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第52話

 夢中で何かに取り組んでいる時は、体感的に通常よりも時間の流れが早い。そう思えるほどには、大変な中でも担任としてしてのやり甲斐を感じ、充実した日々は駆け足で過ぎていった。


 初めは大人しかったうちのクラスも、日に日に騷しくなり、今じゃ教室が賑やかなのは当たり前。

 五月には、クラスの団結力をも高めた体育祭も行われ、高校生活最後の良い思い出も作れたようだ。

 ただ、若干二名ほど、団結力とは縁遠い者もいた。

 酷いことにその内の一人は、体育祭の前夜になって、


『明日は、具合が悪くなる予定なので休みます』


 なんと、堂々の病気予告宣言までしてくる始末。

 さっきまで、優雅にコーヒーを飲んでたのは誰だ!

 顔色だって、健康そのものじゃねぇか!


 担任のベッドの中、馬鹿げた欠席理由をのたまった生徒は、


『そんな仮病認めないからなッ!』


 騒ぐ俺を何事もないよう聞き流し、勝手に夢の中へと可愛らしい顔で旅立って行った。


『俺の体調の方がおかしくなりそうなんだけど』


 奈央を見下ろしながらボヤイてみても、奴の耳にはもう届かない。


 この状況で何もしないこと数ヶ月。俺にこんな忍耐力があったなんて、感動すら覚えてしまう。


 そんな苦悩を露とも知らない奈央を、当然俺は、朝早くから叩き起こし体育祭に強制参加させた。

 初めこそ不貞腐れていた奈央だったが、唯一アイツが参加した競技では、楽しそうに笑う顔も見られた。


 三年の担任だけがやらされる仮装行列。

 “女装or男装”と言う、何ともアバウトなテーマで俺を仮装させるうちの生徒の中で、メイク担当だった奈央。

 他のクラスの男子教師も化粧をさせられていたが、とりわけ俺の扱いは酷いもんだった。

 全ては奈央のせい。ファンデーションを小麦粉で代用し、バカ殿みたいな仕上がりにした、アイツのせい。

 それでもあの時だけは、優等生じゃない素の奈央の笑顔だと分かったから、『ならいいか!』と、単純に喜ぶ俺は、相当病んでいるに違いない。


 最近、少しずつ笑顔が増えてきた、奈央の変化。

 学校では、相も変わらず猫を何十匹も被り優等生面だが、ふたりきりの時には、前よりも喋るようになったし、よく笑うようにもなった。


 勿論、毒は吐くし、可愛いげのない発言は多々あれど、それでも構わない。合間に見せる笑顔に会えるのなら、それが何よりもの癒やしであり喜びで。かつて経験のない不慣れなこの感情は、いつだって俺の胸を温かくする。


 こんな日が、いつまでも続けば良い、そう願わずにはいられなかった。



✦✥✦



 今日もふたりで夕飯を摂っていると、小鉢が差し出された。


「これも食べて。疲れにはお酢がいいんだから。それに⋯⋯」


 差し出されたのは、ワカメの酢の物。

 健康を気遣ってくれるのは有り難いが、お前が心配してるのは、本当にそれだけか? 

 何やら含みがあるように思えてならないんだが。


「 “それに” の後に何が言いたいのか、一応聞いといてやるよ」

「決まってるじゃない。ワカメは髪の毛にいいのよ、髪の毛に」


 だろうと思ったよ。二度も髪の毛を強調しやがって。


「ハゲねぇよっ! それよりお前こそ、先にメシ食ってろよ。健康にも美容にも悪いだろうが」


 俺が帰って来たのは午後の九時を少し回ってから。だというのに奈央は、まだ飯を食べていなかった。

 それも今日だけに限ったことじゃない。待つつもりはないなんて言っておきながら、帰りが遅くなろうとも、大抵奈央は俺と一緒に食事を摂ろうとする。


「キリがいいところまで勉強してただけ。いつご飯を食べようと、私の勝手でしょ」

「そりゃそうだけど⋯⋯。あっ、そうかそうか。奈央は俺がいないと寂しいのか!」


 おっ。ちょっとばかし調子に乗りすぎたか。

 そんな乱暴に茶碗をテーブルに置くなよ。割れちゃうだろ?


「マシ」


 表情がごっそり抜け落ちた顔で、たった二文字だけ伝えられても⋯⋯。


「えーと、意味が分かんねぇんだけど」

「マシだって言ってんの。敬介でもいないよりマシ」


 投げやりな口調に酷い言われよう。だというのに、堪えられそうになかった。


「ねぇ、気持ち悪いんだけど」

「悪りぃ」


 自覚はある。だから素直に謝ってみた。謝ってはみたが、これがニヤケずにいられるか。

 ひとりより俺が居ることを望んでくれた嬉しさが勝って、自分でも制御不能だ。


「その締まりのない顔何とかして」


「無理。珍しく奈央が可愛いこと言うから」


「おかしいんじゃないの? 可愛いことなんて一言も言ってないでしょ? マシって言ったのよ? 暇つぶしには丁度良いって程度。分かる?」


「おぅ、分かった分かった。俺も奈央を弄るの楽しいし。いや、俺が弄られてんのか? ま、どっちにしても飽きないよな、お前といると」


「変わりもんだよね、敬介って。あ、もしかして⋯⋯」


 突然、奈央が疑いの目で俺を見る。


「敬介って、あっちの方も変な趣味があったりとかする?」

「あるかっ!」


 ニヤケ顔は瞬時に引っ込み、速攻で否定だ。


「いいよ、隠さなくても。別に偏見は持ってないつもりだから」


「だから、ねぇって! 俺は至ってノーマルだ!」


「カミングアウトする勇気はないんだ」


「ちげぇって言ってんだろうが!」


 味噌汁を吹き出しそうになりながら、高校生相手に普通を叫ぶ23歳。

 食事時にする話じゃねぇだろ、性癖のアレコレなんて!


 ――――でも。


 こんなくだらない会話をするこの時が、教師である俺と生徒である奈央との隣人生活において、何も考えずに一緒に過ごせた、一番楽しい時期だったのかもしれない。

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