「水瀬誠治さんでしたら、B棟の5階、502号室になります。ご面会は2時間の2名までになりますが……」
病院受付の職員が相浦さんを見て、後ろにいる僕を見る。他に人がいないことを確認するとにこりと笑った。
「大丈夫ですね。B棟へはあちらの通路を進んでください。少し歩くと薬局があって、その隣、奥に進むとエレベーターホールがございますので、そこから5階へ――」
職員の説明を相浦さんが聞く。その様子を僕はボーっとしながら眺める。
「どうもご丁寧にありがとうございます。では坊っちゃん、行きましょうか」
「……うん」
短く頷いて返事をすると、相浦さんは仕事用のバッグを肩にかけたまま唇を尖らせて小首を傾げた。
「あのー坊っちゃん?」
「なに? 行くんでしょ。父さんのとこ」
「……そうですね、行きましょうか」
相浦さんが何度か小刻みに頷き、ようやく歩き出す。
彼女にしては珍しいレスポンスの遅さに違和感を覚えながらも、すぐにそれを隅においやり、後ろをついていく。
あの事件が起きたとき、父も相浦さんもホテルにいた。
だが2人とも2階のホールにいて、海外からの『上客』の相手をしていたらしい。
そして事件が起きた。父はパニックが大きくなる前に『上客』を避難させ、さらにスタッフへ指示を出しながらその場にいた客を避難誘導した。火災には直接巻き込まれなかった。
ならばなぜ今入院しているのか。聞くところによると、避難途中で階段から足を踏み外して転げ落ちようとしていた女性を助けようとして飛び出して下敷きになったのだ。
幸い高さはそんなになかったので命に関わることはなかったのだが、腰と膝を痛めたらしく、現在入院中だ。女性を助けて怪我を負うというところがなんとも父らしい。
因みに火災が起きた22階より上に宿泊していた客は全員救助された。避難の際に軽く煙を吸ってしまい、具合が悪くなった人はいたが、火傷だとかそれに付随した怪我をした人はいなかったと報道があった。
ただ、墜落したヘリを操縦していた自衛隊の隊員は両名とも重傷とのことだ。とはいえ今回のことで1人も死亡者がでなかったのはまさに奇跡だろう。
「誠治さん、きっと喜ぶと思いますよ。坊っちゃんがお見舞いに来てくれるなんて。それもサプライズで」
前を向いたまま相浦さんが言う。そう、僕が今日病院に来ることを父は知らない。
正直最初はそんなしょうもない理由で怪我をした父を労わる必要なんてないと思ったのだが、まぁ数日とはいえ入院しなければいけないほどの怪我だし、どうせやることもないので行こうと思ったのだ。
「サプライズにしたのは相浦さんでしょ。僕は別に伝えていいって言ったのに」
「そうでしたっけ? どっちでもいいよって言ってたと思いますけど」
廊下のガラス越しに相浦さんの笑っている顔が見える。
気恥ずかしさを感じながらも、僕はきゅっと口を引き結んで歩いた。
「502号室。ここだ」
廊下を渡ってすぐ、病室が見えてきた。相浦さんがドアをノックして、「失礼します」と言いながらドアをスライドさせる。
ベッドの上で、父が女性看護師の手を握っていた。
「……誠治さん?」
相浦さんが淡々とした声色で父を呼ぶ。
父と女性看護師が振り向き、相浦さんを見て、その斜め後ろにいる僕を見た。
「あ、あぁ! 面会の、ご家族の方ですか? じゃ、じゃあ水瀬さん、私はここで! 失礼します!」
女性看護師が慌てて手を離し、顔を赤くしたままバタバタと動き出す。
入り口で立ち尽くしている僕と相浦さんの横を通り、「すいません、失礼します」と言って去って行った。
1人になった病室へ入り、気まずい表情をしている父を見る。
相浦さんは買ってきた花を交換するため、何も言わず窓際へ向かう。
そして僕は眉間にしわを寄せて怪訝な表情で父を見た。
「……クソじじいが」
「じじい!? せめて親父だろ!」
