目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話 何かがおかしい入社式の日

「ああ、井上さん、君もこの路線なんですか?」



学生時代に私からこんな風に男性に声を掛けたことってあっただろうか。


職場以外で声を掛けるのって失礼なんじゃないのかな。


そう考えていたのに、気が付いたら私は声を掛けてしまっていた。


これがあなたが私を女性と認識した最初の出会いなのかな。


でも私があなたに出会ったのは少し前。


あなたは覚えてる?










今日は入社式。


早く起きて準備して、学生のころはしなかったけど、化粧も頑張った。


友達は少ないし聞ける友達なんて居ないけど、お母さんに相談しながら頑張った。


薄いメイクだけど社会人だもん、これでいいよね?


自分にそう言い聞かせて家を出た。


昔から私は緊張しやすい。


緊張しいなのを誤魔化すために明るく振舞ったりしている。


私の母はシングルマザーで、お勉強は苦手だったから高校を卒業して働くことに決めた。


駅に着く、電車に乗る。


職場の最寄り駅に近づけば近づくほど緊張してきてしまう。


でも早く着きすぎちゃったな。


予定の時間の1時間前に着きそう。


でもいいの。


心の準備をしないとだから。


電車を降り、階段を昇る。


昔からエスカレーターより階段を使うのが好きだった。


だから階段を使う。


改札を出る。


高校も電車通学だから、定期の使い方は問題無い。


学割のない定期券ってこんなに高いんだってびっくりしたっけ。


最寄り駅は改札を出て南口へ向かう。


階段を降りた先にカフェがある。


そこのコーヒーを飲むのが好き。


どこにでもある大手チェーン店のカフェのコーヒー。


学生の頃から愛飲している。


このカフェがあったのも、私がこの会社に入社を決めた理由の一つ。


私はブラックコーヒーが好きな変わった女の子らしい。


美味しいのになぁ。


この駅のカフェに入るのは2度目。


もう私のお気に入りの席は決まっている。


カウンターの右から2番目。


そこが1番外の風景がよく見える。





店内に入りいつものホットコーヒーだけを注文する。


お気に入りの席に目を向けると、そこには先客がいた。


当たり前の事なんだけど、私の朝の今後のルーティンになる予定なのに⋯⋯


それがいきなり崩れたことに少しムッとしてしまう。


みんなの席なんだからそんなことで腹を立てるようなことしたらだめ。


わかっているけど少しムッとしてしまった。


座っているのはスーツ姿の男性だ。


年齢は後ろからだと分からないけど若くはなさそうな雰囲気。


カウンター席にはその人しかいなかった。


それなのに私が座りたい席にいる。


この人もここの咳がお気に入りなのかな。


だとしたら私より先にここを先約してることになる。


その席に座りたかったけど、未練がましく私は1つ席を開けた所へと腰掛ける。


チラリとその人の飲んでいるものを確認する。


私と同じホットコーヒー。


いいなぁ、その席でホットコーヒー飲みたかったなぁ。


何となくその人の顔が気になってしまった。


どんな人が私の座りたい席に座っているのか気になってしまった。


若くはない、30代ではなさそう。


40代かな?


とっても真面目そうな人。


その人がコーヒーカップを持った。


コーヒーカップを口に近付けた。


口の近くで止めた。


香りを楽しんでいるのかな。


そして口をつけゆっくりと飲む。


口から離し、カップをテーブルへと戻した。


その一連の動作に見惚れていた。


なぜだろう目が離せなかった。


見過ぎていたのだろう、その人が横目で私の方を見ようとした気がした。


その動きを察知したから急いで顔を逸らす。


とっても気になったけどもう見ることはできない。


しばらくするとその人は飲み干したのだろう、席を立ち店を出た。


その姿をずっと目で追っている。


私の席からも外が見える。


外を出たその人を目で追っている。


私の行く方向と同じだった。


同じ会社の人?


そんな偶然あるわけないよね。


もしもそうだったら⋯⋯⋯⋯


ふふ、そう思ってる方が楽しいかも。


バカみたいだけど、そう思っていたら緊張も幾分か解れてきた。


あの人のおかげかな。


そろそろ行かないと。


私はカフェを出て会社へと向かった。






少しは解れた緊張だけど、会社が近づくにつれて鼓動が早くなる。


結局カフェで見かけたあの男性は私の前を歩いていなかった。


なんでこんなに気にしているんだろう。


自分でも分からなかった。





またここに来れた。


私は今日から社会人。


新しい生活が始まるんだ。


そう思うとより緊張してきた。


ちゃんと挨拶できるかな。


ちゃんと社会人っぽく見えるかな。


ドキドキしながら両開きのガラス戸を開け会社に入る。


目の前には受付がある。


その横には【新入社員はこちら】と書いてある札が見える。


受付には人は居ないが、行先は示されているのでそこへ向かう。


面接したところではないので、どこへ向かっているのかわからない。


目の前にスーツの男性がいる。


一瞬ドキッとしてしまう。


なんでドキッとしたのかわからない。


でも反応した。


よく見てみるとさっきのカフェで見た男性じゃなかった。


心の中でため息を吐く。


残念だから?ホッとしたから?


