イサナサマは静かに語った。
「あなた方が……沈めたのです。まだ母の乳を吸う、仔鯨を……ただ、歌っていただけの……あの子を……」
――沈めたって、人間が鯨を? ひょっとして捕鯨で捕まったとか?
「それでも……なぜ、まだ海へ来るのですか? それでも、まだ足りないのですか……?」
イサナサマの口からは静かに、しかし人間に対する嫌悪がひしひしと感じられた。
「人間は約束を守りません。私はかつて人間を助けました。それは彼らが私を信仰し、敬っていたからです。ですが、その中の一人、万次郎という者が、私に『決して口外するな』と固く言われていた話を漏らしてしまったのです」
イサナサマの言葉が少し怒りを感じるものになっていた。
「彼がその話を伝えた先は遠い国、アメリカでした。そこから、作家のメルヴィルの耳に入り……私は『もびーでぃっく』という恐ろしい怪物として語り継がれることになってしまったのです。」
――メルヴィルとかモビーディックとか……万次郎ってまさか、あのジョン万次郎の事か!?
そうか、確かに白鯨の小説が出たのがあの頃だとすれば、話はつながるものだな。
それが、イサナサマが人間を嫌う理由だとすれば分かるけど、でも娘って?
「まあアンタの怒る理由は分かったわ。でも娘ってどういう事やねん」
「あなた方はまだ私にそれを語らせたいのですか? あの忌まわしい記憶を……」
イサナサマは低く唸ると体を大きく揺らした。
しばらく沈黙が続いた後、目を閉じ、再び目を開いてから過去の話を続けた。
「いいでしょう。人間の愚かさを知って、後悔して海に消えるといいでしょう。私の娘は、人間達の大戦の巻き添えになり、潜水艦に爆殺されたのです」
――想像以上にハードな話が出てきた! って……これ、ギギギの義太郎の映画のストーリーに出てきたヤツじゃないのか?
「私の娘は人間に騙され、台風の大潮から助けると言っておいて、魚雷なる武器で爆殺されたのです。愚かにも、その潜水艦というのも結局、彼らの棺になったようですが……。私の娘は永遠に失われてしまったのです」
しかし小さな声で彼女はつぶやいた。
「ですが、私にもまだ慈悲はあったのでしょう。私は一人の男を助けました。
それが……水本シゲオさんだったのか、それじゃああの映画の結末に怒るのも仕方ないな。
イサナサマの言葉は重く、胸に突き刺さる。
それにしても、俺たちが何でこんな巻き添えをくらわなきゃいけないんだ?
「さあ、話は終わりです。海の運命を受け入れ、沈みなさい……還る時です」
「ま、待ってくれ! 話せばわかる!」
そんな中、
「なんか……アンタに話したいことがあるって、魂が――あーしに訴えてきてるんやけど」
イサナサマの視線がぴくりと動いた。
「……人間の言うことなど、聞く耳は持ちません。どうせまた嘘を重ね、私の心を踏みにじるのでしょう?
