目を覚ますとそこは知らない天井だった。
僕はベッドで寝かされていて、カーテンレールと消毒液の匂いでここが病院だということが分かる。
「なんで病院に……紫帆は、どうなったんだ」
ぼそりと呟いて、グッと身体を起こそうとする。思ってたよりも力が入らなくて1回で起き上がれず、またグイっと身体ごと前に押し出すよう力を込めるとどうにか起き上がれた。
シャーっとカーテンを開ける。同じタイミングで病室の扉が開き、父の秘書の相浦さんが現れ――バサッと紙袋を落とす。
落ちた紙袋から衣服がこぼれる。見覚えのある服だ。多分僕の着替えだろう。
「……坊っちゃん」
相浦さんが感極まったような声で呟く。僕は首筋を軽く掻きながら、困ったような顔を向けた。
「坊っちゃんはやめてくれって、ずっと言ってるだろ」
いつもと同じ調子でそう答えると、相浦さんは落とした紙袋を拾い、カツカツとこちらへ歩いてくる。
まずい、怒らせたかもしれない。また僕が相浦さんの知らないところで無茶なことをしたのだ。しかもその結果病院送り。怒ってないわけがない。
そろそろぶん殴られる――覚悟して歯を食いしばり目をつぶった。
だが、いつまでたっても彼女の拳はとんでこなかった。それどころか、僕の身体は彼女に抱きしめられていたのだ。
ぎゅうっと、強く。痛いほどに、強く。
「心配、しました……私も誠治さんもずっと、心配してたんですよ……」
泣きながら相浦さんが言う。幼い頃から僕の面倒を見てくれている彼女を怒らせたり、呆れさせたりすることはあれど、泣かせたことは初めてかもしれない。
酷いことをしてしまった。そう思うと、なんだか急に悲しくなり、気付けば僕は相浦さんへ縋るように抱き着いていた。
「ごめん、心配かけてごめん。ごめんなさい」
うわ言みたいに謝罪を繰り返す。言葉を重ねれば重ねるほど申し訳ないという気持ちが増して、涙が溢れてくる。
そんな僕を、小さな子供みたいに泣きじゃくる僕を、相浦さんは何も言わず抱きしめてくれた。
海に浮かぶ僕達を救助してくれたのは僕を船まで送ってくれたボートの持ち主だった。
その間、田喜野井海美がいた船はずっとスロウになっていたので、邪魔されることはなかったが、それでも救助されたのは海面に浮上してから10分くらい経っていた。そこまでは憶えている。
問題はそれからだ。救助されてすぐに紫帆は救命措置を受け、さらに救急車が到着して運ばれた。
相浦さんから聞いた話――これ自体救急隊員から聞いた話だが――だと、紫帆が水を吐いてどうにか息を吹き返したその瞬間、倒れたらしい。
「低体温症からの意識障害もそうですけど、脳にダメージがあったそうですよ。幸い後遺症はないみたいですけど、しばらく坊っちゃんも安静にしてもらわなきゃいけません」
相浦さんに釘を刺され、僕は曖昧に笑う。
脳にダメージというのは、きっと超能力のことだろう。あのとき、僕に備わった2つの力は明らかにこれまでのものとは違った。
これまでできなかったことをやってのけたのだ。脳に負荷がかかり過ぎたのかもしれない。
「言われなくても、ジッとしてるよ。それで……その、彼女は、どうなった?」
「彼女?」
「あの……紫帆だよ。その、助かったの?」
「あぁ、あの子ですか。ふーん、紫帆ですかぁ?」
「面白がってないで教えてくれ」
「はいはい、大丈夫ですよ。まだ入院中ですけど、意識も戻ったそうです」
相浦さんの言葉に僕は心から安堵した。正直、自分が助かった時よりホッとした。
生きてる。紫帆は無事に生きてる。良かった。本当に良かった。どうにかなったんだ。
ふーっと大きく息を吐くと、クスクスと笑う声が聴こえる。
顔を上げると相浦さんが楽しそうに笑っていた。
「……なんだよ」
「いえいえ、なんでも。そうだ、愛しの彼女に会いに行ったらどうですか? せっかくお互い助かったんですから。それはもう激しい抱擁と深いキスをして――」
「何号室?」
しょうもない揶揄いを無視して訊ねる。すると相浦さんは穏やかに微笑んだ。
「隣の隣、303号室です」
「どうも」
簡単にお礼を言ってベッドから出る。少しだけふらつきながらもどうにか歩き、部屋から出た。
右を見て、左を見て、右へ進む。僕がいた病室は301号室で、すぐに302号室が見えた。この方向で合っているようだ。
隣の病室を素通りして、303号室の前に立つ。グッとスライド式のドアを開けると、2つのベッドが向かい合わせで並んでいた。
僕から見て左側のベッド、そこには紫帆がいた。病院着を身に着け、枕をクッション代わりにしてベッドに座っている。
近くには彼女の母親と見知らぬ男性、多分父親だろう。柔和な顔立ちをした人がいた。
紫帆の母親、芙美香さんと目が合う。一瞬驚いた顔をして、すぐに目を伏せる。
入ってもいいのだろうか。僕は迷いながらも一歩踏み出す。
紫帆が僕を見ている。僕がここにいることが信じられないのか、きょとんとした顔をしていた。
ゆっくりと近づいて、彼女の前に立つ。
なにから話せばいいものか。無事で良かったとか、そういう無難なことを言えばいいのだろうか。
とりあえず「大丈夫だった?」で行こう。いや、それか「本当に泳げないんだな」でもいいかも。
スッと顔をあげ、彼女と目を合わせる。相変わらずの整った綺麗な顔立ちに少しだけ緊張しながらも、僕はおずおずと口を開いた。
「君が無事で本当に――」
「あなた、だれ?」