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5-5

 少しだけ迷ってしまう。

 スロウのことに関しては当然伏せておくとして、どこまで話していいのだろうか。

 そもそも、こんなこと、人に話してどうにかなるものなのだろうか。もう終わったことだというのに。

「別に全部話せとは言わないよ。今の自分の気持ちとか、そういうことでもいい。ゆっくりでいいから自分が思ってることを言葉にしてみるんだ」

 迷っている僕の心を読み取ったのか、父が優しい言葉で誘導してくる。

 僕は頬杖をついたまま静かに鼻から息を抜き、下を向きながら口を開いた。

「結局、彼女が想ってたのは僕じゃなかった」

 ひとつ、思ってたことを口に出して言葉にすると、それに付随して次の言葉がどんどん溢れてくる。

 弾けるように飛び出してきた生の感情を必死に堰き止める。このままこれを吐き出すわけにはいかない。

「彼女が見ていたのは僕の後ろにあるもので、自分自身だった。そりゃ、分かってたさ。分かってたよ。でも、少しだけ、彼女のことを……いや、その……僕が勝手に期待してただけなんだ」

 僕のたどたどしい言葉に父はなにも言わない。ただ真剣な瞳でジッと僕を見るだけだ。

 本当は、気付いていた。市道紫帆がなにかを隠していて、そのために僕をヒーローに仕立て上げようとしてたと、気付いていた。

 気付いた上で、僕はヒーローになった。彼女のためのヒーローとして『スロウ』になったんだ。

 それなのに、僕がかつての兄の代わりだということを知ったときショックだった。結局僕は彼女の特別にはなれなかった。

 それが思いのほかショックだった。ただそれだけの話だ。

「そうか……疲れただろ」

 そう言って、父がソファから立ち上がる。

 キッチンに向かい、静かに、ゆっくりとした動きでコーヒーを淹れ、また戻ってきた。

 温かいコーヒーが入ったマグカップを、なにも言わず僕の前に置く。

「相手をコントロールしてると思ったら逆にされてたんだ。ショックも大きいはずだ」

「コントロールって……そんな言い方」

「恋愛はそういうものだ。相手にこう想われたい、こんなことを言ってほしい。隠し事なんて作らず全部話してほしい。そのためには相手をコントロールする必要がある。そうだろ?」

「別にそんな、そんな高度な駆け引きの話じゃないよ。単純に、向こうは僕が好きなわけじゃなかったってだけで」

「でもお前は好きだったんだろ? お前ばっかり好きだったってわけだ」

「いや、それは……そうかも」

 考えてみればそうだ。裏切られたと感じたのは、僕が市道紫帆を信じていたから。

 そんな彼女に僕の意志を否定されたから。だから、許せないのかもしれない。

 マグカップを持って湯気が立っているコーヒーを見る。黒い液体に自分の顔がぼんやりと映り、ゆらゆらと揺れる。

 ズズッと音が聴こえる。父がコーヒーを啜り、僕を見てフッと笑った。

「まぁしかしだな、だから気にするなという話じゃないが、相手が自分のことを好きじゃなかったというのはな、よくある話だ」

 父の言葉に僕は絶句する。

 そりゃ僕はまだ16歳で父は38歳だ。僕の倍以上生きているのだから経験値だって随分違うけど、それにしても、そんなあっさりした言い方あるのか。

 僕が言葉を失っているのを見て、父は再びリラックスするかのようにソファの背もたれに身を預ける。

「あれだぞ? 気にするなって話じゃない。ただ、そういうものだと覚えておかなきゃこの先何度も傷つくことになるってことだ」

「父さんは傷ついてきたの?」

「そうだな……傷ついたよ。でも、傷つくものだって分かっていればそんなに怖くない」

 父が目を瞑って息を吐く。過去の経験から生まれたであろうその言葉はなんだか色々な意味を含んでいるような気がして、深く追求することなどできなかった。

 なにより、父の過去よりも僕はその前の『よくある話』という言葉が引っかかってしまった。

「本当は皆自分が好きってこと?」

「そこまでは言わないが、要するに、本当に心の底から他人を想うなんて、中々できることじゃないってことだ」

「……父さんが言うと説得力あるよ」

「耳が痛いな。でもそういうことだ。柚臣、お前だって紫帆ちゃんのことを好きだって思いながらも利用されてたって分かったら嫌になっただろ? もし、本当に心の底から彼女を想っていたなら、それでも良かったはずだ」

 涼しい顔で指摘され、僕は思わず口を引き結ぶ。

 確かに父の言う通りではある。あのとき、コンチネンタルリゾートで火災が発生したとき、巻き込まれているかもしれない家族を助けたいという自分の気持ちをなによりも優先していて、彼女の傷だらけの想いを無下にしていた。

 彼女は本当に、もう二度と見たくなかったのだろう。炎に包まれた建物へ飛び込んでいくヒーローの後姿を。

 自分で言うのも愚かしいが、僕はきっと市道紫帆にとって理想のヒーローだった。困っている人を見捨てられず、人に優しくすることができる特別な力を持った存在。せっかく見つけた『ヒーロー』を失いたくないと、だからあのとき身体を張ってまで僕を止めに来たのだ。

「だけどお前は許せなかった。それは別に悪いことじゃない。自分の気持ちが大事なのはみんな同じだ。でも、それでも一緒にいたいと思えるのが、本当に好きってことじゃないか?」

 そう言って父が再びコーヒーを啜る。

 僕も同じく少しだけコーヒーを口に入れる。柔らかな苦味とほのかな酸味が口の中に広がり、熱い液体が喉を通り過ぎた。

 昔はブラックコーヒーなんて飲めなかった。けどいつの間にか飲めるようになっている。

 確か昔、父が淹れてくれたんだ。なぜか眠れなかった夜に、父が「眠れない夜は無理して眠らないでいい」と言って、コーヒーを淹れてくれた。それから飲めるようになったんだと思う。

 僕は許せるようになるのだろうか。いや、許さなくてもいいと思えるようになるのだろうか。

 市道紫帆は僕のことを、酷い言葉で突き飛ばした僕を許せるのだろうか。許せなくてもいいから一緒にいたいと想ってくれるのだろうか。

「……僕はともかく、向こうはどうだろうな。随分酷いことを言ったし」

「じゃあ早く謝るんだ。もちろん、前と同じとはいかないけど、それでも、一緒にいたいならそうしたほうがいい」

「一緒にいたいなら……」

「……なぁ柚臣。紫帆ちゃんと一緒に過ごした時間はどうだった?」

「え? どうだったって、なにが」

「全部思い出してみろ。それでもまだ嫌いならこのままでいいかもしれないが、そうじゃないなら、行動に移すべきだ」

 父の言葉に僕は眉を顰める。

 同時に僕は市道紫帆と一緒に過ごした時間を思い出した。

 旧校舎の視聴覚室で過ごした時間。彼女の部屋での時間。放課後2人で出掛けた――彼女はデートと言い張っていた――あの時間。

 そして、コンチネンタルリゾートで落ちようとしていた彼女を助けて、そのあと、唇に触れたあの一瞬。

 平穏な日常を望みながらも、市道紫帆と一緒にいたあの時間は確かに楽しくて、おかしくて、かけがえのないものだった。

「柚臣、お前は間違えるなよ。悔いの残る別れ方なんてするな」

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