「なっ!」
なんでという前に僕の身体は斜め前へと吹っ飛ぶ。
同時に飛びついてきた市道紫帆も床に身体を打ち、2人でゴロゴロと転がった。
1回、2回と回転し、色んなところに身体を打ちながらどうにか止まった。正真正銘の不意打ちだ。膝とか肩とか腕とか、あと首も痛い。
「いたぁ~い……」
僕の胸の上で市道紫帆が呻く。見ると彼女もまたボロボロで、額に傷ができていた。
通信していると思っていたが、まさかこんな近くまで来ていたなんて。
しかも体当たりで止めてくるとは。もっと穏便な方法があっただろうに。
「つぅ……ったく、君ってやつはほんとうに」
痛みに呻きながらもどうにか彼女の肩を掴み、グッと押し上げる。
同時に身体を起こし、周囲に視線をやる。幸いなことに僕達を見ている人はいないようだった。
「柚臣くん、わたし」
「こっちだ。ここじゃまずい」
彼女の言葉を遮って近くにある関係者用通用口の通路へと入る。外への通用口ドアに手をかけ超能力で鍵を開ける。
ドアを開けて外に出ると、ほのかに熱い風が吹き込んでくる。ヘルメットを操作してバイザーを引き上げると、涙目の彼女がそこにいた。
「……どうして、わざわざ止めに来たんだ」
「柚臣くんを行かせたくないの。危ないから行っちゃダメだよ」
さっきも聞いた言葉だ。僕は眉間にしわを寄せて顔を傾ける。
「これまでだって危ないところに飛び込んできた。同じことだろ」
「同じじゃないよ。人と炎は違う」
「父さんと相浦さんが巻き込まれてるかもしれないんだ。家族は見捨てられない」
「救助活動はもう始まってる。柚臣くんまで行く必要はないよ。きっと助かるよ」
「……本気で言ってるのか」
沸々と熱くなっていく。ただでさえ、焦っているというのにそんな温い言葉で僕を説得しようとしているのか。
だとしたら見積もりが甘い。あまりにも楽観的だ。
いや、もしかしたら悲観的なのかもしれない。僕が絶対に火災に巻き込まれて倒れると思い込んでいる。だから止めているのか。
市道紫帆は責めるような僕の視線から顔を逸らし、肩を小刻みに震わせながらふるふると首を横に振った。
「家族が心配なの、分かるよ。でも、ヘタしたら柚臣くんまで巻き込まれちゃうよ」
「別に家族だけの話じゃない。今も救助を待ってる人達がいる。救助活動が始まってる? 本当にそれでいいならそもそもヒーローなんて必要ないだろ」
警察でもレスキューでもどうにもできない問題。それを解決するのがヒーローだ。それは市道紫帆だって分かっているはず。
「それに君が望んだんだ。人を助けるヒーローになってほしいって」
「私が望んだのは柚臣くんだけだよ。柚臣くんに傷ついてほしくないの」
「僕には力がある。助けられるかもしれないのに、それを放ってはおけない」
「ヒーローが全員を助ける必要はない。特別な力がなくたって助けようとしている人達がいるんだから」
「レスキューの人達のこと? それか君の母親? それとも……亡くなったお兄さん?」
市道紫帆が絶句した。
大きな目をさらに見開いて、ぽかんと口を開ける。
ゆっくりと顔色が変わっていく。白い顔を青くして、ワナワナと唇を震わせて僕を見上げてきた。
僕はそんな彼女を見下ろして、鼻から息を抜く。
「君のお母さんから聞いたんだ。お兄さんはビルの火災で亡くなったんだろ」
市道紫帆の兄である市道青葉は、幼い頃からヒーローを夢見る男の子だった。
コミックブックのヒーロー『ホーネット』に憧れを抱き、彼のようになりたいと、生きるようになった。
しかし市道青葉は運動神経が悪く、知能だって人並だった。特別頭が切れるわけではなかった。
ただ持ち前の正義感だけは立派なもので、困っている人がいたら必ず救いの手を差し伸べて生きてきた。
目の前に立ちふさがる巨悪や理不尽に、躊躇うことなく立ち向かえる人間だった。
そう、全て『だった』という言葉で締めなければならない。
