をかき消すほどの大声に僕はビリビリと震えながらもどうにか目を開けて前を見る。

 エプロンをつけた相浦さんが木べらを片手に僕へ迫っていた。

 ぴくぴくと眉毛を動かして、腰に手を当てて、足を肩の位置まで開いて立っている。

 これは怒ってる。確実にブチ切れてる。

 あまりの剣幕に僕は委縮してしまい、玄関から上がることすらできない。苦笑いをしながら上目づかいで彼女のご機嫌を窺う。

「いやまぁ、別に、ただ遊んでただけだよ」

「遊んでた!? 近くで事件があったこと知らないんですか!? 駅に通り魔が出たって! 本当に知らなかったんですか!?」

「あー……まぁ聞いてはいたけど、近くはなかったし……」

「そういう問題じゃありません! 市内どころか最寄り駅ですよ!?」

「あそこは最寄り駅じゃないよ。地下鉄なんて滅多に使わないし……」

「柚臣坊っちゃん!」

 相浦さんの圧に僕はビクッと身体を揺らし、降参とばかりに両手を上げる。

 坊っちゃんって言うなって言いたいけど、今はタイミングが悪い。

「……ごめん、悪かったよ。その、自分には関係ないって思ってたから、こんな大ごとだと思ってなかったんだ。心配かけてごめん」

 とにかく謝るしかないだろう。首を横に振って謝罪の言葉を並べると、相浦さんは前のめりになっていた姿勢を正し、目を伏せて溜息を吐いた。

「私はこの仕事に就いてからずっと坊っちゃんのお世話をしてます。もう何年も。そりゃ最初は仕事だから仕方なくって部分もありましたし、今でも全くないわけじゃないですけど、だけど今はそれ以上に、坊っちゃんのこと、大切に想ってるんですよ?」

「うん……分かってるよ。本当に」

「分かっているなら、心配させないでください」

 そう言って、相浦さんがキッチンへと戻っていく。どうにも前を向けなくて、視線を下げたまま靴を脱いで玄関から上がる。

 気まずい思いを抱きながら家の中を歩く。リビングに入ったところでキッチンにいる相浦さんがいつもの調子で「ご飯もう少しでできますからね」と声をかけてきたので、ひとまず「わかった」とだけ返事をした。

 階段を上り、自室に入る。リュックを放ってソファに座り込むと、丁度ブレザーのポケットに入っていたスマホが震えだした。

 反射的にスマホを取り出し、画面を確認する。着信の通知で相手は市道紫帆だ。

 フッと息を吐き、ソファのひじ掛けに置く。スッと画面をスライドさせて応答した。

『柚臣くん! 柚臣くん! 大丈夫!? 柚臣くん大丈夫!?』

 スピーカーから市道紫帆の甲高い声が聴こえてくる。耳に当てなくてよかった。もしやってたら今頃大惨事だ。

「大丈夫だよ。そっちこそ無事だった?」

『紫帆? こっちは別に大丈夫だけど』

「君じゃなくて、君のお母さん。通り魔事件の対応してたんだろ?」

『あ、うん。そうそれ! それなんだけどね! ニュース見た!? ニュース!』

「ニュースってテレビの?」

『なんでも! テレビとかネットとか、ネットの方がいいかも!』

 間違っても階下の相浦さんに聴こえないよう通話の音量を下げて、スマホの画面を切り替える。

 ネットで検索してみると、駅で危険な化学薬品をばら撒こうとした通り魔の男と、それを阻止した警察のニュースが載っていた。

 そしてそこには通り魔の男が連行されている写真と、全身タイツのようなスーツ姿にヘルメットをかぶり、ポンチョを羽織った男の写真も掲載されている。

 いや、写真だけじゃない。SNSアプリのユーザーが撮った動画まである。ヘルメットの男がバスから駅前に降り立ち、駅へと走って突入する様子だ。

『これ柚臣くんだよね! 紫帆が渡したあのスーツとヘルメットで――』

「興奮してるところ水を差すようで悪いんだけど、もう少し声のボリューム落としてくれ。誰かに聞かれたくない」

『そ、そうだった。2人だけの秘密だもんね。えへへ……じゃ、じゃなくて!』

 静かになったり興奮したり、電話越しでも変わらないなと思いながらぐーっとソファに身を沈める。

『あ、あの……お母さんのこと、助けてくれたんだよね?』

 うって変わって淑やかな声色に僕は少しだけ身を起してスマホの画面を見下ろす。

「そりゃあ、放っておくわけにはいかないからね。不本意ながら、僕は人とは違う力を持ってるわけだし」

『うん……ありがとう。柚臣くんがいてくれて良かった』

 それだけ言いたかったの。そう続けて、市道紫帆は通話を終わらせた。

 静かになった部屋の中で、僕はローテーブルに肘を置き、頬杖をつく。

 相浦さんに心配をかけて怒られたときは正直ちょっと凹んだけど、まぁでも、助けたい人を助けられたのだ。きっとこれで良かったのだろう。

「いてくれて良かった……ねぇ」

 ネットニュースのサイトで流れているショート動画を観て、僕は思わずほくそ笑んだ。

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