ヤコブに尻を叩かれて数日。ヨハネは、今日も今日とて事務所でデスクワークに勤しむ。
ヤコブに言われたことが毎日頭を過り、ユダをちらりと見ても、何も言わずに視線をパソコンに戻す。それを繰り返す日々だ。
(簡単に言えてたら、こんなに悩んでないし)
手を止め憂鬱な溜め息をつくと、ユダが気に掛けた。
「ヨハネくん。どうかした?」
「え?」
「溜め息ついてたから」
「いいえ。何でもありません」
こうしてチャンスが巡って来ても、秘密の箱の蓋をちょっと開けただけですぐに閉じてしまう。
こういった二人きりのシチュエーションで話し掛けられた時がタイミングだと、ヤコブは前に言っていたが、さすがに業務中は弁えて口にはしない。ヨハネは真面目だ。
再び仕事に集中し始めた時、メールが届いた。シモンが契約しているお菓子メーカーからだ。
「ユダ。今、シモンと仮契約してるお菓子メーカーから、新しいオファーが来ました」
ヨハネはメールを転送し、ユダも内容を確認する。
「新商品の広告と、正式契約か。まずはお試しでって話だったけど、正式に採用してくれることになったんだね」
「喜びますね。シモン」
「学校から帰って来たら、教えてあげなきゃね」
「それか。どうせヤコブが迎えに行くはずですから、ヤコブから伝えさせてもいいんじゃありませんか?」
「そうだね。正式契約の件だけでも、先に伝えてもらおうか」
ヨハネからヤコブに、シモンの正式契約が決まったことをメッセージ送った。新しい広告の方は、帰って来てからサプライズ報告するつもりだ。
「また賑やかな夕食になりそうだなぁ」
ペトロの初仕事が決まった時のことを思い出して、ユダは言った。それを聞いたヨハネは、ペトロの評判のことを思い出す。
私的に述べると、ペトロに関連する件はあまり気に留めたくないのだが、ユダの本心も気になってしまい、ペトロのことをどう思っているのかをさりげなく探ってみたくなった。
「そういえば……。ペトロは、先方にだいぶ気に入られたんですよね」
「気に入られたというか。起用してくれた宣伝担当さんの熱がすごかったね」
「まだ一次的な契約ですが、今回の仕事に反響があれば本契約になるかもしれませんね」
「そうだね。事務所の期待のホープは、これから化けるかもしれない」
ヨハネは、ユダのその言い方が少しだけ引っ掛かった。
「……ユダも、ペトロのことは気に入ってるんですか?」
「気に入ってるというか。将来を大いに期待してはいるよ。ヨハネくんも、楽しみだと思わない?」
「そう、ですね……」
ヨハネは複雑な心境を隠して相槌を打った。
ユダは飽くまでも、社長としての期待をペトロに抱いている。そこに私情は挟まれていない。けれど、どこか特別視しているように聞こえてしまった。
アルバイトが休みのペトロは、電動キックボードでスーパーマーケットへ買い物へ出掛けていた。気分を変えて近所のいつもの店舗ではなく、少し遠出してリッター通りにある系列店へ足を延ばした。
自分用のシャンプーとリンスなどを買い、再びキックボードを走らせる帰り道。学校帰りのシモンと、迎えに行ったヤコブに出会した。
「あれ。ペトロだー」
「お帰り、シモン。ヤコブもご苦労さま」
「おう。何してんの?」
「買い物して来たとこ」
「ペトロ、一緒に寄り道しようよ。今、ヤコブとお茶しようって話てたんだ」
誘われたペトロは二人と一緒に、リンデン通り沿いの博物館の隣にあるオーガニックベーカリーのカフェに入った。
飲み物だけ注文してテラス席に座ると、スマホを見たヤコブはシモンにあのことが知らされる。
「シモン。お前に嬉しい速報」
「嬉しい速報?」
「仮契約だったお菓子メーカーから正式契約の連絡が来たって、たった今ヨハネからメッセージ来た」
「本当に!?」
ヤコブがヨハネからのメッセージを見せると、読んだシモンは満面の笑みを浮かべる。
「おめでとう、シモン」
「やったな」
ヤコブが頭を撫でて褒めると、シモンはますます笑みを溢した。
