深山スキー場。
凍り付いた愛の物語はここから始まった。
1980年代後半、昭和後期に深山村は都会からのスキー客のおかげで寒村とは思えないほど繁盛し、寒村の面影は消え、ゲレンデは毎晩ネオンに照らされた。
また、高度経済成長に合わせ、村には最新の暖房完備のいくつものペンションやホテルが建てられた。
スキーは金持ち学生のステータスとなり、この深山スキー場もその例に漏れず、多くの学生がスキーとひと冬の恋をエンジョイしていた。
麗応大学経済学部三年、柳田哲男もそんな勝ち組バブルボーイの一人だった。
実家は都内の大手商家、本人も大手飲料メーカーに内定済み、親の決めた許嫁もいる、まさに人生順風満帆の勝ち組そのものと言えた。
――そんな彼の人生を変える出会い、それは凍り付いた山の中腹で起きた。
悪友と誰が遠くまで行けるか、そんなつまらない勝負に意地になり……彼ははずみで立ち入り禁止の柵を倒してしまい、だれも立ち寄らない冬山に取り残された。
幸い今の時期は熊も冬眠中、猛獣に襲われる事はなかったが、自然の驚異……凍てつく寒さは確実に彼の命の灯を吹き消そうとしていた。
薄れゆく意識の中、彼は一人の美しい女性を見た。
それは……雪の中に立つ一人の儚くも本当に存在する人物だった。
そう、それはまさに、伝説の雪女そのものだった。
「貴方がワタシの事を誰にも言わないのでしたら、命だけは助けてあげましょう……この事は決して、だれにも言ってはなりません……」
それは、氷を叩いた時の澄んだ音のような声だった。
――気が付いた時、彼は……スキー場入口のペンション近くに倒れこんでいた。
その後、哲男はスキー場で話題になっている一人の看板娘を見かけた。
大勢の男達が彼女を恋人にしたいと告白するも、全員玉砕。
彼女はこの近くの村に住む少女、つららと言った。
深山スキー場の凍てつく冬の夜、哲男は一人、誰もいない雪のゲレンデでつららを見つけた。
彼女は静かに立っていた。冷たく硬い氷のようなその表情は、哲男の訪れを冷たく拒むかのようだった。
――しかし彼は諦めなかった。
「これを受け取ってほしいんだ」と、哲男はポケットから小さな雪うさぎのキーホルダーを取り出した。
「僕の命を助けてくれた人に渡したいんだけど、その人に会えないんだ。だから君から渡してくれないかな。」
つららはその小さな雪うさぎをじっと見つめ、静かに問いかけた。「どうして?」
哲男は俯いたまま答えた。「言えないんだ……あの人との約束だから。」
その言葉の重みが、彼女の心の氷を少しずつ溶かしていった。信じることの難しさ、孤独の深さを知っているつららにとって、哲男の約束を守る真摯な姿勢は、どこか慰めになったのだ。
つららは、集落の掟に背き、人を助けてしまった事で追放され、誰一人頼れない孤独な生活をしていた。
数日間、二人の間に少しずつ会話が増えていった。
哲男はつららの冷たい態度に折れそうになりながらも、何度も気持ちを伝え続けた。
つららはそんな彼の誠実さに、心を開き始めた。やがて彼女は、哲男が決して軽々しく約束を口にする男ではないことを知り、その真面目さに心の扉を少しずつ開けていった。
深山村の夜は寒く長かったが、その中で二人の心はゆっくりと温まっていった。
哲男は雪の妖精と呼ばれるつららを守りたいと願い、彼女もまた自分を信じてくれる哲男に少しずつ心を許した。
やがて冬の終わりが近づき、哲男は都会へ戻る日を迎えた。つららに向かって彼は誓った。「必ず迎えに来る。だから、待っていてほしい。」
つららはまだ完全には心を開けないままも、その言葉を信じてうなずいた。
都会に戻る哲男の背中を見送りながら、彼女の胸には希望と不安が入り混じった複雑な感情が渦巻いていた。
哲男の手に、小さな氷の結晶を象ったお守りがそっと握らされた。
