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市志葉北キャンプ場のさらに奥、整備の手も届かない藪道を抜けた先―― 木霊の残る鬱蒼とした森に、「
その滝壺は、いつからか「尻子池(しりこいけ)」と呼ばれるようになり、地元の子供たちの間では「河童が住んでる」という噂が根強く残っていた。
そして今、そこに網を構えて仁王立ちしているのが、例の“バカ二人組”である。
「おい五条、本当にここに河童がいるんだろうな?」
「八代っちー、大丈夫だって。前回のNUMAでの氷漬け事件で大失敗したんだから、今度こそ捕まえてマスコミに売り込むぞ!」
「うぇ〜い! 河童でサクセスストーリーだな!」
このアホ二人、あのNUMA事件で冷凍保存されて発見されたあげく、警備室で説教され、さらには留置場にも何日かお世話になったというのに……反省の色など、どこにもない。
そんな彼らが網を持って潜んでいたのは、滝の裏手にある古い石碑の陰だった。 そこには風化した文字でこう刻まれていた。
「天之龍沼命(あまのたつぬまのみこと) 此に眠る」
それが何を意味するのかも知らず、五条はその石碑にもたれかかる。
「いや〜それにしても水綺麗だなぁ〜。よし、八代っち! こっから流れてる水門が下にあったよな? 開けてやれば魚とかドバっと流れてくるんじゃね?」
「おおっ、それ神アイデアだな! まじ天才だよお前!」
「だろ? オレたち、現代の河童ハンターズだよな!」
そしてこの数十分後――
二人が悪戯半分に開けた錆びついた水門が、数十年眠っていた封印を壊し、濁流となって龍神臺の底に満ちていた「古き魂」を揺り起こすことになる。
水が暴れ出す。風が軋む。空がねじれる。
――天之龍沼命。
かつてこの地に祀られ、雨をもたらす守護の龍神。 だが信仰を失い、人々から「河童」扱いされてその姿を忘れられ、忘れられ、遂には封印された存在。
その“落ちぶれた神”が、今、目を覚まそうとしていた。
尻子池のすぐ脇にある古びた管理小屋。その奥には、ふるさと創生資金で設置されたという藤原式揚水機の等身大実物モデル――そして、なぜか今も稼働可能な古い水門のレバーがあった。
「なあ五条、これ……押したらどうなんのかな?」「は? 八代っち、それ押したらダムが開いて水がドバーン!って――」
ガチャンッ。
「――ってお前、今押した!?」
直後、小さく鳴った水の音。そしてゴウン……ゴウン……と重たく響く駆動音。
ドォォォォォォォッッ!!
「うわああああああッ!?「ぎゃあああああああああああッ!!」
山の上から一気に押し寄せる土と水の濁流。釣り網片手にふざけていた二人は、あっという間に濁流に呑まれた。
「これ絶対アカンやつぅぅぅぅ!!」「アイツ(俺)を訴えたら勝てますかぁああ!? 証拠映像がないですぅぅぅ!!」
「……あれ? 牛の鳴き声、する……?」
ドォォォォォォッ!!