「俺に次いでシモンが正式契約になって、
「正式契約になったってだけで、仕事はそんなにもらってないだろ」
「そこはいいんだよ。オレらが最優先するのは、モデル業じゃないんだから。でも、オーディション受かるようになりたいけどな」
「オーディション受けてるのか?」
「実は結構行ってる。けど、企業が求めてるイメージもあるから、オーディションだと使徒の肩書きが効かないんだよなー。シビアだぜー」
背凭れに寄り掛かりヤコブは空を仰いだ。みんなのヒーローだからと言っても、オーディション百戦百勝とはいかないらしい。
「なんでそんなに積極的に……」
「ボクたちって不定期出動だから、自由に動けるようにしときたいじゃない? ペトロも、バイト中断しなきゃならない時があるでしょ。だから、定期的に大きな収入があると助かると思わない?」
「まぁ。確かに……」
「定期的に広告の仕事があれば、その時その時で収入が入って来る。そんで、そのぶんバイトの時間を減らせて、身体的にも余裕ができていつでも出動可能になる、ってことだな」
大家さんの好意で家賃はチャラになっているが、毎月の光熱費などの出費はどうしても発生してしまうし、貯蓄もしておきたい。使徒が二足のわらじ……いや。三足のわらじを履いてるのは、そういう理由もある。
「なるほど……。じゃあ、モデル業は義務って感じでやってるのか?」
「そんなことないぞ。だんだん楽しくなってきたって感じだな」
「ペトロは今度、初めての撮影があるんだよね」
「うん。今から緊張する……」
この前のサービスでさえ緊張して固まったのに上手くできるのかと、ペトロは不安を拭えない。でも、初体験を緊張するのはペトロだけではない。
「最初はやっぱり緊張しちゃうよー。ボクも、最初はヤコブとヨハネに付いて来てもらったけど、全身固まっちゃったもん」
「めちゃくちゃガチガチだったよな」
「でも無事に終わってみると、やりがいみたいなのを少し感じたんだ。だから、続けられるの嬉しいよ」
「やりがい……」
「ペトロもそのうち慣れるよ。そしたら撮影も楽しくなるよ。きっと」
その不安は今だけだよと言うように、シモンは笑った。広告モデルという仕事に楽しさを見出しているシモンが、ペトロは少し輝いて見えた。
その時。三人の後ろの方でグラスが割れる音がした。振り向くと、男女カップルの男性の方が顔色を変えて喚き散らしていた。
「お前に何がわかるんだよ!」
「ねえ、落ち着いて。クリニックの先生も大丈夫だって言ってたじゃない」
「あんな気休め信用できるか! 結局誰にも理解されないんだよ! だから俺は……。俺は……!」
悪魔出現の気配を感じた三人は立ち上がった。
「来るぞ!」
シモンはすぐさま店内に駆け込み、スタッフや客たちに警告して避難を促した。人々はエプロンのままだったり荷物を置いて、慌てて外へ出て店を離れて行く。
「
「距離が近過ぎると、巻き込まれる可能性が高いんだよ」
男性の彼女にも避難を促し、彼女は男性を気に掛けながら走って離れて行くのを確認して領域を展開する。
「
「オ"$&ゥµッ!」カフェの前を中心に戦闘領域が展開されたと同時に、男性の中から悪魔が出現した。
「時間はそろそろ夕方か。メシの時間もあるし、とっとと帰りてぇな」
「ユダとヨハネは待つのか?」
「オレらで片付けるってメッセージ送っといた。お前も慣れたし、大丈夫だろ」
「∅オψ¿ゥッ!」
今回は、自身の影を操るタイプの悪魔のようだ。地中を蠢く巨大な黒い蛇のような影が、三人目を掛けて疾走して来る。
三人は怪しげな影が自分たちの足元に到達する直前にその場から下がり、地面から突き出した大きな棘を回避した。
「俺が行って来るから二人とも頼む!」
「わかった!」
「
ヤコブは倒れた男性の深層に潜り込み、悪魔の相手はペトロとシモンに任せられた。
「ダレ、ニ……ワカル、カ……。グ@%⊅ッ!」
「
「グ§ァ¢……!」
