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第49話


「大人か⋯⋯」


 柏木の言葉を受けてポツリ呟けば、何かを期待するように目を輝かせ、身を乗り出して訊ねてくる。


「先生、どうやれば早く大人の女になれる?」


 素直というか何と言うか。そんなに大人になりたいのだろうか。


 でも大人って言われても⋯⋯。


「柏木、訊く相手間違ったみたいだな。それ、俺にもぜんぜん分からん」


 相手が本気なだけに、この場だけ取り繕うことは出来なかった。


「え?」


 何で分からないの? とでも言いたげに、柏木は目をしばたたく。

 しかし、これが本音なのだから仕方がない。


「柏木から見て、俺って大人に見えるか?」


 柏木は大きく頷くと「だって大人でしょ?」と、不思議そうに言う。


「大人に見えるだけ。大人としての振る舞いが、お前たちよりは多少上手いだけだ。ま、俺の場合だけどな。自慢じゃないが、全然成長してないって最近思い知らされた。周りから見る目と実際の中身は、だいぶ違うってことだ」


「そうなの?」


「ああ、そうなの。情けないことにな」


 自嘲的な笑みを溢しわざと項垂れて見せれば、つられるように柏木もクスクスと笑った。


「クールな大人だと思っていたのが、本気で恋した途端変わった女性も知ってるし、子供だと思っていたのが、妙に大人びてる女性も知ってる。正直、女ってもんが良く分からなくなった。カッコ悪いよな。そう言うわけだから、残念ながら柏木を納得させるだけの答えを俺は持っていない。でも⋯⋯」


 言葉を区切り柏木を見る。


「良い女ってのは、年齢関係なく良い女なんじゃないのか? だから、年上の朝倉の彼女も、お前の存在に焦ったのかもな」


 年下相手に嫌がらせをする碌でもない女だ。自分にはない純粋さを持つ柏木の存在は、さぞや眩しく疎ましかったことだろう。


「それって、私も良い女ってこと?」


「ああ。だから無理して大人になる必要なんてないぞ。嫌でも気づいたら大人になってるかもしれないしな。だったら、一瞬一瞬の今の自分を大事にしてやれよ。そんなお前の良さを分かる奴が、いつかきっと現れるから」


「⋯⋯うん⋯⋯そうだね。そうだよね! ありがとう、先生! あーあー、私の良さに気付かないハルはバカだよねー!」


 ああ、本当に大バカだ。女の裏の顔を知ったとき、朝倉はどう思うのか。でも、それもまた経験だ。


 柏木は辛い気持ちを押し隠し、笑って見せている。

 次こそは笑顔が似合うお前らしい恋愛ができるといいな。

 おどける柏木を見ながら、心の内でそっと願った。



✦✥✦



 定時で学校を後にし、いくらか陽が延びた帰り道。柏木との会話を思い返しながら、小さな店構えのケーキ屋へ立ち寄り、家へと急いだ。


「奈央、ただいま」


 大きな箱に包まれたホールケーキを手土産に奈央の部屋へと顔を出す。


「進級おめでとう⋯⋯嘘つき娘め」


 付け加えた言葉は聞こえない程度に言ったつもりが、どうやら奈央は地獄耳だったらしい。バッチリ聞こえたようだ。

 差し出す箱を見ていた奈央の視線は、瞬く間に変化を見せ、


「それって祝ってくれてるの? それとも喧嘩売ってんの? だとしたら、このケーキ。このまま敬介の顔面に飛ぶことになるけど」


 険のこもった眼差しで、何とも物騒なことを言う。


 顔面にケーキって、俺はお前とコントする気はサラサラねぇぞ。


「勿論、お祝いに決まってんだろ」


 険を引っ込めた眼差しで、奈央は差し出した大きな箱をもう一度見た。


「ねぇ。箱からして大きすぎるんだけど。どうみたってこれ、二人分の量じゃないでしょ」


 溜息まじりに嘆く奈央に、食べもんの量に関してだけはお前に言われたかねぇぞ! と思うものの、ケーキ塗れになる自分を想像したら、口にするのは憚られた。


「俺も食うよ、ちゃんと買ってきた責任は取る」

「ふーん、そう」


 珍しく自分から食うと言った俺に驚いているのか、キョトンとした表情を見せる奈央。


 俺だって覚悟の上で買ってきたんだ。

 自分も苦しむと分かっていながら、全ての商品に仏語の名がつけられている小さなケーキ屋で。『Temps important』と、名付けられたこのケーキを見つけたとき、どうしても買いたくなった。


 それから俺たちは、夕食を軽めに済ませ、ケーキを頬張った。


 思っていたよりも奈央は結構な量を食べている。

 絶対、苦しいはずなのに、『敬介、美味しい』なんて言いながら。

 お祝いで買ってきたからと、珍しく俺に気を遣っているのかもしれない。


 奈央の皿を奪い、食べかけのケーキを平らげる。


「無理すんな。これ以上食ったら腹こわすだろ」


 冷めたように見えるし口数が少ないから分かりづらいが、本質は優しい女だ。

 そんな奈央とのひと時は、俺にとって『Temps important』。



 日本語でそれは──“大切な時間”。



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