さらに少し離れた牧場の南側。
そこには、旧ふるさと創生プロジェクトの一環で建てられたドイツ風の建築ゾーンがある。
赤茶の急勾配の屋根に、木組みの白壁。古風な時計塔と、謎のビール樽オブジェ。
俺はそこをゆっくり歩きながら、カメラ片手に眺めていた。
「……こりゃあ、金かかったな」
装飾に無駄が多いのに、妙に構造はしっかりしている。 柱の仕口や継手が、明らかにヨーロッパの職人仕事ではなく、日本の宮大工技術で仕上げられているのがわかる。
「ドイツ風建築(日本製)か……まるで洋風に見せかけた数寄屋造りだな」
思わず笑ってしまう。
こういう“中途半端な本気”って、嫌いじゃない。
ふるさと創生が生んだ微妙な産物が、逆に今の観光資源になってる。
その脇で、木陰に腰掛けて牛乳アイスを食べていた子ザルの作造と
「にーちゃーん! ここのアイス、さっぱりしておいしいよー!」
「ねぇ見て! 牛の声にびっくりした子ザルが木に登ってる!」
「ぬえーッ!!(ギャーッ!?)」
まあこっちはこっちで放っておこう。
ペドロさんはこのママー牧場がアニメ『のうそんぐらし』の舞台だと知っていて、ロケ地巡りに夢中だった。
「オー、まんがアワーきらきらで放送された『のうそんぐらし』、ここの背景、そのまんまデース! スタジオ虎徹、やっぱり本物でシター!」
彼はわざわざ比較用にタブレットを持参していて、アニメの背景と現地を一枚ずつ照らし合わせながら、にやけ顔で頷いている。 その姿は、見慣れない人にはちょっと異様だけど……わかる人には、たまらないんだろうな。
……まあ、のんきな一日だ。
今だけは、俺たち全員、戦うことも怪異も忘れて――ただの観光客でいられた。
だが、関東直撃の台風は刻々と近づいていたようだ。
お昼過ぎに西の方の空がどんどん曇ってきた。
「おかしいわね、今日は晴れって聞いてたのに」
「これってひょっとして関東台風直撃コース?」
嫌な予感の俺達が昼食でブルストやアイスバインを食べていると、アナウンスが聞こえてきた。
《ご来場中のお客様に申し上げます。台風14号の接近の為、本日のママー牧場は15時を持ちまして閉場とさせて頂きます》
何か不安を感じた俺に、操太が話しかけてきた。
「にーちゃん、これって昨日のキャンプ場だよね……」
操太がスマホの画面に釘付けになった。映し出されているのは、関東怖いゾーンの特別昼枠の配信映像。レポーターの柳川ジュンジーが、市志葉北キャンプ場の上流にある水門の前からリアルタイムで中継している。
「うん、間違いない。あの滝の近くだ」
「見て! 水がどんどん増えてる。雨も強くなってきてるってさ」
ジュンジーの声がスマホのスピーカーから流れた。
「こんなに開いたままだと、下流のキャンプ場に大洪水が来るかもしれません。急ぎ対応が必要です!」
「これはマズいな……」
「にーちゃん、まだキャンプ場には甚五郎じいちゃん達が!」
操太が真剣な顔で呟いた。昨日、俺たちもあのキャンプ場にいた。ママー牧場よりキャンプ場に残る事にしていた甚五郎じいちゃんや他の常連たちも、まだそこにいるはずだ。
「早く知らせねば。みんなに撤退準備をさせぬと、甚大な被害が出てしまうのじゃ」
紗夜がタヌキ着ぐるみパジャマの裾を握りしめ、すっと立ち上がった。
「行こう、にーちゃん。こんな天気じゃ、これ以上キャンプ場にいては危ない」
操太も慌てて荷物をまとめる。
「あと、ペドロさんはママー牧場の方にいるって聞いた。アニメのロケ地巡りしてるらしいけど、彼には連絡入れておこう」
「急ぐのじゃ、何か悪い予感がするでのう」
紗夜が言う。牧場の人混みならまだ安全かもしれないが、油断はできない。
俺達はすぐに準備を整え、市志葉北キャンプ場へと急いだ。空は厚い雲に覆われ、遠くで雷鳴が響く。雨は徐々に強くなり、風も冷たく肌を刺す。