そんなことよりこっちで合ってるのか聞いてみないと。


その男性に声をかける。


この先に会議室があるからそこで待機して欲しいと言われた。


良かった教えてもらえて。




失礼しますと言い会議室へとはいる。


早く来たつもりだけど、カフェで時間を潰したからか、もう女性が2人ほど待機していた。


2人とも会話はなく静かにしていたので私も無言で設置されているパイプ椅子に向かう。


椅子は5脚。


先に来た2人は両端に座っている。


どうしよう。


パイプ椅子の前に来て小さく挨拶する。



「本日からよろしくお願いします」



ちゃんと聞こえただろうか。



「よろしくお願いします」

「こちらこそお願いします」



私の声が小さかったからか、2人の声も小さい。


2人とも私より年上かな。


大学か短大か専門か。


どこに座るか悩んだけれど、私は真ん中に座ることにした。


自己紹介した方がいいのかな。


こういうのって年下の私からするべきなのかな。


社会のルールがわかんないよ。


お母さんに聞いておけばよかった。


そんな後悔をし、悩んでいると男性が2人入ってきた。


これで5人。




時間になった。


扉が開き、続々と先輩社員が入ってくる。


先輩と言うより、役員って言うのかな?


先頭が社長だった。


社長が5人並んでいる私達の前に立つ。


少し高くなっているスピーチ台と壇がある。


私は社長に注目していた。


何人かの人達が社長の両側に整列した。


それを確認した社長は挨拶をする。


大きな声だった。


マイクも用意されてるのに必要ないくらい大きな声。



「どんな時でも挨拶は基本です。明るく元気に大きな声で、これを忘れずにこれからこの会社でが大きく育ってくれることを願ってます!」



最後にニカッと笑いながら挨拶を締めくくった。


社長のパワーに圧倒されて私は見逃していた。


その人を。


次々と役員の方の挨拶が続く。



「皆さん初めまして。入社おめでとうございます。営業課課長の川崎大地と申します。営業に配属される方もいらっしゃるので、今後ともよろしくお願いします」



時が止まった。


その人だった。


カフェで見かけた男性だった。


なぜ?


なんであなたがここに?


私の頭の中は?で埋め尽くされている。


声が聞こえる。


これがあなたの声。


脳に響いているような気がした。


大きい声じゃない。


でも私の脳に直接届くような、そんな気がした。


カフェの時はチラッと見ていただけ。


今は目の前で凝視している。


私はスピーチ台の真ん前に座っているからだ。


スピーチが終わり壇を降りる。


自分のいた所へと戻っていく。


やっぱりずっと目で追っている。


なんでだろう、目を離せない。


しまった、内容が入ってきていないから名前を聞きそびれてしまった。


そこからずっとその男性を見ていた。


私が見ていることには気付いていない。


あなたは私を見てくれないんですか?


でも私が見ていることに気付かれたら恥ずかしい。


なのに見てくれないことに悲しさを覚えた。





いつの間にか式は終わっていた。


私の配属先は営業、この後は全体のオリエンテーションだそう。


あの男性は会議室から退室してしまった。


退室していく姿も見ていた。


閉まった扉もしばらく見ていた。


その後もオリエンテーションは続いていく。


しっかり聞いてないと。


気持ちを切り替え集中する。


午前中は全体のオリエンテーションで終わり、昼の休憩時間になった。


お弁当が至急されたので5人並んで食事を取る。


社長がやってきてみんなとお話をしながら、社長もお弁当を食べる。


社長の話は面白かった。


新入社員のみんなとも社長のおかげで話せている。


やっぱり社長になれる人はコミュニケーション力も高いんだ。


お昼の後もオリエンテーションは続いた。






全てのオリエンテーションが終わると名前を呼ばれ、配属先の上司の元へと行くらしい。


また会議室に何人か入室してきた。


その中にあの男性がいた。


あの男性はどこの課なのだろう。


やっぱり私はあの男性に釘付けだ。


私が最初に呼ばれた。



「井上さんは営業ですね、川崎課長の所へ行ってください」



「はい!」と短く返事をし席を立つ。


誰だろう川崎って。


するとあの男性が手を挙げていた。


え?本当に?