それは手のひらに乗るほどの、透き通った冷たいかけら。けれど、不思議と溶ける気配はない。
つららは、うつむきながらぽつりと語りかけた。
「これ、持っていでけ。んだ、けして溶げねえ氷のおまもりだ。……わしだと思って、大事にしてけで……なぁ」
彼女の指先がふるえているのは、寒さのせいではなかった。
哲男がそれをそっと受け取ると、つららの瞳の奥で、なにかがきらりと光った。
彼女が抱える宿命や、二人を取り巻く未来の困難を思うと心は揺れ動いたが、少なくとも今は、この約束が彼女を支える唯一の光だった。
哲男は深山を離れたが、その胸にはつららへの思いと約束が強く刻まれていた。彼女を守り、迎えに来るために。
深山スキー場にいるという雪女の噂は、やがて都会にも届いた。
悪徳霊能者の橘可夢偉と、スキーリゾート「ザムス」の経営者である大金権蔵は、その話に目をつけた。
二人は深山に潜み、雪女の存在を利用しようと画策する。
彼女を彼らが調べ上げた情報で「彼に会わせてやる」と甘い言葉を囁き、つららを騙して都会へ連れ出した。
だが、それは彼女を人間社会に縛り付けるための罠に過ぎなかった。
スキーリゾート・ザムスの巨大な施設内で、つららは人工降雪機の代わりとして過酷な労働を強いられた。
冷たく輝く雪の結晶のように美しい彼女の力は、資本主義の闇に利用され、心も身体も次第に蝕まれていった。
監禁された倉庫の暗闇の中、つららは孤独と絶望に苛まれた。
氷の一族の禁忌を犯した以上、追放された身ゆえ、助けが来ることもない。
会いたいと思った哲男には会えない、ただ……哲男に渡した片割れの溶けない氷のお守りは変わらなかった。
しかし、そんな中で唯一の心の支えがあった。それは、彼女が産んだ娘、しずりだった。
しずりは母の雪女であるつららと、人間・柳田哲男の血を引くハーフであり、その能力は母をも超えるかもしれないとささやかれた。
子を抱きしめながら、つららはかすかな希望を胸に抱き続けた。
だが、ザムスの繁栄は長くは続かなかった。バブル崩壊の波はリゾートにも押し寄せ、施設は閉鎖されることとなる。
閉鎖後、ザムスの跡地には外資系ホームセンター「NUMA」が建てられた。
その地下倉庫には、労働に使われた異形の母娘が封印され、静かに眠っていた。
そんな中、五条と八代のチンピラ二人は、廃棄予定の型落ちクーラーを手に入れようとNUMAの地下倉庫に忍び込んだ。
薄暗く冷え切った倉庫の奥、不気味な氷の結界に気づかずに彼らは不用意に封印を解いてしまった。
その瞬間、凍てつく冷気が猛スピードで噴き出し、あたり一面が氷に包まれていく。搬入スタッフの作業員達や夜間警備員が慌てて逃げ惑う中、五条と八代は逃げ遅れ、みるみる氷の檻に閉じ込められた。
「あ……が、さむ……い」
氷に閉ざされた八代のかすれ声が響く。
「ねえ、かか様、この凍ったのに雪玉コーンってやっていい?」
「いいわよ、ほどほどにね。」
しずりの無邪気な声が、冷たい空間に不気味に響く。
もし本気の攻撃を受けていたら、五条と八代は粉々になっていただろう。
幸いにも彼らは未遂で済んだが、警備員に連れ出されるまで身動きが取れなかった。
だが冷気は留まることを知らず、数時間のうちにNUMA全体を包み込む。
商品棚も機械も空調設備さえも凍結し、まるでここが一夜にして氷河期に突入したかのようだった。
幸い開店前の時間帯だったため、客はおらず被害は搬入スタッフと警備員に限定されたのが不幸中の幸い。
それでも、凍り付いた巨大な施設の光景は異様で、翌朝巧達が現場を訪れた際、驚きを隠せなかった。
これほどまでの氷の猛威が巻き起こるとは誰も予想していなかった。
静まり返ったNUMAの中に漂う冷気は、まだまだ終わりを告げてはいなかったのだ。
そして、ホームセンターNUMAを包み込むのは、人間に裏切られた雪女母娘の恨みの凍てついた心。
その脅威は