「お前、あんなこと言ったら、川崎先生に目つけられるぞ?」
帰るなり昼間手伝わせたことへの詫びを入れ、夕食は俺の手料理を振舞う中、出る話題は今日の一件だ。
「別に今更どうってことない。目ならとっくに付けられてるし」
「おい、奈央。何かしたのか?」
「そうじゃない。アイツがヤラシイ目で、いつも見てくるってだけの話」
何だと? それは聞き捨てならない。
「変なことされたりしてねぇだろうな?」
「敬介みたいに抱きついたりはしてこないけどね」
俺だって一回だけだ。それも勿体ないことに、酔っていて覚えていないときてる。
「でも、今度は違う意味で目つけられるかもな? 色々煩く言われるかもしんねぇぞ?」
「文句ねぇ⋯⋯。私の一体どこに文句つけようって言うのよ。言えるもんなら言えばいい。望むところよ」
顔色一つ変えずサラッと言ってのけた。
清々しいほど、どこまでもぶれずに強気な女だ。でも、何かあった時には、その気の強さだけではカバーしきれない危険性だってある。昨日の林田たちの件だってそうだ。
「昨日、柏木と林田を見たとき、何で俺を直ぐに呼ばなかった? 怪我がなかったから良かったものの、何かあったらどうすんだよ」
目だけ動かし俺に焦点を合わせはしたものの、直ぐに視線を元に戻した奈央は、サラダに箸を伸ばしている。
青虫め。人の話を聞け。そして、答えろ。
「奈央、聞いてんのか?」
「敬介を呼ぶほどじゃないと思ったの。林田さん、強いしね」
「そうか、強いのか。なら安心だなぁ⋯⋯ってなるか! 次からはお前もボケーッと見てないで誰か大人を呼べよ、いいな?」
「はいはい」
そんな煙たがるなって。自分でもこんなに口煩い奴だったか、と驚いているところだ。だが、心配なものはどうしようもない。言わずにはいられなくなる。
「なぁ、ところでさ。奈央が言ってた、お前の近くにいる、バカみたく頭を下げる大人って誰?」
「さぁ?」
「惚けんなよ。お前が感心するなんて意外」
「物珍しい生き物だなと思っただけ」
――俺は珍獣か!?
「良い所のお坊ちゃまが人に頭下げるのって、抵抗あるんじゃないかと思ってたから」
それは関係ないだろ。人に興味は持てなかったが、そんな風に考えたことはない。
とりあえず、お坊ちゃま呼びだけは止めてくれ、と念を送りながら話を続ける。
「相手を傷付けて、それが自分に非があるって気付いた時、自分の胸も痛むんだって最近知った。この痛みを同じく相手にも味あわせてると思ったら、謝らずにはいられなくなる。きっと、親しくなればなるほど、余計にそう思うのかもしんねぇな」
「そう⋯⋯ご馳走様でした」
食器を手にし立ち上がった奈央は、背を向けると吐き捨てるように言った。
「相手を傷つけたって分かっていても、それを忘れて笑って暮らしてる人たちもいる。幸せに浸ってね。どんなに親しい間柄でも、所詮、みんな自分が可愛いのよ」
この日の奈央は、それ以上多くを口にすることはなかった。何が奈央に刺さったのか、まるで入り込むなと拒絶するように、無言の圧力をかけられている気がした。
ただこの時。奈央の中には人知れず潜む暗い影がある。そう確かに感じた。