帰って来たペトロは部屋に戻った。ユダも業務に戻るつもりだったが、さっきの戦いでのことが気になり、仕事を後回しにして話を聞こうとしていた。
「ねえ、ペトロくん。本当にさっきはどうしたの」
「なんでもないって言っただろ」
「本当になんでもないの?」
「だから、そう言ってるじゃん」
ユダが心配する面持ちで訊いてもペトロはまともに取り合おうとせず、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを出して喉を潤した。
「私にはそう見えないよ。攻撃をやめた理由が何かあるなら言って」
「だから。ちょっと危険を感じたんだって。それ以外に何もないよ」
「本当に?」
「だからそう言ってるじゃん。ユダこそ、どうしたんだよ。なんで今日はそんなにしつこいんだよ」
「きみのことが気掛かりなんだよ。なんだか、放っておけないんだ。私にできることがあるなら、力になるよ?」
「別にないから大丈夫」
ペトロは、突き放すような気持ちを滲ませて言った。
ローテーブルに置いたペットボトルにリビングに届く外光が屈折して、揺らぐ水面が天板に映る。
「本当に大丈夫?」
「本当にしつこいな」
「ちゃんと私の顔を見て」
一歩も引かないユダを何とか避けようと、ずっと顔を逸していたペトロだったが、あまりにもしつこいので渋々顔を見た。
「無理しようとしてない? 正直に言って」
メガネの奥の瞳に、また自分が映っているのが見えた。
だが、心から自分を案じている面持ちを直視しても、ペトロはすぐにまた視線を逸らした。
「大丈夫。無理はしてない。オレは頑張りたいんだ。強くなりたいから」
悟られまいと、ペトロはいつもと変わらない自分を装った。
けれど、どうにか誤魔化しきるつもりだったが、その繊細な心の機微を感じ取るユダは眉をひそめる。
「前にも言ってたよね。強くなりたいって。使徒として強くなりたいんだと思って、その向上心に感心してたけど……。もしかして、違うの?」
「……」
「きみは、何のために強くなろうとしてるの?」
「オレは、オレのために強くなりたい。それだけだ」
「それって……。トラウマと、関係してるの?」
ユダは一歩踏み込んでみたが、ペトロは目を伏せて口を噤んだ。
「抱えてるものを簡単に教えてもらえないことは、わかってるよ。だけど私は、きみを助けたいんだ」
至情を捧げようとするユダだが、目を伏せたペトロは固く口を閉じる。
心の距離が縮まった気がしていたユダは、届かない思いで表情に憂いを浮かばせる。
「ペトロくん、前に言ってくれたよね。これからは、みんなと信頼関係を築きたい。仲間になれてよかったと思えたって……。私は、その言葉を聞いて嬉しかった。きみに受け入れてもらえたんだって。私も、きみと仲間になれてよかったよ。きみとの絆を強くしたいと望んでるよ。だけどきみは、私を頼ってはくれないの?」
ユダは、もどかしい思いを押し殺すように左腕を掴んだ。
「それは、強くなりたいから? 一人で頑張りたいから、頼ろうとしてくれないの?」
「違う!」
視線を逸していたペトロは、顔を上げてユダを見た。自分に向け続けてくれている眼差しが、切なげな色に染まっているのを目にすると、心が痛んだ。
「そうじゃないんだ。ユダの気持ちは嬉しいし、頼りたいって、寄り掛かりたいって思うこともある。だけど……。だけど今は……」
それでも、その優しさに素直な気持ちで甘えられず、懊悩するペトロは顔を伏せた。
「ごめん……。オレも、どうしたらいいかわからないんだ」
