その声は視界の外から聴こえてきた。
パチパチパチと、手を叩く音。キスを中断して振り向くと船首部分のデッキに人がいた。それも複数人。
そして、その中心には田喜野井海美が立っていた。不敵な笑みを浮かべ、拍手していた手をパッと開いて見せる。
「確保」
呟くと同時に周りの男達が動き出す。
落ち着け、まずは階段を上がってくる男達に超能力を仕掛けて――ガッと首に衝撃が走った。
「柚臣くん!」
すぐ傍にいた市道紫帆が叫ぶ。僕の視界は明滅し、前に倒れ込む。
頭と腕と背中、ついでに足だ。2人がかりでデッキに押さえつけられ、どうにか顔をあげる。
階段をのぼる足音が聴こえてくる。目の前で細い脚が見えたと思ったら、田喜野井海美がしゃがんで僕を見下ろしてきた。
「ごめんね、ラブシーンを邪魔しちゃって」
彼女の長い指が僕のマスクをつまむ。
バッと勢いよく剥いで、近くに控えていた部下へ視線もよこさず手渡す。
「一度出し抜かれた程度で諦めると思った?」
左手で自分の頬を触り、田喜野井海美が小首を傾げる。
後を尾けられた。そう考えるのが妥当だろう。市道紫帆の居場所はともかく僕がどこに行ったのか程度ならすぐに分かるのだから。
視線を巡らせるが見えてくるのは人の足としゃがんでいる田喜野井海美くらいだ。
視界に捉えたものしかスロウにできない。ここで田喜野井海美をスロウにしてもなんの意味もない。
「貴方たちなんなんですか。どうして柚臣くんのこと」
「あぁ、気にしないで紫帆ちゃん。私達が用あるのはここにいる君の恋人だけだから」
急な襲撃に困惑する市道紫帆へ、田喜野井海美が彼女を見上げ笑顔で宥める。
「ゆ、柚臣くんがなにをしたって言うんですか」
「彼がヒーローとして、スロウとして活動したことでこの街は特異点になってしまったの」
田喜野井海美の説明に僕は眉を顰める。さっきと言っていることが違う。
組織の狙いは市道紫帆だ。さっきまで彼女の身柄を拘束する、最悪の場合排除するまで言っていたというのに、なぜかその矛先は僕に向かっている。
「超能力を使う謎のヒーロー『スロウ』を倒すため、これまで世界各地に散らばっていた超能力者が集まり始めてる。こうなったら私達だけでは対処できない。貴女も見たでしょ? 人質にされたレストランで超能力を操る男を」
「……あのときの」
「あれはほんの序章に過ぎない。これからも超能力者が……ううん、超能力者だけじゃない。彼を罠に嵌めて捕まえるための犯罪が増えていく。分かるかな? 犯罪を取り締まるための存在が、新たな犯罪を生み出しているの。なら、その元を断ち切るしかない」
田喜野井海美の話は必ずしも全てが間違いというわけではなかった。彼女の言う通りこれからも犯罪は起こるし、スロウという存在を狙い撃つためだけに犯罪を起こし、罪のない人々を巻き込む悪人が出てくるだろう。超能力者だって同じだ。たとえ市道紫帆が無意識下で願わなかったとしても、現れないとは思えない。
どうやって切り抜ける。田喜野井海美の狙いは分かった。ターゲットがいつの間にか変わっているのは、おそらくギリギリまで市道紫帆に目的を明かしたくなかったからなのかもしれない。まぁ、結局のところ同じことだろう。
市道紫帆が自分の超能力に関して認知してなくても、目的は達成できる。
確かにここで僕を消せば市道紫帆にとってのヒーローはいなくなり、犯罪は緩やかになくなっていくだろう。少なくとも市道紫帆を今すぐ排除しなければいけないレベルとはならないはず。
そして殺される寸前の僕が助かるには市道紫帆を売るしかない。今ここで彼女の超能力について彼女自身に全て暴露してしまえば、田喜野井海美は僕ではなく彼女を殺すしかなくなる。
どっちを殺しても田喜野井海美は目的を達成できるというわけだ。
「……じゃあどうして、さっき殺さなかったんだ」
頭を押さえつけられながらなんとか声を絞り出すと、田喜野井海美が振り向いた。
僕を押さえつけているであろう部下に合図を出すと、拘束されたままの状態でグイっと身体が上がる。
両膝を立てた状態で固定され、そこへ田喜野井海美が近づいて耳元で囁く。
「ゆずピが紫帆ちゃんを見つけて、仲直りするのを待ってたんだよ。互いに愛が深まった今、果たして紫帆ちゃんは自分だけのヒーローを失った悲しみに堪えらるかな?」
田喜野井海美を睨みつける。
歯を食いしばって、もがきながらも田喜野井海美へと迫った。
だが、すぐに後ろから蹴られ、再びデッキに押し付けられる。
「ごめんね、こっちも仕事だからさ」
形ばかりの謝罪は僕の苛立ちを加速させるだけだった。
頭を押さえつけられながらも必死に田喜野井海美へ敵意を向け続ける。
「さて、じゃあちゃっちゃと」
「待って!」
市道紫帆が叫ぶ。ジリジリと後ろに下がりながらも胸の前でギュッと拳を握っている、ここからじゃ顔は見えないけど、きっと怖いのだろう。足が震えていた。
「どうしたの紫帆ちゃん。あぁ、まぁまぁむごいシーンだから見ないほうがいいよ」
「スロウがいるから、この街の犯罪が増えてるっていうのは、本当なんですか」
「言ったじゃん。本当だって」
「本当に、殺すしかないんですか」
市道紫帆からの質問に田喜野井海美はすぐには答えない。
沈黙の時が流れる。やがて田喜野井海美が深く息を吐いた音が聴こえてきた。
「迅速且つ現実的な解決方法ってだけ。例えば、スロウがヒーローとして活動する理由がなくなったり、もしくは、人々が、この世界が、スロウという存在を知らなければ、望まなければ、そもそも生まれなければ、問題は根本から解決する。それこそ、超能力じゃなくて魔法みたいな御業がなければ無理だけどね」
「……それなら」