なにせ彼の生きざまも、憧れも、彼自身さえも、既に過去の存在なのだ。もうここには、この世界には存在しない。
「君よりも年下の男の子を助けるために燃え盛るビルの中に入って、その子を助けて亡くなった。そう聞いたよ」
市道青葉は強い正義感を胸に宿した男の子だった。
誰かを助けるためなら自身を犠牲にしても構わない。そんなこと、言うだけなら誰だってできる。
だけど市道青葉は違った。躊躇もあっただろう、後悔も尽きなかったはずだ。
それでも彼は、最終的に誰かを助けて命を落とすことを由とした。
普通の人間のメンタルじゃできないことを彼はやり遂げたのだ。
それが若さゆえの怖いもの知らずだったのか、本当に彼自身の信念によるものだったのか、もはや分からない。
だけどその生き方は、妹である市道紫帆に強い意志を残した。
取り残された子供の話を聞いて、燃え盛るビルの中に入っていく兄の背中を見た。そんな姿を見てしまったのだ。ヒーローに憧れるのも理解できる。同時に火災を徹底的に忌避して、普段とは真逆の言動になることも。
だけどそれだけだ。僕だって理解はできるけど、共感はできない。
「……悪いけど、僕は違う。君のお兄さんみたいに立派な人じゃない」
彼のことを思い出したのだろうか。気まずい表情で俯く市道紫帆へ、僕は吐き捨てるように言い放つ。
「ヒーローだってやってみたけど、本物にはならなかった。ヒーローごっこのままだ」
「そんな……そんなことないよ。柚臣くんはちゃんとヒーローとして」
「ヒーローとして? そうなるようにしたのは君だ。君が、亡くなった兄の形に僕を填め込んで作り上げたんだろ」
「ち、違うよ。私はそんなつもりじゃなくて、柚臣くんに、私だけのヒーローになってほしくて……」
市道紫帆が顔をあげて縋りついてくる。
大きな目をさらに大きくして、瞳を震わせて、僕の腕を強く握りしめる。ポンチョで覆われた僕の腕をギュッと掴んで離さないようにくっついてくる。
「言っただろ。僕はヒーローじゃない。ましてや君のお兄さんでもない……ただの水瀬柚臣だ」
ポンチョを留めているボタンを取り外す。
そのまま手で引き剥がすと、ポンチョは身体からズレて落ちていく。
必然的にポンチョの上から僕の腕を掴んでいた彼女の手も離れる。
「ゆず……おみくん?」
剥がれたポンチョを掴んだまま、市道紫帆が僕の名前を呼ぶ。
僕はすぐに応えず、彼女の頭越しに燃え盛るホテルを眺める。
上層の屋外プールの近くでヘリがホバリングしている。状況は今どうなっているのだろうか。父と相浦さんはあの中にいるのだろうか。
とにかく確認するしかない。再び視線を戻し、市道紫帆を見下ろした。
「君の願望は歪んでるよ」
叩きつけるような僕の言葉に、市道紫帆がビクッと肩を揺らす。
怯えた表情で僕を見上げる。彼女のこんな表情見たくなかったけど、もうどうしようもない。
「君が求めたのは、たくさんの人を助ける『本物のヒーロー』じゃなくて、自分がコントロールできる『私だけのヒーロー』だ。たくさんの人を助けたい。それを間近で見ていたい。だけど誰かのために死んでほしくない。死ぬんだったら私のために死んでほしいって?」
彼女の大きな目に涙が溜まる。
パクパクと口を動かすが、声が出ていなかった。
「そうやって、自分のことばっか考えて生きてろよ」
ヘルメットを脱ぐ。呆然とする彼女へ押し付け、背中にあるスーツのチャックをおろす。
着替えが入った荷物は確か路地にあるロッカーに押し込んできた。そこまではこのスーツを着ていなきゃいけないけど、大した問題じゃないだろう。
視界の奥に映っているヘリから梯子と共に人が降りてくる。同時に救助を待っていた人達が動き出し、救助隊員らしき人と合流する。
市道紫帆の言う通り、あそこにスロウは必要ないみたいだ。彼女を一瞥する――こともせず、僕はドアを開け、来た道をそのまま戻ることにした。