「……それなら」
市道紫帆が呟く。足の震えが止まり、胸の前で握りしめていた手から力が抜ける。
それなら――その次に続く言葉を、僕は知っていた。
たとえ自分に特別な力が備わっていなくても、目の前で起きる不条理は見過ごせない。
それは彼女の兄がそうであり、そして妹である彼女もまた、その性質を引き継いでいる。
だからあのとき、初めてデートをしたあの日、駅前でひったくりが起きて、皆が驚いて引いている中、市道紫帆だけは立ち向かった。
だからきっと今回も、彼女は動くはずだ。
僕を助ける。ただそれだけのために。
「私がスロウを消してみせる!」
市道紫帆が叫ぶ。
同時に彼女はデッキに取り付けられた手すりに足をかけ、高く跳躍した。
船から飛び出して、海の中へと飛び込んだ。
「紫帆!」
慌てて名前を叫ぶけど、既にもう彼女はいない。
ボチャンッと、人1人が飛び込んだというのにあまりにも軽い音が聴こえる。
なにを、なにをやってるんだ彼女は。なんで飛び込んで、僕のために。身投げ、身投げした。泳げるのか。確か泳げないって前に言ってたような。違う、そうじゃない。泳げるかどうかなんて問題じゃない。落ちた、自分から落ちたんだ。逃げるためにじゃない。死ぬために落ちた。なんでそんなことをした。スロウを消してみせるって、自分が死ねばスロウが消えると思ってたのか。だってスロウは、そうだ、スロウは誰かのためじゃない。誰かのためではあるけれど、なによりもヒーローを望んだ紫帆のために。それじゃあ紫帆が死んだら。死んだらスロウを続ける意味なんて――ダラダラお気持ち表明してる場合じゃない。
「うわぁあぁあぁっっっ!!!」
押さえつけられながら叫ぶ。敵の姿は見えない。だけどやるしかない。今やらなければ紫帆が死ぬ。
死んでほしくなんかない。たとえ敵が見えなくても、いや、見えないならこの空間ごと全部、スロウにしてやる。
「うおぉおぉっっっ!」
周囲にエネルギーを放出するイメージ。普段は目で捉えて手をかざすことで超能力を仕掛けているが、それを身体全体で行う。
この船の中の時間を、人も、物も、全部スロウにする。
「黙って! 見てろ!」
刹那、脳に電流が流れたかのような微かな痛みが走った、ような気がした。
気付けば周囲はスロウになっている。僕は渾身の力で起き上がると、あまりにもあっさり拘束が外れる。普段ならこれで相手は元の時間を取り戻すはずなのに、まだスロウのままだ。
超能力が変質したのかもしれない。もしくは進化か。
だが今はそれどころじゃない。すぐにでも紫帆を助けなければ。
僕は一気に駆け出して彼女が飛び込んだ場所と同じところから海へ飛び込む。
水を吸った衣服が肌に張り付く。暗い海の中で必死になって紫帆を探す。
だめだ、こうも暗いと自分が今どこにいるかすら分からなくなってくる。目をつぶってるのと同じだ。
やがて、真っ暗な視界にぼんやりと小さな光が浮かび上がってくる。覚えのある感覚が纏わりつき、僕はハッとして掌を見た。
僕に備わったもう1つの超能力、触れた物の構造を解析して操作する力。確かに今僕は海に触れているけれど、そんなこと可能なのだろうか。
いや、今は自分の能力に疑問を向けている場合じゃない。これを活用するんだ。
あえて水中で目を閉じて意識を研ぎ澄ます。暗闇の中で無数の小さな光が浮かんでいる。中には魚っぽいフォルムの光もある。
海の中のオブジェクトを観測しているのだろうか。だとしたら、紫帆の形をした光を見つければ――彼女の姿を意識に投影し、カチッと、型にはまった音が頭の中で響く。
目を開けて目を凝らす。視界の奥に微かな光が見える。
人の形をした光だ。必死に身体を動かして泳ぎ、眩しいほどに輝くそれを捕まえた。
あとは戻るだけ。潜っていた方向とは逆、水面に向かってどうにか泳いでいく。
息が苦しい。服が重い。意識が朦朧としてきた。だめだ、せっかく見つけたんだ。ここで終わるな。こんな形で終わりたくない。
暗くなっていく視界が、突然真っ白になった。
「ぶはっ! はっ! はっ! はっ! はぁ、はぁ……」
気付けば息ができていた。ズキズキと頭が痛む中、世界に色彩が戻ってくる。
なんとか、なったのだろうか。生きてる。息をしてる。僕は今海に浮かんでいるのか。
きょろきょろと周りを見る。遠くに港があって、近くにはクルーズ船があった。
そして僕の腕の中には、市道紫帆がいた。白い肌を青くして、目をつぶってぐったりしている。
まだだ。まだ助かってない。僕は急いで紫帆に超能力をかけ、彼女に流れる時間をスロウにした。
「死なせない。君は生きなきゃいけないんだ」