三学期も一ヶ月が過ぎ、あの喧嘩の一件以来、柏木は学校へ来たり来なかったりの日々が続いていた。
登校してきても、どこか塞ぎこんでいるように見える。
「おーい、最近元気ないじゃん」
二日ぶりに顔を出した俺の授業の後、廊下を歩く柏木の頭を、軽く教科書で小突いて呼び止めた。
「体の調子が悪いって訳じゃないんだろ?」
「⋯⋯うん」
「たまには愚痴りに来いよ。前はあれほど押し掛けてきたのに。それくらいなら、また付き合ってやるからよ」
「ありがとう、先生」
笑顔を見せるも、それからも柏木は俺の所へ来ることはなかった。
そんなある日の休日。
車で自宅から離れた場所まで、奈央とふたり食材の買出しに出掛けていた時のことだった。
この日は、冷たい雨が静かに降り続き、いつ雪に変わってもおかしくないほど、外は厳しい寒さに包まれていた。
ワイパーが忙しなく動く向こう側。何かを見つけたのか、助手席に座っていた奈央が少しだけ身を乗り出す。
「あ、敬介好みの女の子発見」
「どこどこ?」
勿論、本気じゃない。本気で女の子に興味があったわけじゃないが、あまりにも軽く言う奈央のノリに合わせて、指で示された方へと視線を向けた。
「ほら、あそこ」
「どこだよ⋯⋯って、おい! お前はなに暢気に言ってんだよ!」
奈央が言うところの俺好みの女を見つけて、急いで車を路肩に停める。
「奈央、いいか。念のため言っとくが、俺の好みとかの問題じゃねぇからな」
「はいはい。それよりいいの? 早くしないと連れてかれちゃうよ?」
「ったく!」
だけどこの状況、かなりまずい。
奈央とふたりでいることがバレてしまう。が、考えてる暇はなかった。
「ちょっと待ってろよ」
ドアを開けながら声を掛けると、奈央は帽子を被りサングラスも掛けた。
「これなら問題ないでしょ?」
「だな。じゃ行って来る」
傘を片手に持ち、降りしきる雨の中を飛び出した。
「おい、俺の知り合いに何か用か?」
女の肩に回した、チャラけた男の腕を掴み、捻りあげる。
「うっ! っんだよ、ズブ濡れだから送ってやろうとしただけだろ!」
「だったら、もう必要ねぇからとっとと失せろ」
掴んでいた腕を突き飛ばすように離すと、尻餅をついた男は、一心に足を動かして車に乗り込み走り去っていった。
「なーに、やってんだよ、こんなにびしょ濡れになって。車で送ってく。ほら、来い」
微動だにせず、固まったように立ち竦んでいるのは、柏木だった。
動こうとしない背中を押しながら、車まで歩かせる。
後部座席のドアを開け座らせようとしたが、中にいた奈央の存在に驚いた柏木は、
「あ、ご、ごめんなさい。先生デート中だったんでしょ? 私、一人で帰れるから」
後ずさりしてしまう。
「大丈夫じゃねぇだろ。そんなんで一人フラフラさせられないの。いいから大人しく送らせろ」
「でも⋯⋯、シート濡らしちゃうし」
「そんのもん、気にしないでいい」
俺に合わせるように柔らかく微笑んだ奈央は、手だけで『どうぞ』と促し、その誘いに応じた柏木が、「すみません」と恐縮しきりで、その身をシートに沈めた。
濡れた柏木に、トランクに積んであったブランケットを掛けてやり、奈央はハンカチを差し出す。そのハンカチを受け取らず、食い入るように奈央を見る柏木。
⋯⋯ば、バレたか?
なのに奈央ときたら焦りもせずに、
「使って?」
平然と声まで出しやがる。
ヒヤヒヤしながら様子を見ていたが、こんな所に奈央がいるとは端から思っていないせいか、
「あっ、すみません。彼女さんが素敵過ぎて見惚れちゃいました。ハンカチお借りします」
ハンカチを受け取った柏木は全く疑わず、完全に俺の彼女として認識したようだった。
「柏木? 何があったかは知らないし、無理に聞こうとも思わないけど、ヤケになっても良いことなんて一つもないぞ」
ルームミラー越しに見る柏木は下を向き、膝の上でギュッと握り締めたハンカチを見ている。
「⋯⋯ごめんなさい」
「別に俺に謝る必用はないけど、後悔するようなことして後で傷付くのは自分だ。それだけは忘れるなよ」
「⋯⋯はい」
本当に分かっているのかは怪しいが、とりあえず素直に返事をした柏木は、話題を変えるように明るい声で話し始めた。
「先生は、いいですね! こんな素敵な彼女さんがいて」
「え⋯⋯あ、いや⋯⋯」
⋯⋯彼女じゃないんだが。
「私、自分が幼いから、彼女さんみたいな大人の女性に憧れちゃうんです」
「そ、そうか」
柏木と同じ、17歳なんですけど。
「先生、こんな素敵な人、どこで見つけたんですか?」
「そ、それは、だな⋯⋯」
学校だ⋯⋯、とは言えまい。
咄嗟に対応できない俺に代わって、
「ふたりだけのヒミツなの。ねぇ、敬介?」
奈央が口を挟む。しかも、普段からは想像もつかない、甘みを多分に含んだ声色で。いつものふてぶてしさは何処へやら。ものの見事に素を消し去っている。
この女優。バーで俺と鉢合わせしたあの日と同じように、ニ度目の恋人役を熱演中らしい。
「羨ましいなぁ。ホントお似合いですね」
「あは⋯⋯はははは」
もう笑うしかないだろう。演じるなんて高度な技、俺には無理だ。大根役者にすらなれやしない。