戦闘となる現場に誘われ、急展開過ぎてペトロも心の準備ができていない。寧ろまだ気持ち悪い。
「もう連れて行くんですか、ユダ」
「どちらにしろ、近いうちに戦力になってもらわなきゃだし。デビュー戦とは言わないけど、体感してみる?」
ユダに訊ねられたペトロは、少し考えた。自分が何のためにここに来て、どうなろうとしているのか。鍛えられた鉄のように心の中に固く留めている思いを、誰かに問い誓いを立てるように反芻し、決意の表情で頷いた。
「じゃあ、ボクも一緒に行くよ。最近まともに戦えてないし」
ペトロはまだ面子に数えられないので、シモンが加わって四人で出動することにした。
ヤコブに留守を頼み、四人は表に出た。
「それじゃあ。初めてだから手を繋ごうか」
「えっ。手?」
これから戦いに行くというのに、仲間に、しかも男同士で手を繋ぐ意味がわからないまま、ペトロはユダに手を握られた。
「行くよ。私のタイミングに合わせて」
ユダは足に力を貯めると、「せーのっ!」とタイミングを合図して地面を蹴った。
「うわっ!?」
すると二人の身体は、逆バンジージャンプをしたように空中に飛び出した。その高さは、おもちゃのブロックで作ったかのような連なるアルトバウと中庭を見下ろせ、近所の緑豊かな公園までも見渡せる。
「このまま行くよ。手を離しちゃダメだからね!」
事務所の正面のアルトバウの屋上に一度降り立つが、すぐに方向転換して別の屋上に飛び移り、陸上のメダリスト選手並みの速さで建物伝いに駆ける。
「ちょ……速いっ!」
「早く到着するための移動手段だよ。すぐになれるから!」
(慣れるって……。初心者向けの移動方法じゃないだろこれ!)
少しだけ自分の選択を後悔しながらペトロは腕を引かれ、ユダとヨハネとシモンとともに悪魔出現の気配がする方へ向かった。
三人が到着したのは、デッサウアー通りとシュトレーゼマン通りがぶつかるT字交差点。歴史博物館や私立大学が目の前の場所だ。
その道端で、学生らしき若い女性が苦しみ呻きながら、逃げ惑う人々に襲い掛かろうとしていた───いや。まるで、助けを求めて縋ろうとしているように見える。
降り立ってすぐさま一般人の避難誘導をし、適当なところで領域を展開する。
「
領域内には使徒と女性だけとなった。
「あ"あ"あ"っ!」
悪魔によって自身の負の感情をコントロールできなくなった女性は、痛みにも聞こえる叫びとともに倒れた。そして、その身体から黒い霧が吹き出し、憑依していた悪魔が姿を現した。
が。これから戦闘だというのに、ペトロも若干倒れそうになっていた。
「大丈夫、ペトロくん?」
「ジェットコースターみたいだった……」
「確かに、最初はジェットコースターだな」
「慣れても、一人乗りジェットコースターだけどね」
人間離れした身体能力で跳躍したり、建物の屋上をジャンプで渡ったり高速で走ったりと、人生初経験の異次元な移動で少々参っていた。それでも、移動のほんの数分で身体が慣れてきたのが不思議でならない。
ペトロは、目の前の異形を初めてちゃんと目視した。
人の影のように黒く、頭と腕と足を形作り、顔も認識できる。この、この世の生き物ではないものが人の中に棲み付くなど、常識として理解はしていても信じられない。
だが、今見ているものがこの街に蔓延り、そしてペトロが相対する敵となったのだ。
「あの鎖って?」
ペトロは、女性と悪魔を繋げている鎖の正体を訊いた。
「あれは、人間で言えば臍の緒みたいな役目だよ」
「憑依した人間の外に出ても、繋がった鎖から
「何だよそれ。マジで貪ってるのかよ」
「本当、頭にくるよね。だけどあれを断ち切らないと、憑依した悪魔を
「今回は、僕が潜ります」
「行ってらっしゃい、ヨハネ」
ヨハネは倒れた女性の傍らに座って頭に触れ、その深層への潜入を始める。
「
「潜るって……」
「憑依された人の深層に潜入してトラウマを和らげ、悪魔への負のエネルギーの供給を妨げるんだ。悪魔を祓った際の反動も抑えられるんだよ」
(そんなこともしてるんだ……)
「こっちも来そうだよ、二人とも」
「ペトロくん。絶対に私の側から離れないでね」
ユダはペトロの壁となり、悪魔を迎え撃つ体勢を取る。
「ガ%ァ#£ッ!」三人に狙いを定め襲い掛かる。伸びた腕が鞭のようにうねり、コンクリートを砕き信号機を破壊する。
