こんなときになんなんだ。舌打ちをしながら振り向くと、見覚えのある外車が停まっていた。
マクラーレン・アルトゥーラ・スパイダー――フラックスグリーンの流線型のボディは当然ながら左ハンドルで運転席にはやっぱり見覚えのある人が乗っている。
「柚臣」
車のウィンドウが開き、父が顔を見せる。サングラスをかけたまま僕を呼んだ。
「なに、父さん」
近づいて少しかがむ。すると父はサングラスをずらして瞳をのぞかせ、ニヤッと口角を上げた。
「お前学校はどうしたんだ。まだ昼だろ?」
「それは……あーそのことだけど、父さんに少し訊きたいことが……」
「ん? どうしたんだ?」
「その……女性の、いや、女の子の、隠れ場所というか、逃げ場所というか、行きそうなところみたいな……」
「なんだ、煮え切らないな。ほら、とりあえず乗れ」
父が助手席のドアを開ける。僕は難しい顔をしながら乗り込む。
咄嗟の思い付きではあったが、父の追及から逃れるには良い手だと思った。それに父は女性のことに関しては熟知している。思わぬ角度からヒントが得られるかもしれない。
「それで? どうしたんだ。彼女となにがあった?」
「なにがあったっていうか……その、会いたいんだけど、どこにいるか分からないんだよ。電話にも出ないし、連絡がつかない」
「おいおい、連絡もつかないって、大丈夫なのか?」
「メッセージは見てると思うから、大丈夫だと思うけど。多分、無視されてるだけかもしれないし」
「なんだ、随分怒らせたんだな。なにをやらかしたんだ?」
「今はいいだろ。それより、こういうとき相手がどこにいくのか、父さん、なんか分かんない?」
「分かんないって言われてもなぁ……うーん」
父があごひげを指で撫でながら考え込む。まぁそりゃそうだ。いくら父でも関わり合いのない女性の行方なんて分かるはずがないだろう。
まぁそれでも学校をサボった言い訳として使えたのだから最低限の役目は果たせた。
やはり自力で探すほかない。
「まぁいいふうに考えるとお前との思い出の場所じゃないか?」
車から降りようとしたところで、父が呟く。
思い出の場所。なんだかそれらしい言葉に僕は思わずドアを開けようとした手を止めて父を見た。
市道紫帆が組織の人間を欺いて消えることができたのは、彼女の現実改変という超能力が作用した結果だと仮定する。
その場合、彼女がいる場所は林先輩が選んだ場所ではない。林先輩が選んだように見えて、実際は彼女自身が無意識下で選んだ場所かもしれないのだ。
そして、無意識下で選んだ場所ならば、市道紫帆自身の思い出というのは手掛かりになりえるはず。
「もしくは彼女にとっての思い出の場所だな。どういう思いでお前から距離をとっているのか分からんが、気持ちを整理したいときはそういう場所か、もしくは全く関係ない場所か」
「全く関係ない場所っていうのは……」
「適度に静かで適度に音がある空間だな。喫茶店とか、公園とか。あぁ、海もいいかもな」
「海って……すぐ歩いたら海じゃん」
「だから海が見える公園とかだよ。あるだろ?」
父の言葉に僕は眉を顰める。そりゃここら辺に海が見える公園はあるけど、そこではないような気がする。ていうか、そこにいるとしたらいくら市道紫帆の現実改変の影響下にあるとはいえ林先輩はかなりの間抜けだ。
彼女の縁のない場所にいる可能性は低い気がする。だとしたらやはり思い出の場所だろうか。
「柚臣は憶えないのか? 初めてデートに行った場所とか」
「デートっつってもなぁ……」
「あとは2人でお揃いのアクセサリーを買った店とか」
そんなものはない。僕と市道紫帆が共有してるものなんて、せいぜい『スロウ』としてのアイテムくらいだ。まぁそれもホテルの火災があったときに彼女へ返してしまったのだが。
