「あ、課長⋯ですか?」
「ああ、井上さん、あなたもこの路線なんですか?」
「はい、そうなんです。課長もですか?」
驚いた。
プラットホームで声を掛けられたのもそうだが、それか新入社員の井上さんだったのも驚いた。
先に帰ったはずなのに、どこかに寄っていたのだろうか。
会社以外で上司に声を掛けるなんて勇気が必要だったろうに。
偉いなこの子は。
「私もこれに乗って帰るんです。一緒だなんて驚きました。もしかしたら朝の電車も一緒だったりしたかもしれませんね」
朝は一緒の電車じゃない。
だって私より先にカフェに来てたから。
課長と電車が違ったことを分かっているなんて思われるのも変だから誤魔化してしまう。
「そ、そうかもしれませんね!」
コーヒーを飲んだから?
課長より私の方が先に会社を出てるはず。
だからここで会えたの?
でもこれで分かった。
朝のカフェでは私のことを見てなかっただろうし、意識すらされてなかったことを。
嬉しさと驚きと同じ路線と分かった更なる驚き、朝に意識されてなかったことに対する落胆と悲しさがごちゃ混ぜになり、また私は大混乱だ。
どうしよう、何を話したらいいんだろう。
「こんなおじさんと帰るのは嫌かもですが、せっかくですから一緒に電車に乗りましょうか」
このくらいは許されるのかなぁ。
セクハラにならなきゃいいんだが。
塩梅がわからない。
無視も出来ないし、じゃあさようなら、なんて言えない。
同じ路線と分かってしまったんだ。
だけど上司からこう言われたら普通は断れないだろうな。
やっぱりセクハラなんだろうか⋯
なんだか急に不安になってきた。
「は、はいっ!お願いします!」
やった、一緒に帰れる。
嬉しかった。
嬉しくて声が大きくなる。
私が緊張した時の対処法。
でも今はそれはやめて欲しかった。
周りにこんなに人がいるのに⋯⋯
課長もこんな大きな声で返事されたら恥ずかしいよね。
「井上さんは元気ですね、今日は疲れませんでしたか?」
「大丈夫です!まだまだ元気です!」
ああ、もう、また大きな声出して⋯
ダメなのに大きな声になってしまう。
そんな私を課長は優しく微笑みながら話してくれる。
優しい人なんだろうなぁ。
「明日から少しずつお仕事を覚えていけるといいですね。あんまり気を張りすぎると疲れちゃいますから、無理せずじっくり成長してくれると嬉しいです」
うーん、若い女の子と何を話したらいいんだろうか。
仕事の話以外って何があるんだろう。
やっぱりさようならと言ってこの場を去れば良かっただろうか。
いやいや、俺が先にここに居たのにそんなことをしたらおかしいな。
避けたと思われたら⋯
今度はパワハラじゃないか。
なんて生きにくい世の中なんだ。
発言や行動の一つ一つに制約があるみたいだ。
さらに何を話せばいいか分からなくなってきたぞ。
何がパワハラで何がセクハラなんだ?
お、電車が来たな。
ナイスタイミング、そう思おう。
「電車が来ましたね、急行ですが井上さんは急行の停る駅ですか?」
「はい!丸園駅なんで停ります!」
今は電車の音でうるさいから大声出していいよね。
「最寄り駅まで同じなんですね、驚きました」
え、ほ、本当に?
嘘じゃないよね?
そんな偶然って本当にあるの?
もしかして何度かすれ違ってたりしてる?
また私の頭の中はパニックだ。
帰宅ラッシュなんだろう、この時間は満員電車だ。
私達は最後尾に居たので、扉の前に乗り込むことが出来た。
私は背を扉につけている。
目の前に課長がいる。
こんな近くに⋯⋯⋯
なんでこんなにドキドキしてるの?
「だ、大丈夫⋯ですか?」
俺は必死だった。
扉に手を付き、自分の身体が井上さんに触れないように全力で車内の人たちを押し込む。
俺と井上さんの間に触れないほどの空間を生み出すために全力で踏ん張っている。
「はい、私は⋯大丈夫⋯です⋯⋯」
な、なにこれ⋯
これって⋯⋯⋯⋯壁ドン?
背が高すぎだよ課長⋯
こんなのドラマとかアニメでしか見たことないのに。
私がまさかこんな⋯⋯⋯
見上げないとお顔が見えない。
身長いくつなんだろう。
私はどちらかと言うとチビだ。
身長は153cmしかない。
180cm以上あるのかな。
私の顔の位置は課長の胸らへん。
ヒール履いてるから155cm以上はあるはずなのに、全然顔の位置が違う。
あっ⋯⋯⋯なんだろう、この匂い。
これが課長の匂い?