頭の中に急浮上した言葉を反射的に呟くと、父がアガッと口を開いた。その後すぐに「いたたたっ」なんてわざとらしく腰を押さえる。
そんな父を見て、僕は少しも心配することなくほくそ笑む。
「相浦さん、病院じゃなくて自宅療養で良かったでしょ。どうせ大した怪我じゃないんだから」
「ま、待て柚臣。父さんこう見えてもうすぐ40になるんだ。40で腰と膝を同時は結構に重症なんだぞ」
「だめですよ坊っちゃん。自宅療養なんてさせたらそれこそ毎日違う女性を家に呼ばれちゃいます」
「相浦君、私はそこまで不埒な人間では」
「じゃあせめて四人部屋とかにぶち込んでおけば良かったんだ。女を呼ぶために個室なんて、熊に人間の食べ物を与えるようなものだろ」
「柚臣、父さんを無視するな。あと個室は私が望んだものじゃない。病院側の都合だ」
父の言葉を聞きながらも反応はせず、僕は溜息をついて近くにあるイスを引っ張ってきて座る。
相浦さんも手早く花を交換し、父を挟んで向かい側に座った。
「それで? 病状はいかがですか?」
「あぁ、医者の話だと順調らしい。あと1週間様子を見て、とのことだ」
「1週間ですか。うーん……」
「長すぎるか? それならもう少し早めてもらっても」
「いえ、短すぎます。最低でも2週間くらいは休んでいただかないと」
相浦さんのハッキリとした物言いに父は目を丸くする。てっきり退院を急かされると思ったのだろう。
「いやいや、相浦君。そんな長い期間休むわけにはいかないだろう。片付けてない仕事がいくつもあるんだぞ」
「大丈夫です。誠治さんがいなくても円滑に進むよう引継ぎはできています。大体、誠治さんは働きすぎですよ。有給も溜まってますから」
「そんなことは……ほら、色々使ってるだろ」
「坊っちゃんの入学式で使ったのが最後ですよ」
会話の最中に突然名前を出され、そういえばと思い出す。
確かにあの日は朝から父と一緒で、若干鬱陶しかった。
とはいえそれ以降父が一日中家にいるみたいなところを見ていない。
あんな遊んでる感じを出してる、というか確実に遊んでいるというのに、休みは消化していないのだろうか。
「酔って帰ってきたときとかは? 遊びじゃないの?」
「ああいうときは仕事関係の飲み会です。抱え込んでいる仕事が忙しくてご自宅に帰れないときはホテルの部屋を使っているんですよ。まぁそのとき女性と同衾することは無きにしも非ずですが」
最後に付け足された情報は少し余計だったが、それにしてもまさか父が連日遊び歩いているわけではないなんて、全然知らなかった。
相浦さんの話に内心驚いたまま父を見ると、フッといつも通りの軽薄な笑みを浮かべた。
「相浦君が脚色しているだけだ。仕事の飲み会なんてほとんど遊びだよ」
「じいさん共のご機嫌伺いをする飲み会なんてちっとも楽しくない。仕事じゃなかったらやらない。と以前に仰ってましたね」
「……相浦君。君は一体どっちの味方なんだ」
また珍しく少し苛立ちの表情を浮かべながら相浦さんを詰める。
しかし相浦さんは涼しげな笑顔で父の言葉を受け流すだけだ。
父はあまり僕に仕事の話をしない。いや、したとしても面白おかしく遊んだとかそういう類のものだけだ。決して嫌な部分を漏らしたり、愚痴は言わない。
以前相浦さんにその話をしたら「親ってそういうものですよ。特に父親は」と言われた。
要するに父は息子の前で弱音を吐くようなヤワなところは見せないのだ。
それが父親としてのあり方として正しいのか僕には分からない。
まぁでも、今みたいに相浦さんに意地悪されている父を見るのはそれなりに愉快だ。
いつも通りの平穏な日常。僕がずっと望んでいたものがここにある。
「それにしても柚臣がお見舞いに来てくれるとは思わなかったな。最近忙しいみたいだったし。大丈夫なのか?」
「……まぁね。でももういいんだ。面倒なことは片付いたから」