夢中で何かに取り組んでいる時は、体感的に通常よりも時間の流れが早い。そう思えるほどには、大変な中でも担任としてしてのやり甲斐を感じ、充実した日々は駆け足で過ぎていった。
初めは大人しかったうちのクラスも、日に日に騷しくなり、今じゃ教室が賑やかなのは当たり前。
五月には、クラスの団結力をも高めた体育祭も行われ、高校生活最後の良い思い出も作れたようだ。
ただ、若干二名ほど、団結力とは縁遠い者もいた。
酷いことにその内の一人は、体育祭の前夜になって、
『明日は、具合が悪くなる予定なので休みます』
なんと、堂々の病気予告宣言までしてくる始末。
さっきまで、優雅にコーヒーを飲んでたのは誰だ!
顔色だって、健康そのものじゃねぇか!
担任のベッドの中、馬鹿げた欠席理由を
『そんな仮病認めないからなッ!』
騒ぐ俺を何事もないよう聞き流し、勝手に夢の中へと可愛らしい顔で旅立って行った。
『俺の体調の方がおかしくなりそうなんだけど』
奈央を見下ろしながらボヤイてみても、奴の耳にはもう届かない。
この状況で何もしないこと数ヶ月。俺にこんな忍耐力があったなんて、感動すら覚えてしまう。
そんな苦悩を露とも知らない奈央を、当然俺は、朝早くから叩き起こし体育祭に強制参加させた。
初めこそ不貞腐れていた奈央だったが、唯一アイツが参加した競技では、楽しそうに笑う顔も見られた。
三年の担任だけがやらされる仮装行列。
“女装or男装”と言う、何ともアバウトなテーマで俺を仮装させるうちの生徒の中で、メイク担当だった奈央。
他のクラスの男子教師も化粧をさせられていたが、とりわけ俺の扱いは酷いもんだった。
全ては奈央のせい。ファンデーションを小麦粉で代用し、バカ殿みたいな仕上がりにした、アイツのせい。
それでもあの時だけは、優等生じゃない素の奈央の笑顔だと分かったから、『ならいいか!』と、単純に喜ぶ俺は、相当病んでいるに違いない。
最近、少しずつ笑顔が増えてきた、奈央の変化。
学校では、相も変わらず猫を何十匹も被り優等生面だが、ふたりきりの時には、前よりも喋るようになったし、よく笑うようにもなった。
勿論、毒は吐くし、可愛いげのない発言は多々あれど、それでも構わない。合間に見せる笑顔に会えるのなら、それが何よりもの癒やしであり喜びで。
こんな日が、いつまでも続けば良い、そう願わずにはいられなかった。
✦✥✦
今日もふたりで夕飯を摂っていると、小鉢が差し出された。
「これも食べて。疲れにはお酢がいいんだから。それに⋯⋯」
差し出されたのは、ワカメの酢の物。
健康を気遣ってくれるのは有り難いが、お前が心配してるのは、本当にそれだけか?
何やら含みがあるように思えてならないんだが。
「 “それに” の後に何が言いたいのか、一応聞いといてやるよ」
「決まってるじゃない。ワカメは髪の毛にいいのよ、髪の毛に」
だろうと思ったよ。二度も髪の毛を強調しやがって。
「ハゲねぇよっ! それよりお前こそ、先にメシ食ってろよ。健康にも美容にも悪いだろうが」
俺が帰って来たのは午後の九時を少し回ってから。だというのに奈央は、まだ飯を食べていなかった。
それも今日だけに限ったことじゃない。待つつもりはないなんて言っておきながら、帰りが遅くなろうとも、大抵奈央は俺と一緒に食事を摂ろうとする。
「キリがいいところまで勉強してただけ。いつご飯を食べようと、私の勝手でしょ」
「そりゃそうだけど⋯⋯。あっ、そうかそうか。奈央は俺がいないと寂しいのか!」
おっ。ちょっとばかし調子に乗りすぎたか。
そんな乱暴に茶碗をテーブルに置くなよ。割れちゃうだろ?
「マシ」
表情がごっそり抜け落ちた顔で、たった二文字だけ伝えられても⋯⋯。
「えーと、意味が分かんねぇんだけど」
「マシだって言ってんの。敬介でもいないよりマシ」
投げやりな口調に酷い言われよう。だというのに、堪えられそうになかった。
「ねぇ、気持ち悪いんだけど」
「悪りぃ」
自覚はある。だから素直に謝ってみた。謝ってはみたが、これがニヤケずにいられるか。
ひとりより俺が居ることを望んでくれた嬉しさが勝って、自分でも制御不能だ。
「その締まりのない顔何とかして」
「無理。珍しく奈央が可愛いこと言うから」
「おかしいんじゃないの? 可愛いことなんて一言も言ってないでしょ? マシって言ったのよ? 暇つぶしには丁度良いって程度。分かる?」
「おぅ、分かった分かった。俺も奈央を弄るの楽しいし。いや、俺が弄られてんのか? ま、どっちにしても飽きないよな、お前といると」
「変わりもんだよね、敬介って。あ、もしかして⋯⋯」
突然、奈央が疑いの目で俺を見る。
「敬介って、あっちの方も変な趣味があったりとかする?」
「あるかっ!」
ニヤケ顔は瞬時に引っ込み、速攻で否定だ。
「いいよ、隠さなくても。別に偏見は持ってないつもりだから」
「だから、ねぇって! 俺は至ってノーマルだ!」
「カミングアウトする勇気はないんだ」
「ちげぇって言ってんだろうが!」
味噌汁を吹き出しそうになりながら、高校生相手に普通を叫ぶ23歳。
食事時にする話じゃねぇだろ、性癖のアレコレなんて!
――――でも。
こんなくだらない会話をするこの時が、教師である俺と生徒である奈央との隣人生活において、何も考えずに一緒に過ごせた、一番楽しい時期だったのかもしれない。