シモンからの光の雨を食らうも、悪魔は影をウネウネとくねらせながら地を這わせ、逃げる二人を追い掛ける。地面から離れてアパートの壁伝いに逃げても、建物と地面が繋がっているため、登って来て串刺しにしようとする。
「
壁からジャンプしたペトロは、空中から雷を落とした。「グ∂σ∀ッ!」悪魔は直撃を受けるも影は怯まず追って来て、今度は地上から反撃されるが、身を翻してかわし、着地した。
「ペトロ。もしかして、サーカスにいた?」
「そんな訳ないだろ」
影を操る悪魔は、どうやら地上からは動けないようだ。行動範囲は限られると考えた二人は、前後に挟んで攻撃する戦法を取った。
しかし、前後同時に反撃され、二人は跳躍して回避した。
「くっ……!」
執拗に追いかけて来る影から逃れるために、開けた広い敷地を使って縦横無尽に駆け回る。シモンは、カフェに隣接する博物館の屋根に飛び乗ったり壁を走り、身軽な身体を活かして攻撃をかわしていく。
「シモンこそ、先祖がニンジャだったんじゃないか?」
「ニッポンにルーツがあったらそうかもね」
そうした戦いを続けて数分。深層に潜入していたヤコブが帰還した。
「二人とも行け!」
ヤコブの合図で、ペトロとシモンはハーツヴンデを具現化する。
「
「〈
ペトロは剣の〈
「はあっ!」
ペトロが憑依された男性と悪魔を繋ぐ鎖を断ち切る。シモンは弦を引き、現れた光の矢で狙いを定める。
「天よ。濁りし魂に導きの光を!」
直線を描いて放たれた光の矢は悪魔を貫き、
そのあと。恒例の感謝タイムがあり、カフェの店長からのパンのサービスを丁重に断り、帰宅の途に着いた。
「ヤコブ。さっきの人、原因は何だったの?」
「ついこの前まで海外出張してたっぽいんだけど、そこで巻き込まれたらしい。ニュースでもやってたやつだ」
「そうなんだ……」
男性のトラウマの原因を聞いたシモンは、少し憂いの表情をした。ヤコブはその頭をポンポンと撫でて微笑み掛け、シモンも微笑み返した。
その様子を後ろから見ていたペトロは、二人に訊いた。
「二人って、めちゃくちゃ仲良いよな。仲間とか親友じゃなくて、それとは別の雰囲気っていうか。バンデだからか?」
その疑問に答えようと振り向いたヤコブは、シモンの肩を抱いた。
「バンデでもあるけど」
「だってボクたち、ラブラブだから」
「えっ!? 付き合ってんの?」
なんと二人は、年の差カップルだった。付き合い始めてからもう半年ほど経ち、肩を抱かれるシモンも恥ずかしがる様子はない。
「やけに仲良いなとは思ってたけど、そうなんだ……。ユダとヨハネは知ってるのか?」
「知ってるよ」
「だから、事務所公認だぜ」
しかしだからと言って、外でのイチャイチャは控えていると言う。使徒で顔バレしている上に広告の仕事もしているから、一応支障が出ないようにと配慮してのことだ。
「お前はどうなんだよ。そっち方面」
「え?」
「環境が新しくなって、新しい出会いもあって、恋の予感とかあったりしないのか?」
この流れで、ヨハネのためにユダとの関係を探ってやろうと、ヤコブはさりげなく訊いた。
「別に。何もないよ」
「本当か? 誰かにアプローチされたり、ちょっとドキドキするシチュエーションになったりしてないのかよ?」
「今のところ、そういう展開になりそうなことはないかな」
「なんだ。ないのかよ」
「なんか期待してた?」
「だってその外見だから、言い寄られたりしてるのかと思って」
「期待外れで残念だったな。オレも今は、使徒の役目を果たすことが一番大事だから」
色恋沙汰は必要ないと言うペトロは、今は使徒の使命一筋のようだ。
ヤコブはシモンと視線を合わせる。同じくヨハネの恋応援部隊のシモンは、やる気の頷きを返した。
(よかったな、ヨハネ。まだチャンスはあるぞ!)
望みはまだ捨てられていないことを知り、ヨハネを応援するヤコブにも薪が焚べられる。その気合のおかげで、ヨハネの尻は真っ赤になるくらい叩かれそうだ。