「なんであの水門が開いたままなんだろう……」
操太が首をかしげる。何か人為的なものを感じるが、今はそんなことを考えている余裕はない。
「とにかく早く行って、甚五郎どのに知らせるんじゃ」
紗夜がぐっと気を引き締める。
「そうだな、時間がない……!」
俺達は急ぎ足で山道を駆け上がり、滝の音が激しさを増す中、恐る恐るキャンプ場の入口へ向かうのだった。
雨はどんどんと激しさを増し、雨粒がしっかり見えるくらいになっていた
激しい雨に打たれながら、俺たちはキャンプ場を後にして川の上流を目指した。
甚五郎さん達はすでに撤収済みだが、水門が気になる俺達は彼らを緊急避難所に移動するように言ってから水門に向かう事にした。
操太や母さんはもうマザー牧場の一番高い建物の中に避難済みだ。
山道のぬかるみは歩くたびに靴をとられ、足元を一瞬でも誤れば滑落しかねない。
けれども、俺たちは止まらなかった。
一応川に流されないために全員がNUMAで手に入れたザイルを持っているが、それでも気を付けないと。
もしこのまま水門が開きっぱなしなら、この谷全体が水没する。
俺たちが滝の手前に辿り着いた時、そこには見慣れた中継用ベストに身を包んだひとりの男がいた。
「……あれ、ジュンジーさん?」
怪奇レポーターの柳川ジュンジーが、雨に濡れながら必死にカメラマンと機材を守っていた。
水門のすぐ近く、錆びついた鉄骨の足場の上だ。
「うわ、誰!? 君ら、こんなとこまで……!」
「ジュンジーさんですよね、無事だったんですね、よかった!」
俺達が弟の見ていた生配信から気になってここに来たことを伝えると、柳川ジュンジーは頭を押さえながら、状況を説明してくれた。
「俺たち、昼の中継の後、危ないからって避難しようとしたんだけど、あの水門が気になってさ。で、近づいてみたら……鎖が、外されてたんだよ。明らかに“誰かの手”で」
「やっぱりか……」
俺は唇を噛んだ。自然の劣化にしてはおかしすぎる。誰かが意図的に開けたのだ。
「ジュンジーさん、このままやと下流のキャンプ場もママー牧場も水に呑まれてしまいます。俺たちで水門を閉じに行きます」
「ここはあーし達に任せてええで、大船に乗ったつもりで待っとりーな」
「無茶だよ、こんな雨の中……! しかも鎖は切れてるし、あの位置じゃ人が届かない――」
「だから、やるしかないんです」
俺は言い切った。もう、誰かに止められても引くつもりはなかった。
「お願いがあるのじゃ、ジュンジーどの」
「おや、このお嬢さんは……? お願いって」
紗夜が一歩前に出る。びしょ濡れのタヌキ着ぐるみパジャマが雨に重たく垂れていたが、その目は真っ直ぐだった。
「下流に戻って、避難所にいる人々に伝えるのじゃ。いま、かつてこの地を守ってくれた龍神様が、再び力を取り戻そうとしておるとな。どうか、祈りを届ける為に祈ってほしい、と」
「……龍神様、に?」
「そうじゃ。昔、この地に大災害があった時、民の祈りを受けて龍神様は川の流れを変え、養老川に水を送ったそうなのじゃ」
「信仰が集まれば、ワシらは……きっと神様も動かせる」
紗夜の声は震えていなかった。満生もにやりと笑って言った。
「だめだったー! は、やってから言うもんやろ。やる前から諦めたらアカンでー」
ジュンジーはその言葉を、雨の中しっかり受け止めてくれた。そして、小さく頷いた。
「「信じる信じないはさておき……やれることはやるよ。わかった……俺、伝えるよ。龍神様への祈り、必ず届ける。怪奇レポーターとしても本物の奇跡、見て見たいからね」
「ありがとうございます!」
俺たちはそれを合図に、水門の奥へと進んでいった。どしゃ降りの雨が、さらに勢いを増して俺たちの背を叩く。
だが、止まるわけにはいかない。