さあ、沈みなさい」
その声は静かで、それでいて重く、まるで海を引き裂くかのような力を秘めていた。だが満生は怯まない。
「あのなー……その声、あーしには聞こえるんやけど――『母様、やめて』って言ってるで」
イサナサマの瞳が大きく見開かれた。
「……なに?」
「嘘ちゃう。魂はな、消えても叫ぶんや。あーし、耳を澄ませたら聞こえるんよ。――母様を止めて、って」
その言葉に、海の気配が一瞬止まったかのように感じられた。
イサナサマの巨体が動きを止める。
満生さんは顔をしかめながら、なおも訴えた。
「……間違ってるって。あんたの娘さんが、言うてる。母様は――間違ってるって」
イサナサマの目が細くなり、その声は怒気を孕んだものに変わる。
「……娘を愚弄するのですか?あの子は、人間に騙され、信じ、そして爆殺されたのですよ。なのに、なお人間の肩を持つとは……!」
「このわからず屋! ほな、本人と話してみればええやろ!」
満生さんがバンッと足元の甲板を踏み鳴らす。
「――あーしが呼び出したるわ!……ちとこのサイズやと、えらいけどな」
満生さんはぐっと目を閉じ、拳をぎゅっと握りしめた。
深く息を吸い込むと、周囲の霊流がざわつき始める。
海の気配とは異なる、もう一つの“気”が満生の体を通じて現れようとしていた。
「何……ですと、この気配は確かにあの娘の……」
そして半透明の小舟くらいの大きさの鯨が姿を見せた。
「やっぱキッツイわ、反魂の術は召喚の比じゃないほど霊力使うてな。ほな、娘さん、そのわからず屋のオカンに言いたいこと伝えたりや」
「はい……母様、わたしの声が聞こえますか」
「ああ、どれほど会いたいと思っていたか。まさか再び声を聞く事が出来るとは……」
イサナサマは悲しそうな鳴き声を低く響かせた。
その衝撃は第三室戸丸全体の金属部分にヒビを入れるほどだった。
俺達はヘロヘロの中で結界を貼ってくれた満生さんがいなければ、海に吹き飛ばされていたかもしれない。
「母様、人間を憎まないで下さい。あれは事故だったのです。あの潜水艦の人達はわたしを助けてくれようとしていたのです」
「それは詭弁です、現に貴女は人間の手によって……」
「それが、違うのです」
「違う……?」
娘さんは今までのいきさつを話し始めた。
台風の大潮で岩に叩きつけられそうになった彼女を、旧日本軍の特殊部隊潜水艦・伊九十四號は船体で受け止め、岩への衝撃を避けようとした。
だが、その際に娘さんの身体が潜水艦の魚雷発射口に触れてしまい、魚雷は誤爆、娘さんは爆死してしまったというのだ。
更に潜水艦・伊九十四號は、その爆音で米軍の潜水艦に発見され、撃沈されてしまったというのが真相だった。
「……」
真相を知ったイサナサマには怒りは無く、ただ静かな波のように落ち着いた姿があった。
「そうでしたか、まさかそんなことがあったとは……私の誤解とはいえ、取り返しのつかない事をしてしまいました。 せめてものお詫びと言っては何ですが、私が沈めた船、そして娘を守ろうとしてくれた潜水艦の人達を私の力で黄泉へと誘いましょう……さあ、大いなる海へ還るのです」
イサナサマが大きく吠えると、第三室戸丸の船体が光に包まれた。
「
「わ、わかった。みんな、釣り船に避難するんだ」
「
「お任せくださいドル、我が主。この海の貴族である吾輩が送り届けましょう」
俺達は船が消えゆく前に全員で釣り船に避難、すると……第三室戸丸は光の中で静かに姿が消え、中にいたであろう人達の魂が次々と天に昇って行った。
「みんな、故郷に帰れたのかな……」
しかし凄い力だ、イサナサマはあの巨大な幽霊船を丸ごと浄化してしまった。
そして……全ての魂が天に消え、イサナサマは俺達に語りかけてきた。
「貴方がたには礼を言わねばなりません、娘の本当の気持ちを知らなかった私に真実を伝えてくれました。ですが、私は人間が好きになったわけではありません、人間が海に対する敬意を失い、汚し続ける限り、私は再び海の代行者として現れるでしょう。その事をゆめゆめ、忘れぬよう……」
俺達は全員でイサナサマを見送るように礼をした、するとイサナサマは娘の霊と共に再び海の底深くに消えていった……。
これで全て終わったのかな、海は穏やかになり、釣り船は無事に船毛海岸まで戻れそうだ。
――だが、ここにはまだ誰か残っていた。
海の上には誰かの姿が見える。
「あ、あれは?」
「猫ノ宮なのじゃー」
何故? 何故第三室戸丸のあった場所にギギギの義太郎の猫ノ宮が残っていたんだ?