不思議、嫌いじゃない。
ううん、むしろ好きかもしれない。
「それなら⋯よかっ⋯⋯た」
これはキツい。
おじさんには厳しすぎる。
折れるんじゃなかろうか。
だが耐えなければならない。
耐えられなければ折れる所ではない。
俺は社会的に死んでしまう。
しかし俺はここで重大な事実に気が付いた。
これ⋯最寄り駅に着くまでずっとこうじゃないか。
3回駅に停車するが、開く扉は全部向こう。
降りる人もいるが乗る人の方が多いと来たもんだ。
最寄り駅の丸園に着くまで25分。
25分も俺は踏ん張り続けないとダメなのか。
だがやらなければならない。
まだこの子は18だぞ。
俺の娘でもおかしくない年齢なんだ。
こんなおじさんに触れられたら嫌悪感しかないだろう。
この子の為にも耐えるんだ。
話題がない、何も思い浮かばない。
だから私は課長に包まれてるような感覚に浸っている。
目の前に大きな課長。
壁に手をついてるから余計に包まれてる感じがする。
色んな匂いが電車の中にはあるはずなのに、今は課長の匂いだけを感じているようになる。
ううん、課長の匂いだけを感じる。
もっと深くこの感覚に浸るために、目を閉じてみた。
チラリと下を見る。
井上さんは目を閉じていた。
こんなおじさんを間近で見たくないだろうからなぁ。
本当に申し訳ない。
はぁ、明日にはセクハラ受けました、なんて言われたらどうしよう。
腕も痛いが胃も痛くなりそうだ。
この無言の時間も辛いが、この満員電車だ。
無理に話すことも無いだろう。
私はゆっくりと目を開けた。
車内アナウンスが聞こえてきたからだ。
この時間が終わってしまう。
もっとこうしていたかった。
でも少し後悔した。
課長の腕が震えている。
満員電車ならギューギューになって押し込まれることもあるのに、今はそれがない。
課長が守ってくれてたんだ。
それに気付いた。
私を守ってくれてる課長をもっと見ていたかったな。
少し顔が辛そう。
ごめんなさい課長。
でも課長が覆いかぶさってきたら⋯⋯
来たらどうなるんだろう。
立食パーティで指が触れた時を思い出す。
あの熱さを触れた箇所全部で感じてしまうのだろうか。
そろそろ着いちゃう。
はぁ。
「ふぅ、着きましたね」
ホッとした。
折れなかった俺の腕。
死ななかった社会的に。
耐えたんだ俺は。
よく分からないが達成感を感じている。
帰ったらセルフマッサージしようか⋯
家に湿布とかなかったような。
帰りにドラッグストアにでも寄るか。
ゆっくり湯船に浸かるのも悪くない。
たまには湯を張るか。
入浴剤もいいかもなぁ。
なんにせよドラッグストアか。
駅前にあったよな。
人の流れに乗って電車を降りる。
後ろを確認する。
井上さんはついてきているな。
課長の家はどこなんだろう。
課長の背中を見失わないようについていく。
何口なのかな。
駅までは歩き?
駅から近い?
どんなところに住んでるの?
結婚はしてる?
お子さんは?
今になって沢山話題が浮かぶ。
明日まで話せないんだと思ったら一気に寂しくなる。
階段を降りると人の流れが穏やかな方へと向かう。
歩くペースを落とし、後ろの井上さんを確認する。
うんうん、ちゃんと着いてきてるな。
そんな確認しなくても自分の最寄り駅なんだ、要らない心配か。
改札を出ると西口と東口に左右に別れる構内になっている。
改札の目の前には広告のある大きな看板が地面から立っている。
その付近に行き確認した。
「井上さん何口ですか?」
「私は東口です!」
「そうですか。私は西口なので、これで失礼しますね。お気をつけて」
「はい、失礼します。ありがとうございました」
ありがとう?
なんでお礼を言われたのか分からない。
「明日会社でまたお会いしましょう。おやすみなさい」
『またお会いましょう。』
その言葉が頭の中でリフレインしている。
そうだ、また明日会える。
でも残念。
奇跡はここまでだったみたい。
同じ東口だったら、あとほんの少しでも課長と帰れたのに。
家まであと少しだ。
お母さんも帰ってるだろうな。
私も帰ろう。
ふぅ、無事に帰ってくれるといいな。
家は遠いんだろうか。
そんな詮索はしなくていいか。
個人情報だ。
何が犯罪に抵触するか分からない。
今日の俺の行動は大丈夫だったろうか。
考えれば考えるほど胃が痛くなりそうだ。
東口まで一緒とはなぁ。
ドラッグストアに寄ろうとしてなかったら、どこまで一緒になってただろうか。
本当に怖い。
ドラッグストアに行こうと決めておいて良かった。
入浴剤と湿布と、胃薬も追加だな。
今日はビールじゃなくて、胃に優しい飲み物でも飲んでから寝よう。
まさか明日の朝に一緒になったりしない⋯⋯⋯よな?
ないない、乗り場だって沢山あるんだ。
気にしてたら本当になるかもしれない。
気にせず行こう。