「私もそう思います。悪いことは悪いと謝るべきですよね」
奈央が穏やかな笑顔で語る。
俺にじゃない。俺の視線を通り越して、赤鬼みたいな顔をしている人物へと向けて。
途端に赤鬼も笑みを浮かべた。さっきまで怒りで赤くなっていたと思われる顔は、今じゃ葛けて照れているようにも見える。
⋯⋯このクソ親父。奈央の笑顔にやられてんじゃねぇぞ。
奈央、今だぞ。今こそ、お前の腕の見せ所だ。エロ教師って、思う存分コイツを罵ってやれ!
「そうか、水野は分かってくれるか」
気持ち悪く緩みきった顔の単純な赤鬼を、
「はい。もちろんです」
更に奈央が付け上がらす。
しかし、奈央。そんなこと言ったら、林田の立場がなくなるぞ? 林田、怖そうだけど大丈夫か? 素の奈央なら勝てそうだけど、優等生の時は、あまり敵を作らない方が身のためなんじゃ⋯⋯。
そんな俺の思いに気付きもせずに、
「私の近くにいるんです。悪いことは悪いと、子供相手でもバカみたいに頭を下げて素直に謝れる大人が。それって凄いなって思うんです。簡単なようで本当は難しいと思うから」
奈央は珍しく熱く話す。
バカ・謝る・大人。この3つのワード、心当たりがあるような、ないような⋯⋯。
「それが当たり前なんだ。大人だろうが子供だろうが関係ないんだぞ」
尤もらしく得意気に話す赤鬼に、奈央は笑みを見せることで同意を示した。
それを黙って見ている林田と柏木。特に林田は、穴が開きそうなほど奈央を凝視している。
尖ったタイプの林田と奈央みたいな優等生は、どうみても反りが合いそうにない。とりあえず、この場に関係のない奈央は先に帰す方が賢明か。
「水野、もう用が済んだなら帰りなさい」
促した俺にやっと目を合わせてくれた奈央は、
「まだ用は済んでいません」
毅然とした態度で答えた。
「私、見たんです。無抵抗にやられている人を助けに入った林田さんを」
ここにいる全員の目が驚きに変わる。
「林田さん、誤魔化してなんかいません」
相次ぐ奈央の発言に一番焦ったのは川崎先生で、奈央の言ってることが本当なのかと確かめだした。
「み、水野。それはどこで見たんだ? 時間は?」
「○○ビル脇、人目の付かない通路で、夜の7時になる少し前です。助けられた人は、直ぐにどこかへ行ってしまいました」
川崎先生の反応を見ると、唾をゴクリと呑み言葉を失っている。
どうやら、場所も時間も間違いなさそうだ。実際、昨日は参考書を買いに、その近辺にいたのも確か。
なるほど、それで奈央の奴、待ち合わせ時間に遅れたのか。
つーか、喧嘩を見たんなら俺に一言言っとけ! それよりも、何故すぐに俺を呼ばなかったんだ!
「林田さんも柏木さんも、誰かに謝らなければならないことは、何一つしていないと思いますが」
笑顔を消した奈央が、意思の強い目で川崎先生を真っ直ぐに見る。『悪いことは悪いと謝るべきだ』そう奈央と語っていた川崎先生に向けて、林田を疑ったことを責めるように。
笑顔を封印した奈央と、赤鬼から青鬼にへと姿を変えた川崎先生が対峙する。
「わ、悪かったな林田。これからは誤解を受けないように気をつけなさい」
青鬼の白旗を上げた言葉により、奈央はすぐさま笑顔を取り戻すと、
「では、私はこれで失礼します」
踵を返し颯爽と帰って行った。
しかし、林田たちの濡れ衣は晴れても、これでは川崎先生の立つ瀬がない。
「林田も規律は守らないとな。学校内で決められてることは、きちんと守るようにしろよ」
身なりを指摘していた川崎先生のフォローも込めて、林田に注意をしてから、ふたりも帰らせた。
俺と川崎先生との間に流れる気まずい微妙な空気は、
「ご迷惑お掛けしました」
謝る俺の言葉を無視して、川崎先生が職員室から出て行ってくれたことで一先ず逃れることが出来た。
机に戻ると、名簿順に読みやすく纏められた提出物が裏返しに置いてある。それを表向きにすると、メモが一枚。
『バカな大人へ。貴重な時間を勝手に奪うな。頭下げて謝って』
反射で「ごめん」とポツリ謝ると、3大ワードが散りばめられたメモ用紙を、そっとポケットにしまい込んだ。