ペトロは、どうした方が楽になれるのかは本当はわかっている。しかし、自身と家族への誓いが選択をためらわせていた。
そしてそれが、少しずつ解氷しようとしていた願望を、何度も閉じ込めようとする。その葛藤でさらに自身を苦しめていることも、わかっている。
ペトロが、ただ強がって優しさを拒んでいるのではないと察したユダは、少し反省した。
「私もごめんね。ペトロくんも今は、葛藤してるんだね。それなのに私は、自分の気持ちを押し付けようとして……」
これは自分のエゴだと一歩引こうとしたユダの言葉に、ペトロは首を横に振る。
「ユダがオレのことをいつも見てくれてるから、オレは安心してここにいるし戦える。それは感謝してるよ。だけどこれは、オレ自身の問題だから」
ユダに助けられているという感謝は、一切の偽りがない気持ちだった。
けれど、お互いに手を伸ばせば届く距離は、まだ遥かに遠かった。
夜も深まってきた頃。
間接照明だけを点した二階のリビングルームで、ユダは物思いに耽けながら一人でビールを飲んでいた。
そこに偶然、ヨハネがやって来た。
「あれ。一人で飲んでるんですか?」
「うん。ヨハネくんはどうしたの?」
「なんだか眠れなくて、ちょっとだけ飲もうかと」
「じゃあ、一緒に飲もうよ」
誘われたヨハネはキッチンからグラスと新しいビールを一本持って来て、ユダに注いでもらった。
「今日はちょっと大変だったね」
「本当ですね」
「夕食の時、シモンくん顔出さなかったけど、大丈夫かな」
「ヤコブが付いてますし、明日には回復してますよ」
(久し振りだな。ユダと二人きりで飲むの……)
以前は、時々こうして二人きりで飲むこともあった。使徒の使命と事務所の仕事が増え、ペトロが仲間になってからはその機会が少なくなってしまったので、この貴重な時間を噛み締めるようにヨハネはビールを飲んだ。
「……あのさ。ヨハネくん」
「何ですか?」
「私ってもしかして、恋愛ヘタクソなのかな」
しかし、無情にもその時間は僅か数分で終了した。心底ガッカリするヨハネは、そんな話は聞きたくないと言いたいのをビールと一緒に飲み込み、いつも通りを装った。
「何かありましたか?」
「実は、気になる人がいてね。時々押してみて反応を確かめるんだけど、いい反応が返ってくると嬉しくなって、調子に乗っちゃってる気がするんだよね……。あ、でも。絶対にグイグイいかないようにしてるんだ」
「へぇー」
その相手の顔はなるべく想像しないように、ヨハネは無感情の相槌を打つ。
「だけどね。この前、ちょっと言っちゃったんだよね。好きかもしれないって言ったらどうする? って」
「っ! ゴホッ!」
しかし防御の位置を間違え、脇腹に一発食らわされて咽た。
目の前でヨハネが咽ているというのに、ユダは自分の話を続ける。
「冗談なんだろって、真に受けてはくれてないんだけどね。でも、それはそれでいいんだ。今は、少しずつ距離を縮めていければいいと思ってるから。だけど、かわいいとか言うと照れて、そのウブな感じがまたかわいくて、ついアプローチしちゃったんだよね」
「へ……へぇー」
ノックアウトだけは何とか回避したが、ヨハネは血を吐きそうだった。
「ぶっちゃけて言うと、ちょっとだけ可能性を感じてたんだ。二人きりで出掛けた時も、何だかんだで楽しんでくれてたし。でも、相手のことをちゃんと見てあげられてなかったせいで、距離を置かれちゃったんだよぉ……」
恋愛相談をするユダは、明らかにヘコんでいた。こんな姿を晒すのは滅多にない。こんなふにゃっとした姿を見る機会があるとすれば、飲み過ぎた時くらいだ。
(もしかしてユダ、酔ってるのか?)