高性能のヘルメットと彼女の兄が羽織っていたものと同じデザインのポンチョ。スーツはさすがに返さなかったけど、今手元にはない。
確か今手元にあるのはリュックを開けて中を探ると、柔らかい布の感触があった。
グイっと引き寄せて広げる。
彼女から貰った『まだ名もなきヒーロー』のマスク。ヘルメットの方が高性能でビジュアルも好みだったのでそっちを使っていたが、そういえば一応マスクも貰っていた。
頭からかぶるデザインで、全体的なカラーはネイビーブルーで虫の羽みたいな模様、目の部分は逆三角形を斜めにしてサングラスのレンズをはめ込んでいる。
どこかで見たような、どこかにありそうな、オーソドックスなデザインのマスク。滑らかな触感があり、模様部分だけ質感が違う。上から貼り付けたような感じだ。
グッと引っ張ると生地が伸びて色のグラデーションが変わる。スーツのデザインと合致するようにしたのだろう。
市道紫帆との繋がりは、今やこれだけ。いや、よくよく考えれば僕達には最初からこれしかなかった。
市道紫帆は僕にヒーローであることを望み、僕もそれを由としていたんだ。僕がスロウであることを辞めれば、繋がりが消えるのは必然だろう。
仕方がない。ヒーローは彼女にとってずっと前から望んでいたことだったんだ。そして自分がヒーローの正体を知っているヒロインになることも。
『つまり、自分はこのヒロインになるから、僕にこのヒーローみたいになってほしいってこと?』
『うん!』
昼休み、彼女と昼食をとりながらの会話を思い出す。今思えばあのときから彼女の願望は歪んでいて、僕はそれに気付きながらも――
「……あ?」
マスクを持ったまま声を出した。
なんだろう、なにかが引っかかる。確かあそこで彼女は随分と具体的なことを言っていたような気がする。
父がハンドルに手を置いたまま僕を見る。突然フリーズした息子を心配しているのだろう。
だが今はそんなことどうでもいい。もっと大事なこと、胸の内に生じた違和感を解消しなければならないんだ。
思い出せ。あの後なにを話した。彼女は僕に何を語った。確か、ヒロインになった自分について、恥ずかしげもなく悦に浸って語っていた。
『正体を隠しながら街の悪党と戦うヒーロー、唯一その正体を知りながらも彼の身を案じるヒロイン。信念をとるか愛をとるか、昔っから、すっごく憧れてて。たとえば、ヒロインである私が敵に連れ去られて、ヒーローである柚臣くんが罠と知りながらも助けに来てくれて。逃げ場のない海の上の船で戦って――』
「ふ、船だ!」
ハッとして顔を上げ、運転席の父へ迫る。
突然の要求に父はビクッとして身を引き、サングラスをかけなおして僕の肩を叩いた。
「柚臣、どうした。船がどうかしたのか?」
「彼女がいる場所だ。前に言ってたんだ、船の中で戦ってって。だから電話越しに機械が動く音が聴こえてた」
「戦う? 戦うってなんだ。柚臣、お前の彼女はなにか危ないことに巻き込まれてるのか?」
「巻き起こしたんだよ。それで、僕を誘ってるんだ」
要領を得ない答えにポカンとする父。当然だ。息子がおかしくなったと思われても仕方がない。
「父さん、ここら辺に船は? ここら辺を走ってる船」
「お前、ここをどこだと思ってるんだ。そんなの数えきれないほどあるぞ」
「そんなに人がたくさん乗れるわけじゃなくて、なおかつ遠くに行かない船だよ。高校生でも乗れるやつ」
「それなら……ここら辺をぐるっと回る遊覧船とかじゃないか。あれなら小さいものから大きいものまであるし、料金もそこまで割高じゃない。クルーズ船とか探せばいい」
湾内を巡るクルーズ船。おそらく市道紫帆はそこにいる。彼女はそこで僕の、いや、ヒーローが助けに来てくれることを待っているのだろう。