「はぁー」
盛大な溜息を吐きながら、
『お疲れさま。ご飯作ってあるから早く来い!』
⋯⋯へ?
お疲れさま? 奈央が俺に労いの言葉を!?
アイツがこんなこと言うなんて初めてだ。
この際、後に続く命令形は気にしちゃいけない。そこは目を瞑ろう。実際、奈央の言いなりに超特急で用意するわけだし。
俺は、自分の部屋に駆け込むなり洋服を脱ぎ捨てシャワーを浴びると、部屋着に着替えて奈央の部屋へと急いだ。
「奈央、ただいま!」
ドアを開け中に入ると、玄関にまで漂ういい匂い。
もしかして、これって。
「遅い!」
「これでも急いで来たんだけど」
リビングの扉が開き、顔を覗かせた奈央。
「お腹、空いてるよね?」
「ああ。メチャクチャ空いてる」
「そう。良かった」
第一声の “遅い” とは打って変わって、満面の笑みを惜しげもなくこの俺に披露してくれる。
「なんか、すげーいい匂いすんだけど。これって、もしかして⋯⋯」
「うん、おでん。敬介、食べたかったんでしょ?」
俺が学校で食いたいって言ったから、作ってくれたのか?
やばい。マジですげぇ嬉しいかも!
未だかつて、こんなに優しくされたことがあっただろうか。
「いいから、早くこっちに来て座んなよ」
「おう。ありがとな、奈央」
感激する俺は足早にリビングに行き、言われるままに席に着いてテーブルに並ぶものに目を
――まずい。俺、泣いちゃうかも。
但し、流れ出そうなのは、残念ながら嬉し涙ではない。と注釈がつく。
箸やら取り皿やらを並べて、やっと落ち着いて奈央も席に座る。
「敬介、ビール飲む?」
「いや、いい」
だから、何で未成年の家にビールが置いてあんだよ。俺はいつも自分で飲む分は持ち込んでるっていうのに。そう文句を垂れる気力は既に奪われていた。
「あのさ、奈央」
「なに?」
「奈央ん家には『普通』の鍋はないのか?」
「あるけど?」
⋯⋯そうか、あったんだな。
「じゃ、何でそれを使わないんだ?」
「決まってんじゃない」
一体、何がこの小悪魔娘の中で確定してしまっているのだろうか。
「普通の鍋じゃ入りきらないからに決まってるでしょ」
当然とばかりの返答だ。
「へぇ、そうなんだ。それでこれは? これも、元々持ってたものか?」
「まさか。買ったの」
「そうか。買っちゃったんだな」
「うん」
テーブルのド真ん中に置かれたおでん鍋。普通の鍋でも土鍋でもない。
美味しそうな匂いで人を惹き付けて止まない白い湯気を立ち上げているそれは、業務用のおでん鍋だった。
コンビニに置いてあるものよりも、更に大きいように見えるのは気のせいか。どちらにせよ、明らかに家庭用じゃない。
普通の鍋では入らないから業務用の鍋を買うという発想は、何らおかしなことではないと思っているらしい。
普通の鍋に入るだけの分量にしようという思考は、どうやら持ち合わせていない模様だ。
――――頭良いくせに、謎だ。
もしかして、これは奈央の優しさではなく、俺に対する嫌がらせなんじゃないか、とさえ思えてくる。
関東風に仕上げられたプカプカと浮ぶおでんたち。しかし、その下の奥深くに、どれだけの具材が沈んでいるのだろうか。
奈央は金持ちの娘なのに決して食べ物を粗末にはしない。それは良いことなんだが、時としてそれは、俺を大いに苦しめる。涙が出そうな程に、だ。
「今の時期なら、明後日くらいまで保つよね?」
⋯⋯明後日までの献立は、既に決定済みなんだな。
「明後日までは、保たないんじゃないか?」
おでん地獄に陥りたくなくて、そんなことを言ってみるが、
「だったら、明日までに食べきればいいじゃない」
「いや、やっぱ保つと思う」
直ぐに前言撤回した。
明日までじゃ、一度にどんだけの量を喰わされることか。
「いいから、早く食べなよ」
「あぁ、頂きます」
取り放題、食べ放題のおでんを皿に乗せ、口へと運ぶ。
「おっ、すげぇ旨い」
「そ? 沢山食べてね」
「おぅ」
旨い。確かに旨い。今日だけなら、沢山食べられるかもしれない。けど、二日後も同じ感想が言えるかと言えば、
「はぁーー」
「何なのよ、その溜息は。私のおでんに何か文句あるわけ?」
「そ、そうじゃねぇよ」
文句があるとは言えない。『作りすぎなんだよ!』と、勝てない相手に声高に指摘するのは愚かな行為だ。
それに、重い重い溜息の原因は、あるまじき量のおでんだけが理由じゃなかった。