「今日は疲れたんじゃない?」
「まぁ。なんか、怒濤の展開過ぎて……」
(今日引っ越して来たばかりのはずなのに、一気に一週間ぶんの時間を過ごした気分だ)
「そうだよね。私もちょっと性急だったかも。ごめんね」
謝られたペトロは、同行したのは自分の意志で疲労も戸惑いも自己責任なので、そんなことはないと首を横に振った。
「環境には慣れそう?」
「こういう初対面の人との共同生活は初めてだけど、みんな悪いやつじゃなさそうだからよかった」
「仲間を思い遣れるいい子たちだから、同世代だし、すぐに仲良くなれると思うよ」
「でも。戦いにも、付いていけるようになるのかな」
使徒の役目を目の当たりにし圧倒されたペトロは、未知の世界に足を踏み入れる怖さに自信が少し負けそうだった。
「不安になっちゃった?」
「ちょっとだけ。戦ってるのを後ろから見てて、なんか、ひたすらすごいなって、迫力に圧された」
「4DXで映画を観るよりも圧倒的だからね」
「でも。やるからには頑張る。弱音を吐きたくないし、逃げ出したりしない」
「頼もしいね。私もみんなも、きみが来てくれたから心強いよ」
いったん二人の口が閉じられると、耳栓を外したようにヨハネたちの賑やかなしゃべり声が際立った。
何かを気に掛けるような面持ちのペトロは、少しばかりの憂慮を声に乗せて訊いた。
「……あのさ。気になったことがあるんだけど」
「なに?」
「戦う時、今日みたいに憑依された人のケアもするんだろ。あれって、毎回やってるの?」
「うん。毎回だよ」
「トラウマを和らげて助けるのは理解できるんだけどさ。オレたちもトラウマを抱えてるのに、人のトラウマを覗くのは辛くないのか?」
「そうだね……」
ユダは、泡の消えた琥珀色のピルスナービールを一口飲んだ。口内に広がった旨味と苦味が、余韻を残して喉を通る。
「辛くない訳じゃないよ。時には自分のトラウマと似ている人を救うことになるから、自身のトラウマを想起しやすい。だから、戦闘後に不調を訴えることもある。でもヨハネくんたちは、そのリスクをリスクとも思ってないんだ。私たちが戦っているのは、自分自身のためでもあるからね」
「自分自身のため?」
「いつかはちゃんと向き合わなければならないことが、きみたちの深層にもある。それと目を逸らさずに戦うことで、私たちは強くなれる。そしてそのぶん、多くの人を救えるようになる」
トラウマを抱える人を救い、自身のトラウマも次第に克服して強くなり、そしてその力でさらに人を救う。そのループが悪魔の根絶に繋がり、人々の安寧が守られることになる。
「ペトロくんもそのうち、憑依された人の深層に潜らなければならない。最初は怖いかもしれないけど、大丈夫?」
ユダはペトロを気遣って尋ねた。
ペトロは、人の深層に入るということを少し想像してみるが、それがどんな感覚で潜った先がどんな世界なのかは全く想像できない。
「わからない。だけど。自分のトラウマとか知らない人のトラウマとか関係なく、覚悟を決めておいた方がいいのはわかる」
「いい心構えだね。でも、確かに覚悟も必要だけど、忘れないでほしいのが、私たちはただ人々を救うだけじゃないということ。その時が来たら、自分よりも、救う人の気持ちに寄り添ってあげてほしい」
大切なことはひとつじゃないと言うように、ユダは柔和な面持ちと声音で言った。その雰囲気からは、心の底には余計なものは何も落ちていないような、波風のない人生を送って来たようにペトロには感じた。
「みんなは、それぞれどんなトラウマを抱えてるのか知ってるのか?」
「よくは知らないかな。仲間と言っても、そこは踏み入れていいものか迷うエリアだからね。訊かれた本人は辛いことを思い出さなきゃならないし。だから、どこの出身とか知ってる過去もあるけど、日常会話の中でふと触れることがあれば軽く聞くらいにしてるよ」
「そうなんだ……」
ペトロは、ヨハネとヤコブとシモンを見遣った。三人とも冗談を言い合いながら笑っていて、抱えているものの陰すら窺うことはできない。
「そんな過去があるなんて、全然見えない。強いんだな、みんな」
「頑張って強くなったんだよ」
これまでの仲間たちの健闘を想起したユダは、誇らしく思えて称えた。
「あと……」
ペトロはもう一つ訊いてみたいことがあるが、していいものかとためらう。
「訊きたいことがあるなら、なんでも訊いていいよ」
ためらっているのを察してユダは言った。ペトロは迷うが、いつかは訊くことだろうと思い、思い切って訊いた。
「あのさ……。さっき、記憶喪失って言ってたと思うんだけど……」
一度は一歩下がったが、やっぱりどうしても気になってしまった。誰かのことに興味を抱くなんてしばらくしてこなかったのに、と自分でも不思議だが、仲間になったのなら知っておかなければと思った。
するとユダは。
「うん。実は私、過去の記憶がないんだ」
ためらうことなく記憶喪失を肯定した。ビールで酔って感覚が麻痺している訳じゃない。
あまりにも事も無げに認めたので、ペトロはぽかんとしてしまった。
「本当に?」
「うん、本当。気が付いた時には、包帯を巻いて病院のベッドに寝てた。それが私にある一番最初の記憶」
「そう、なんだ……」
記憶がないことを、恐怖も不安もなく受け入れている訳ではないだろう。ならば、自身の状況をどう考えているのだろうか。しかしそんな憶測も立てられないほど、ユダの表情はすっきりしている。
これ以上はあまり詮索しない方がいいと考えるペトロだが、その外側と内側のアンバランスさが気になってつい訊いてしまう。
「……記憶がないって。生活に支障はないのか?」
「あんまりないよ。忘れてるのは自分に関することだけだし。世間一般の常識とか社会のルールは、大体覚えてる。だけど、去年以前のことは全く覚えてないから、社会情勢とか必要なことはざっと調べて頭に入れてある」
「知り合いとかも、覚えてないのか?」
「そうだね。だから、ばったり出会してもわからないかな」
「家族のことも?」
ユダは「全く」と首を振った。
「自分の身辺でわかることは、名前と、その時住んでいた場所と、通っていた大学。財布に入ってた学生証とパスポートが、『私』を証明する全てだった。でも本当に、不思議なくらい普通に日常を過ごせてる。事務所の社長ができるくらいにね」
「家族の顔も名前も覚えてないのに、全然ショックじゃないのか?」
「薄情かな。私って」
そう言って後ろめたさを表情に覗かせるが、自分を薄情だと口にした割には、どこかにいる血縁に思いを馳せるような素振りは見受けられない。
自身の記憶喪失をずっと事も無げに語っているその様子は、ペトロに不思議な感覚を抱かせた。
「記憶喪失だからって、全然気を遣わなくていいからね。見てもらった通り戦闘にも支障はないから、どんなことでも頼って」
「わかった」
「それじゃあ……」
ユダは、グラスをペトロが持つグラスに近付けた。
「改めて、私たちの事務所とチームにようこそ。これからよろしくね」
「お世話なります」
二人はお互いのグラスを軽く当てた。ぶつかる音とともに、ビールの表面が波紋を広げる。
なんでもないことなのに、ペトロはなんとなく自分の胸がむず痒くなるのを感じた。
こうして、ペトロの平凡な日々は幕を下ろし、新たな日常が始まった。