「
ユダは無数の光の粒を降らせ鞭の腕を切断する。がしかし、鎖から得る負のエネルギーによって腕はすぐに元通りになる。
「元に戻った!?」
「こういうところが厄介なんだよね。悪魔って」
「ボクが悪魔を引き付けるよ。ユダはペトロをよろしく!」
一番小柄なシモンは、勇猛果敢にも悪魔に接近しながら攻撃を仕掛ける。
「
落とした雷は避けられるが、「@∅μッ!」ユダも攻撃を放ち悪魔にダメージを与える。
二人は、時には
ヨハネは、憑依された女性の深層に到着した。
暗く、一つの光も音もない、どこまでも続く深海のような空間。ここが、人間のトラウマが沈む深層意識の世界だ。
その孤独の空間に、現実と違いアウトドアウェアを着た女性がへたり込んでいた。彼女の周りには、人物や風景が写った何枚もの写真や、メモ用紙、カメラ、男性物の時計などが散りばめられている。
「どうして……。どうしてなの……。わたしのせいで、あなたは……」
女性は涙するが、そこには悲傷よりも酷い自責と自己否定、そして絶望感があった。
(何かがきっかけで、大切な人を喪ったことを思い出してしまったのか……)
「あの時のわたしは、自分のことばかり……。そのせいであなたは……。わたしが手を離さなければ……。わたしは、なんて酷いことを……」
(その気持ち、わかるな……。自分のことを一番に考えてなってしまったばかりに、大切な人のことを二の次に考えてしまった)
「わたしはなんて愚かなの……。なんで、こんなわたしが生きているの……。わたしが選択を間違えなければ、あなたは……」
(その罪悪感を直接彼に伝えることもできなかったのが、心残りなんだな)
「こんな気持ちはもう嫌……。生きているのが辛い……。だからお願い……。誰でもいいから、わたしを、彼のところに連れて行って……」
女性は罪悪感からの開放を望んだ。それが、彼女が一番に望む救いだった。
だが、そんな救い方をするためにヨハネはここへ来たのではない。ヘドロのように溜まった罪悪感をなるべく排除し、この何もない孤独な世界から一歩ずつ抜け出すすべを見つけるための手助けだ。
ヨハネは女性の傍らに膝を突き、救いの梯子を掛けていく。
「あなたにとっても忘れたい記憶だというのに、それでも大切な人のことを覚えていた。それだけ、その人のことを愛していたんですね……。でも、愛する人のことを忘れるなんて、できるはずがない。例え悲痛と罪悪感にまみれた記憶だとしても、消すことはできない。それはあなたが、愛した人の存在を否定したくないからだ」
「忘れたくない……。わたしは、彼を心から愛していたから……」
ヨハネは寄り添うように、丸くなったその背中に温かな手を添える。
「きっと、あなたから忘れ去られた方が彼は悲しむ。たぶんそれが、彼の本当の意味での死になるから……。あなたが一日も忘れずにいることを、きっと彼は知っています。あなたが背負っている罪も。その謝罪は、十分に彼に届いていますよ。だからこれ以上、自分を責めないでください。あなたが望む救いは、きっと、彼が望む救いじゃありません」
「彼が望む、救い……」
「あなたは、忘れてはならない経験をした。けれどその経験は、自分自身を苦しめるために覚えてる訳じゃない。愛する人を忘れない他にも、確かな理由があるはずです。その意味を、探してください。それが、あなたがこれからも生きる理由になります。そして。彼のことをこれからも忘れないことが、彼への償いです。だからこれからは、あなたの人生を前向きに生きてください」
「……わたしは……。このまま生きていていいの?」
顔を上げた女性は頬に涙の跡を残し、大きな目にも溢れ出そうな涙を浮かべていた。罪悪感を捨て切れない罪悪感と、罪の意識から開放されたいという救いを求めた。
ヨハネは、女性を安心させるように微笑む。
「生きてください。きっと、背負っているものが罪ではないことが、未来でわかるはずだから」
女性の目に溜まった涙が、ダムのように溢れ出した。無色透明の雫が落ちると、真っ暗だった世界に光を灯した。
彼女のすぐ側にあったメモ用紙には、こう書いてあった。
“ぼくの愛する人へ。二人が大好きな山の頭頂に成功したら、ぼくの一生で一度の願いを聞いてほしい。”