ペトロの新生活が始まって、数日が経った。
出現する悪魔との戦闘に同行し、使徒としての経験値も着実に積んでいた。だがモデルの仕事はまだ来ず、収入源のアルバイトは積極的に継続中だ。
「バイト行ってきますー」
今日もデリバリーのバイトに行くペトロは、制服のジャケットを着てバッグを背負い、事務所のユダとヨハネに一言声を掛ける。
「行ってらっしゃい」
「気を付けて行けよー」
愛用の電動キックボードに乗り、いつものように出勤して行く。ユダとヨハネは、事務所の窓から走って行くのを見届けた。
「精力的に働くね。ペトロくん」
「いいんですか、バイト続けさせて。オーディション受けさせることもできるのに」
「契約書にはダブルワーク不可の記載はしてないし、使徒の使命を疎かに考えてる様子もないから問題ないよ。モデルの方は、彼の気分が乗るか乗らないかだね」
「まぁ。“本業”にやる気があるみたいなのでいいんですが」
彼らの本分は、悪魔を祓い憑依された人々を祓うこと。他の仕事は副業みたいなものだ。本業で収入が発生しない分、副業のモデル業やアルバイトをすることは本業に匹敵するくらいの義務が発生する。だから使徒の二足のわらじは、思った以上にいろんな意味で大変なのだ。
「ヨハネくん。ペトロくんが来て数日経つけど、ヨハネくんから見てどんな印象?」
「どんな? そうですね……」
ヨハネはこの数日間を振り返ってユダの質問に答える。
「協調性はあります。ヤコブやシモンとも普通に話してますし、朝食や夕飯の準備や片付けを手伝おうかって声を掛けてくれることもあります。共同生活にも少しずつ慣れてきてるようですし、僕たちと円満な関係を築こうとしていると思います」
「印象は悪くないってことだね」
「はい。ユダは?」
「そうだね……。私はまだ、心を開き切っていないように見えるかな」
「それは僕も感じますけど、まだ数日ですし、しょうがないですよ」
「そうなんだけど……。まだ本当の彼を見ていない気がする」
ユダはパソコンと向かい合いながら、憂うように目を伏せた。
「……同室だから、そう感じるんですか?」
「うん……。まだ笑った顔を見てないんだ。それがちょっと気になって……」
「使徒の特性があるということは、ペトロも過去にそれなりの経験をしているはずです。心を開き切っていないのも、きっとそのせいです。気になるかもしれませんが、今は様子を見てあげた方がいいですよ」
「……そうだね」
気を取り直して背筋を伸ばしたユダは、パソコンに向かった。
ユダが誰かを気に掛けるのは、珍しいことじゃない。ユダは、包容力が滲み出る微笑みと心配りと物腰の柔らかい振る舞いを誰にでもできる、無意識の人垂らしだ。
そんな彼の意識がペトロに向けられていることを知ったヨハネは、少し気掛かりな視線を向けた。
今日のデリバリーはミッテ区を中心に回っていた。
ミッテ区は街の中枢で有名観光スポットや主要機関があり、オフィスビルも建ち並んでいる。昼時はオフィスからの注文も殺到するので、ペトロは飲食店と依頼者のあいだを働き蟻の蜂ごとく何往復もする。
「ありがどうございました」
(次は……っと)
アプリで次の配達依頼を確認し、再び電動キックボードを走らせた。
近隣の地区と合わせて二時間ほど走り回り、ようやく落ち着いたペトロは少し遅めの昼休憩を取ることにした。
近くに鉄道が走るシュプレー川沿いのカフェに入り、バナナ・ヌテラ・グラノーラパンケーキとアイスカフェラテを注文し、天気がいいのでテラス席に座った。
向かいの歩道にもテーブルと椅子が並び、ちらほら座っているカフェの利用客が友人同士でおしゃべりしている。ペトロはパンケーキを食べながら、その人たちをじっと見つめた。
「……憑依してる悪魔が見える訳じゃないのか」
(みんなが悪魔に取り憑かれるほどのトラウマを抱えてるとは、限らないもんな。もしもこの街の人全員てなったら、土日祝日関係なく毎日祓っていかないとだし)
「それじゃブラック企業だな」
ペトロは店内に視線を移した。ピーク時を過ぎたので、さほど混んではいない。
(あの人も、この人も、どの人も、普通に生活してる。毎日仕事したり、家事や育児をしたり、友達と楽しくしゃべったり、一見して平穏に生きてきた人と何も変らない。だけど本当はオレたちみたいに、忘れたくても忘れられない、生きていることも辛くなるような出来事に遭遇しているのかもしれない。普通の人生を装うために、笑顔を被っているのかもしれない)
───憑依された人の深層に潜入して、トラウマを和らげるんだ。
(他人のトラウマと向き合うって、どんな感じなんだろう。見ず知らずなのに寄り添うって、難しくないのかな。オレにも同じようにできるのかな。自分と似た境遇の人の心を、救えるのかな。その人のことを何も知らないのに、ユダたちはどうやって救ってるんだろう)
潜入すれば相手と一対一となるので、手助けしてくれる仲間はいない。ユダは、使徒はただ人々を救うだけではなく、救う人の気持ちに寄り添ってあげてほしいと言っていたが、やってみなければ感覚は掴めない。
それをやり遂げる想像はまだできないペトロだが、意志は強く持っていた。
(オレもできるようになって、強くなりたい)
一時間ほどのんびりして、デリバリーを再開した。アプリをチェックすると、ちょうど行けそうなところがあった。どうやら偶然にも、周辺にはペトロくらいしか行ける者がいない。
ペトロは再び電動キックボードを走らせ、シュプレー川を渡って南下した。
「デリバリーです。ご注文の商品をお届けに参りました」
とあるアルトバウに到着し客と対面したペトロだが、他の客の時と対応が違い、気持ちが入っていない挨拶をした。
「ありがとう、ペトロくん」
コーヒーと軽食のデリバリー先は、
「なんでわざわざ。自分でいつもコーヒー淹れてるじゃん」
「ペトロくんの仕事ぶりを見てみたくなって」
なぜかユダはにこにこだ。そんなに待ち侘びていたのだろうか。
「ユダ。仕事に戻ってください。で、ペトロ。ついでなんだけど」
「注文はアプリを使って下さいお客様」
平板な言い方で身内にはドライな対応をするペトロ。
「そうじゃなくて。明日もバイトか?」
「いや。休むこともできるけど」
「なら、ヤコブの仕事に付いて行くか? 新しい広告の撮影があるから、見学させてもらえよ」
「興味があればの話だけど」
ユダは、ヨハネのぶんのコーヒーとプレッツェルを彼に手渡した。
「でも、一応契約したし」
「契約はしたけど、かたちだけだから。やるかやらないかは、きみ次第だよ」
「じゃあ……。少し興味あるし。付いて行くよ」
この何気ない選択で、ペトロの日常が少しずつ変化をしていくとは、彼自身にも誰にも想像できていなかった。