スロウという名前を捨てて数週間が経過した。
僕が住んでいるK県Y市は相変わらず観光客がそれなりにいて、それなりに事件も起きている。
それでも、平和といえば平和だ。特に僕の周りでは事件らしい事件は起こらず、夕方のニュース番組で窃盗事件があったとか、人身事故があったとかを知るくらい。
ネットではスロウが姿を現さなくなったことが少し話題になったが、数日ほどで別の話題に埋もれていった。
仕方ない、そんなものだ。人々の記憶から消えていくのなんてあっという間だろう。
後悔はない。僕が助けなくっても助かる人はいるし、別にスロウを名乗らなくても人助けはできる。
実際、僕には超能力が残ってるし、この前だって商店街でひったくりがあったときもこっそり助けた。
だけどヒーローになりたいわけじゃない。戻りたいわけでもない。
僕はただ、平穏な日常が欲しいだけだ。
「ただいま」
学校を終えて家に帰る。いつも通りの日常だ。僕と父の運動靴に、父の質のいい革靴。黒と茶色で2足。軽く外へ出るときのためのサンダル。ここまで眺めて、父がいつも履いている靴が置いてあることに気付く。
父が家にいる。まだ夕方だというのに。
それに匂いもする。香ばしい匂いだ。
僕は自分が履いていた靴を乱雑に脱ぎ捨て、玄関から家に上がる。
リビングに直行すると、やはり父がキッチンに立っていた。
「おう、柚臣。おかえり」
エプロンを着けた父が僕を見て微笑む。
僕が女性だったら、特に父が働いている会社の女性社員だったら普段は見せない家庭的な部分にドキッとするところだろうが、残念ながら僕は水瀬柚臣。水瀬誠治の息子だ。そんな、大人の色気すら感じさせる微笑みを正面から受けてもなんとも思わない。
「ただいま……今日はなに作ってんの?」
父の手元へ視線をやると、見慣れない機械があった。
オーブンレンジとかだろうか。丸みを帯びたデザインに真っ黒なボディは機関車のような、貨物列車のような、それをそのまま小さくしたみたいな感じだ。
そしてその機械の周りにはいくつか食材が並んでいる。鳥と豚と牛、様々な種類のチーズ、ナッツなどが並んでいる。
「あぁ、柚臣。ほら」
キッチンから父が僕を呼びつける。めんどって思いながらも無視するともっと面倒なことになるので制服のままリュックだけを置いてキッチンへと向かう。
近づくとますます匂いが強くなる。僕ならともかく相浦さんは部屋に匂いがうつると怒りそうだ。
「ほら、食ってみろ」
父が焼いた鶏肉の切れ端を渡してくる。よぉく見ると焼き色が普通とは少し違う。それに、さっきから部屋に漂っている香ばしい匂いはこの鶏からだった。
なんとなく想像つくけど、ひとまず鶏肉の切れ端を口に放り込む。
ふわっと温かさが口に広がり、香ばしい味と匂いが舌を通して伝わってくる。
もぐもぐと何度か咀嚼して呑み込み、目の前にある真っ黒な機械を見た。
「あーこれ、燻製器?」
「そうだ、燻製だけじゃないがな」
父が少年のように笑う。まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいだ。
「また凝ったものを……」
目の前にずらりと並ぶ食材を見下ろして、僕は呆れた調子で呟く。
父の腰と膝はほぼ完治して、ついこの間退院した。しかし、退院したものの仕事の復帰は許されず、家で休むよう相浦さんから言い渡された。
父の趣味のほとんどは外に出かけなければならないアクティブなものがほとんどだ。家の中でやることといっても地下の小さなトレーニングルームで体を鍛えることくらい。当然しばらくの間は使用禁止だ。
たまにはゆっくり読書をしたり音楽を聴いたりしてゆっくり過ごすのはいかがですか。というのは相浦さんの言だ。正直僕としては父がずっと家にいるというのがどうにも不思議というか、慣れないので、早めに仕事復帰してほしいものなのだが。
まぁ僕の気持ちはともかく、自宅で暇を持て余した父は相浦さんの言う通り気になっていた小説を読んだり、映画を観たり、レコードで音楽を聴いていた。ただそれと同時になにか凝ったことをしたかったようで、手を出したのが料理だった。
香辛料にこだわったカレーとか、本格中華料理とか、厳選した粉を使ってのそば打ちとか。とにかくコストパフォーマンスを無視した料理を作り出したのだ。
そして今回は燻製だ。いくらするんだか分からんマシンまで買って、それはそれは楽しそうな顔で料理に励んでいる。
無論、これの相手は僕と相浦さんだ。
僕は父の息子でこの家に住んでいる以上、逃げることはできない。最近は学校から帰る度に父のこだわりぬいた料理を食べることになり、さらにどうこだわったかも聞かされる。
相浦さんも同じだ。そもそも父に家で大人しくしていろと言ったのは彼女だし、父の秘書というか部下なのでこういうことには付き合わざるを得ない。
「今日はこれを使って本格ローストチキンでも作ろうと思ってな。少し時間かかれるかもしれないが柚臣腹減ってないか? 大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ごゆっくり……」
そそくさとキッチンから離れ、リビングに戻る。1人掛け用のソファに座り、身を沈める。
そりゃ最初は僕も俄かに喜んだけど、毎日のようなあんな気合の入ったご飯を作られるとちょっとしんどいというか。
あぁ、こういうときに父が女性を呼んだり他の部下を呼んでれば僕と相浦さんだけで処理することにはならなかったのに。
これからの時間を考えてげんなりしていると父がキッチンから戻ってきた。
エプロンをつけたまま僕の斜め向かいにあるソファに座る。
「そういえば柚臣、あれからどうなんだ?」
父が寛ぎながらも顔を傾けて僕に訊ねてきた。
しまった。こういう質問が来る前に自分の部屋に逃げれば良かった。なに気を抜いてるんだ僕は。
「あれからって、なに?」
なんとなく、質問の意味は分かってるけど、ひとまず訊き返してみる。
すると父はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ足を組んだ。
「決まってるだろ。市道さんのところの娘さんだよ。紫帆ちゃんだっけ?」
やっぱりだ。思ってた通りの質問と父の顔に僕は隠すことなく溜息を吐き、ひじ掛けにひじを立てて頬杖をつく。
「別に、なんともないよ。ていうか、もう関係ない」
吐き捨てるように呟くと、ニヤニヤ顔をしていた父が表情を変える。
そんなにも嫌悪感を出してしまっただろうか。一瞬、市道紫帆の顔が頭の中に浮かび、すぐに砂嵐が走らせた。
「関係ないって、なんだ? ケンカでもしたのか?」
「そんなんじゃないよ。そもそも、ケンカできるほどの仲じゃなかったんだ」
「やっぱりなにかあったんじゃないか。どれ、この父に少し話してみろ」
言いながら父が笑う。だけどその笑みは、いつもの僕をからかうようなものではなくて、子供を心配する親の気遣いのように見えた。