あの男性が川崎課長?


私の上司なの?


また私の頭の中に?が侵食してくる。


それを無理やり振り払い、震えそうになる足を何とか動かす。


低いけどヒールが辛い。


でも何とかあの男性、川崎課長の前へと進んだ。


本当にここなの?


嘘じゃないよね?



「井上さん、よろしくお願いします」



名前を呼ばれた。


心臓が飛び跳ねそうになった。



「は、はひ!」



やってしまった。


返事すらまともに出来ていない。


でも川崎課長を見ると優しく微笑んでいた。


まともに見れなくて俯いてしまう。


笑顔を見ちゃった嬉しさよりも恥ずかさが勝ってしまう。


どうしよう。


どんな感情になっているのかすら分からないほど混乱し始めている。


そうこう悩んでいると川崎課長から挨拶され説明が始まる。


もう腹を括るしかない。


元気な私を見てもらう、そう決めた。


最初から変な姿を見せれない。


急にスイッチを入れる。


川崎課長の案内で営業課へと行き挨拶をすることになった。



「みんなお疲れ様です。今日から営業課に配属された新入社員の3人です。今から挨拶してもらいますので静かにしててくださいね。ではあなたからしましょうか」


「わ、私ですか!?が、頑張ります!」



いきなり私からだった。


もうやるしかない。


私は勢いで挨拶した。



「皆様お疲れ様です!私は井上夢花です!一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします!」



できた、言えた、ちゃんと言えてホッとする。


チラリと川崎課長に目を向ける。


また優しそうに微笑んでいる。


嬉しかった。


見ててくれた、そう思ったら嬉しくなった。






この後は立食パーティがあるみたい。


昼もお弁当が出て、夜まで出るなんてすごい。


川崎課長が説明してくれている。


私の脳に直接響く声で話している。


こんなの初めてだった。


川崎課長を見つめて川崎課長の声を聞いている。


不思議な感覚。


なんなんだろう。


頭の悪い私じゃこの気持ちを表現できない。


立食パーティが始まった。


営業課の人達が新人の私達に話しかけてきてくれる。


気がつくと私は川崎課長を探している。


キョロキョロしすぎないように探す。


端の方に居てみんなの輪に入らないで営業課のみんなを見守っているみたい。


しばらく会話の輪に入りながらも、私はチラチラ川崎課長を見ている。


お寿司とか食べてるのかな。


飲み物とかも持ってないし。


私がチラチラ見ていると社長が営業課の所へやってきた。



「川崎くん!君もみんなと親睦を深めないとダメだろう!端っこにいるんじゃなくて輪に加わろうじゃないか!」



課長もこっちに来てくれるのかな。


そうなら嬉しい。



「川崎課長、お茶どうぞ!」



お茶もない課長に私はお茶を渡す。


なんでこんな行動をしたんだろう。


今日の私は何かがおかしい。


勝手に身体が動いている。


「ありがとう」とお礼を言われた。


その際に指が触れる。



「あっ⋯⋯」


「す、すまない」



触れた指。


そこが熱い。


本当に今日の私はおかしい。



「申し訳ない、私の不注意で⋯⋯」


「い、いえ、大丈夫⋯です⋯⋯⋯」



たかが指が触れただけ。


それだけなの。


なのになんで?


課長に触れられた指を握る。


熱い。


男性に触れるなんてほとんどなかったから?


ううん、このくらいの接触は普通にある。


慣れてはいないけど、こんな風になったことはない。


その後はみんなとの会話に参加してたけど、何を話していたかあまり覚えていない。





気がついたら立食パーティも終わりの時間になった。


片付けみんなでし、そのまま解散だ。


先輩達は二次会に行く人もいるみたい。


私は家に帰ろう、そう思った。


課長も早く帰る方がいいって言っているから。


帰る準備を済ませ、先輩方に挨拶をし、駅へと向かった。


空はもう暗い。


なんだか疲れちゃった。


コーヒー⋯⋯⋯飲みたいな。


朝も飲んだけど、また寄ろう。


駅前のカフェに寄りホットコーヒーを飲む。


お気に入りの席も空いていた。


朝も飲んだけど、やっぱり美味しい。


少しリフレッシュ出来たかな。


足取りは軽くはならないけど、階段を昇って行く。


改札を通る。


階段を降りてプラットホームに着いた。


降りた先で私は息を飲む。


視線の先には⋯⋯⋯⋯







やっぱり今日の私は何かがおかしい。






この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?