滝の上から押し寄せる濁流。古い水門が開いた瞬間、それまで穏やかだった尻子池は、まるで怒れる龍神のごとく姿を変えた。
「ぎゃあああああッ!」「足が! 浮いたぁぁああああッ!!」
水門に近すぎた五条と八代は、一瞬で水の中に吸い込まれ、魚網もろとも川下へ。
「俺たちの河童捕獲作戦がぁぁぁあああッ!!」「これ……絶対ヤバいやつうううぅぅッ!!」
そのまま二人は、流木とともに激流を転げ落ち、橋の下をくぐり、遊歩道の柵をなぎ倒しながら、山をくだっていった。
――どこまで流されたかは、誰も知らない。
◆
市志葉北キャンプ場に泊まった翌日―― 俺たちは、それぞれの楽しみを求めて、隣接する「ママー牧場」へ足を運んでいた。
空は快晴。 濃い青のキャンバスに白い雲がふわりと浮かび、広々とした牧場には青草の香りと、どこか懐かしい家畜の匂いが風に乗って漂ってくる。
そして今――
「――サイズ的に、こちらのポニーがよろしいかと……」
「……ワシをナメるでないぞ、若造よ」
係員がそっとリードを引くのは、子ども向けの小さなポニー。 だが
「あっちじゃ。あの……いちばん目が血走っておるヤツを貸せ」
「ま、マックスですか!? あの子は、初心者には……」
「――よい。ワシは戦国の姫じゃ。暴れ馬でも跪かせてみせようぞ」
係員が血の気を失う中、紗夜はマックスと名付けられた大型の栗毛馬に近寄った。
馬は荒々しくいななき、後ろ足で地面を蹴る。だが――
「……そなたの名は?」
目の前にいるのは、名を「ルドルフ・マックス」。 元G1三冠馬にして、今は観光牧場で余生を過ごす大ベテランだ。 性格は荒くれ者そのもので、担当スタッフすら「もう引退させようか」と話し合うほどだった。
そんなマックスを、ちっこい子ども向けポニーと同じように見せられた紗夜が、ひと目で彼を選んだのは――偶然ではなかったのかもしれない。
「この目……忘れたわけではあるまい。戦場を駆け抜けし者の目じゃ」
紗夜はまっすぐに、マックスの真紅の目を見つめた。 馬は耳をぴくりと震わせて、久しぶりにその目を見開いた。
――わかる。こいつは、怖くない。違う、“こいつは、理解している”。
「ほれ、行くぞ。暴れてもよい。ワシが抑えてやる。いざ、勝負じゃ!」
勢いよくマックスに飛び乗った紗夜。 騒然とする係員の声を背に、馬はひと声いななき――地を蹴った。
「お、おい!? 柵を越えたぞ!?」
「ちょっ、誰か止め――止め……えっ、止められるかあれ!?」
ルドルフ・マックスは風を切って走った。かつて競馬場で喝采を浴びたあのスピードを、何年ぶりかで全開にする。 そして、その背にはタヌキの着ぐるみ姿の小さな“姫”。
「いよっしゃあああ! よくぞ目覚めた! いまこそ我らの、戦じゃあああ!!」
彼の心の奥に眠っていた闘争本能が、紗夜の「挑戦」で再び火を吹いたのだ。 柵を越え、草地を抜け、坂を登り、池を跳び越え、ぐるりと一周したマックスは――そのまま颯爽と、紗夜を乗せて柵の中へ戻ってきた。
立ち上がり、前足を空に突き上げ、再び地を踏みしめる。
その顔は、どこか誇らしげだった。
紗夜は降りて、マックスの額に手を当てる。
「よう走ったのう……ワシはのう、そなたの名を忘れぬぞ。駿馬まっくす。今日からそなたは、ワシのまぶだちじゃ」
マックスは鼻をふんと鳴らし、紗夜の頬をぺろりと舐めた。
「うへへ、くすぐったいのじゃ〜〜っ」
係員たちは放心状態だった。
「……あの馬、人間が乗るのを嫌がって近づくだけで噛んできたのに……」
「なんで……なんであんな素直に……」
牧場の伝説、かつての名馬。
その瞳には、再び「走る意味」が戻っていた。
一方その頃――
「3、2、1、バンジーーーー!!」
牧場の一角に設けられたアクティビティゾーン。 その中でもひときわ目立つのは、高さ20メートルのバンジージャンプ台。
そこから、
「いっやっほおおおおおう!! これやぁあああああっ!!」
揺れる金髪、キラキラの笑顔、そして揺れる何か。 バンジーのロープが一度反発して彼女を上空に跳ね上げ、また真下へ。周囲の観客が声を失うなか――
「気持ちえええええッッ!!」
見事に大の字ジャンプを決めて、満生さんはゴンドラで戻ってきた。足取り軽く、口笛まで吹いている。
「次、逆さに落ちるやつもあるって!
「遠慮しとく……」
高所作業でもうんざりなのにこれ以上高いとこいけるかっての。
それよりも満生さんのTシャツ、『人間万事バンジージャンプ』ってののほうが気になる、毎回思うがどこのオークションサイトかフリマで買ってるのだろうか? まさか自作はないだろうけど。
まあ、考えるだけ無駄だな、俺は俺で楽しもう。
――だが、本州の日本アルプス上昇ルートのはずの台風14号が、ルートを逸れて関東直撃コースに入っていたことをこの時の俺達はまだ誰も知らなかった……。