そう。まさにユダは酔っていた。間接照明の明かりだけなのでちょっとわかりにくいが、ほんのり顔が赤くなってる。そして、空となったビール瓶が四本シンクに立っていた。
「私、ヘタクソだよね。相手の気持ち察せてない時点で、落第だよね」
「うーん。まぁ、人それぞれですし……」
脇腹に一発食らっただけでなく、酔っ払いとなったユダの相手をしなければならなくなったヨハネ。聞きたくない話に耳を塞ぎたいが無下にできるはずもなく、この程度のコメントを返すのが限界だった。
ヘコむユダは深い溜め息をつく。
「記憶がなくなってなければ、もう少し上手くできたのかなぁ。前の私は、どうやって恋愛してたんだろう……」
ユダはグラスを傾け、残っていたビールを飲み干した。そしてまた溜め息を漏らし、頬杖を突く。
「あのね。つくづく思うんだ。一目見た時からずっと、どこの誰かもわからないのに忘れられなかった。理由もなくどうしようもなく惹かれて、気になって仕方がない、この名前がわからない衝動は一体何なんだろう……って」
アルコールが回って目をとろんとさせて言うユダは、まるで初恋に悩む思春期男子のようだ。
ユダが一目惚れしたその瞬間から一緒にいるヨハネは、切なく複雑な表情を滲ませるが、ユダは全く気付いていない。
「ヨハネくんだったら、こういう時はどうする?」
「えっ。僕ですか!?」
突然質問されて、ヨハネは困惑する。片思い中の相手に、恋愛の何を話せばいいんだと。
「いや。僕も恋愛はヘタクソなので、全然参考になりませんよ」
「そうなの? ヨハネくんも苦労してるんだねぇ」
というか、話せることなど何も無い。もう何ヶ月も二の足を踏み続けているのだから。
故に、絶好の告白のチャンスだとわかっていても、裏腹な行動をしてしまう。
「ユダは、相手の気持ちを汲み取りながら距離を縮めようとしてるんですから、そんなに落ち込むことはないですよ。過去がなくても前向きに生きているあなたを、僕は尊敬します」
(何で励ましてるんだ、僕は……)
もしもヤコブが同席していたら、もみじができるくらいの力で尻を叩かれていただろう。
けれど、例えチャンスが目の前に現れても、途端に何も言えなくなってしまう。二の足を踏んでいるのに、笑顔を作って誤魔化してしまう。
「ユダは誰にでも寄り添える人です。その優しさは伝わってますよ。諦めなければ、いつかその気持ちも受け取ってもらえる気がします」
「このまま嫌われたりしないかな?」
「大丈夫ですよ。あなたも素敵な人ですから」
「ありがとう、ヨハネくん。公私共にずっときみに支えてもらって、感謝してる。だから、きみにも大切な人が現れることを私も信じてるよ」
背中を押してくれているつもりの励ましが、ヨハネにとっては突き放す言葉に聞こえてしまう。ユダに他意がなくても、酷く心が痛む。
けれど、本心に対して天の邪鬼が顔を出し、感謝の一言だけで幸福感で満たされてしまう。思いが届けられなくても、こうしてたまに二人だけの時間を過ごせることが幸せだと思ってしまう。
シェオル界。
城の内部にある、四方が黒い広間。光を注がない窓と、いくつもの青い炎が暗い空間に灯り、中央の長いテーブルに六人の人物が座っている。
一人は苛立っているように厳つく、一人は恐れているように眉尻を下げ、一人は不満げに紫色の唇を尖らせ、一人は片目を隠し何かに怯えているようで、一人は怒っているように眉間に皺を寄せる。
そして彼らを統括する者は、堂々とした風格でありながらゆったりと構えている。
「俺は、物質界に気になるものを見付けた。だからそろそろ、行動を開始しようと思う」
「気になるものってー?」
やる気なさげにだらけながら、タデウスが尋ねる。
「『
「蝶?」
長い髪の枝毛が気になるマティアは、訝しげにマタイを見遣る。
「昆虫なんざ興味ねーよ、糞が!」
「いちいちキレないでよ、フィリポ……」
キレないとほぼ会話ができないフィリポの口調に、トマスはびくびく怯える。
短気なフィリポにケンカを売られても、リーダーのマタイは感情を揺らされることなく話を続ける。
「
「
「そうだ、バルトロマイ。其の存在も面白く、俺たちの餌にも成り得る。排除する
「其れは賛成だ! で、最初は誰が行く?」
「ぼくは行かないよー」
「先に行ってくれるなら、誰でも良いよ」
「右に同じよ」
始まる前から他人任せのタデウスとトマスとマティアの三人に、フィリポの眼光がキッと光った。
「テメェ等! 何だ其のやる気の無さは! チキン野郎かよ! 誰も行く気がねぇなら俺様で良いよな、マタイ!」
「なら。お前が先鋒で行ってくれるか、フィリポ」
「任せとけ! 俺様が愚蒙な野郎共を、こっち側に引きずり下ろしてやるよ!」
意気衝天のフィリポは立ち上がり、まだ見ぬ獲物の恐れに歪む顔を赤い双眸に捕らえていた。