田喜野井海美からの提案を承諾すると、彼女はおもむろにスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。名前も知らない『誰か』へと繋がると、明るい調子で会話を進める。
1分ほど経ったところで『誰か』との通話が終わる。スマホをライダースーツの内側へしまい、僕と目をあわせてニヤッと笑った。
「交渉は成立。今ならどこからでも入れるよ。まぁでも犯行グループからバレずに近づきたいならやっぱり裏口からがいいんじゃないかな」
「……本当に大丈夫なのか?」
「もちろん、私、仕事は手堅くやらせてもらうタイプだから」
いまいち信用できないが、ここでグダグダ言っても仕方がない。仮に田喜野井海美がどうにかしてくれなかったとしても、なんとかして入らなければならないのだから。
警戒を維持しながらレストランの裏口を見る。バイザーでズームすると裏口付近が拡大される。
現状見張りは見受けられない。侵入することはそう難しくはないはずだ。
「じゃあ後はよろしくね、スロウ。犯行グループを捕まえて、人質も無事に返してあげて」
「言われなくてもそうするさ。僕も仕事は手堅くやるタイプだ」
「……ならいいけど。こんなところで死なれても困るからね」
随分心配されている。僕は振り向いて田喜野井海美の顔を見て、またすぐに前を向いた。
グッとお腹の下に力を入れてビルの屋上から飛び降りる。そのまま街灯の上に飛び乗ると鈍い音が鳴り響き、周囲の人達の視線が一気に集中した。
その中に、大きなカメラを抱えた男性とマイクをつけた女性がいた。よく見るとキー局の腕章をつけている。
これまでの事件でもテレビが生中継をすることもあったが、大体地方かネットのテレビ局だ。まさか全国ネットで放送されているキー局だなんて。
少しはスロウも名前が売れてきたのだろうか。それとも事件の注目度が高いのか。ヘルメットの下でフッとほくそ笑むと同時にカシャカシャカシャっと連続でシャッター音が響く。
テレビ局の人間だけじゃない。そこに居合わせた野次馬連中も一斉にスマホを取り出し、スロウの写真を撮り始める。
「スロウです。警察による包囲網が敷かれた中で、たった今スロウが現れました! 街灯の上で器用にバランスを取り、現場を眺めています」
「スロウじゃん。あたし初めて見た」
「え? 見えないんだけど、どこ?」
「背ぇたかっ! ていうかでっか!」
「なんでそこに上ってるんだ」
「助けてスロウ! 人質がいるんだ! 早くしないと殺されちゃう!」
「スロウは現在現場付近の裏口で街灯に乗ってたたずんでいます。を無辜の民を守るために犯行グループを捕まえるつもりなのでしょうか」
各々がそれぞれ言いたいことを好き放題にぶつけてくる。
律儀に答える必要はないだろう。僕は街灯の上から勢いよく跳んで、包囲網を敷いている警官隊の前に降り立った。
「待てスロウ! これ以上現場に近づいて犯人を」
「待て! 上の指示だ! スロウを見過ごせ!」
とびかかろうとしてきた1人の警官を隣の警官が止める。
どうやら田喜野井海美の『仕事』は上手くいったらしい。彼らに視線をやりながらも、歩いてレストランの裏口へと向かう。
当然ではあるが裏口には鍵がかかっていた。端末にパスワードを入力するタイプの電子ロックだ。
まぁスロウには関係ない。テンキーに触れて意識を集中させると、自然に瞼が下りてくる。
真っ暗な視界の中で頭の中に数字が浮かび上がってくる。もやもやとしたイメージが段々と形作られてきて、やがて、4つの数字が順番に浮かんでは消えていく。
暗闇の世界でピピッと音が鳴り、鍵が開く音が聴こえてくる。そのまま手前に引いてドアを開け、店内へと入った。
「……こないのか」
てっきり入ったその瞬間に襲われると思ったが、そんなことはなかった。
照明が点いた廊下には僕1人だけ。犯行グループは確か6人と言っていた。リーダー格の交渉役が1人、制圧役が2人くらいは必要なはずだ。
つまり、メンバーの半分はメインフロアにいるはず、それ以外のメンバーはどこにいるのだろう。
そもそも、犯行グループはスロウの介入を知っているのだろうか。もしも知られているとしたら、スロウを迎え撃つために何人か人員を割いているかもしれない。
裏口のすぐ横に設置されたアルミ製のスウィングドアには丸い窓がついていて、厨房の中がうかがえる。窓から中を覗くが、見た限りそこには誰もいないようだ。
そのまま進むと上へ続く階段があった。確か以前父と来たときは2階席に案内された憶えがある。
店員と客は1か所に集められているはずだ。そしてそれを見張る人員も近くにいるはず。
ただ、少し離れたところで全体の動きを見る役目も必要だ。2階席は1階のメインダイニングを見下ろせるようになっているので、そこなら都合がいいかもしれない。
人質がいる以上、1階から馬鹿正直に突撃して犯人達を刺激するべきじゃない。足音を立てないようそっと階段を上っていく。
壁にくっついて2階の様子を窺う。予想通り、2階席の手すりに2人の男が寄りかかっている。
あと1人いないのは気がかりだが、とはいえ、いつまでもここでジッとしているわけにもいかない。
2階席へと突入する。足音を消しながら歩き、奴らの横顔――ピエロの仮面をかぶっているので見えないが――を捉えたその瞬間、僕は両手を突き出した。
2人を視界に捉え、グッと力を込める。同時に2人の動きがスロウになり、僕はそのまま2階席の手すりを掴み、階下を覗く。
通りが見える大きな窓の近くには人質が固められている。おそらく1階のメンバーはその手前側にいるのだろう。人質を盾にしているのだ。
そして、集められた人質の中に、やはり市道紫帆がいた。拘束はされてはいないようだが楽観視はできないだろう。
それにしても20人はいる人質を誰も拘束していないなんて、犯行グループはよっぽど自信があるのか、間抜けなのか。
チラッと視線を上に戻す。それなりの大きさのシャンデリアがぶら下がっていて、それ以外に装飾は見当たらない。気を付けて戦わなければあれが落ちてきてなんてことになりかねない。
ひとまずスロウにした2人を――
「うおぉおぉおぉ!!!」
片付けよう。そう思ったところで、2階席の手前側にあるバーカウンターから1人の男が飛び出してきた。
その手には拳銃があり、僕は息を呑む。
この前の宝石店強盗の奴らが持っていた金属製のモデルガンとは違う、銀色の銃だ。
改造エアガンかもしれないが、本物の可能性もある。少なくとも、偽物ならこんな無鉄砲に突っ込んでこないだろう。
突っ込んできた男が引き金を引く前に右手を突き出す。
男の動きがスロウになり、僕はすぐ近くにいた別の男を掴み、銃を持った男にぶつけた。
2人の男が頭から正面衝突し、その場にもつれるように倒れ込む。
大きな物音に階下がざわつく。既にバレているだろうから、ここから先は慎重さよりも迅速かつ大胆な動きが必要だ。
未だスロウのまま1人残った男の身体を持ち上げる。本来の時間を取り戻した瞬間、男は「うわっ! あぁあぁっ!?」と叫ぶ。
相手が混乱状態のまま、男を階下に落とした。
「おいどうしっ、うわぁっ!」
男の叫び声と共にズダンッと鈍い音が鳴る。
おそらく1階にいたメンバーが落下に巻き込まれたのだろう。
情報が正しければ残りは2人だ。手すりに足をかけ、そのまま1階へと飛び降りた。