翌日。ペトロの不調は回復し、安静していたユダの怪我も一晩経ってほぼ完治した。
「なあ、ユダ。今日ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「!?」
朝食後。全員の前でペトロはユダを誘った。ヨハネは激しく動揺し、ペトロから誘うという初めての出来事にヤコブとシモンは興味津々だ。
「お。何だ。デートのお誘いか?」
「二人とも、いつの間にそんな仲になったの?」
「デートじゃない。一緒に行ってほしい場所があるんだよ」
「いいよ。今日の業務はヨハネくんに任せるから」
「えっ!?」
「あれ。昨日、ヨハネくん言ってくれたよね。明日の業務は僕に任せて一日ゆっくり休んで下さいって」
「そうですけど……」
ヨハネは昨日、ユダを治癒しながら、怪我を考慮して今日の事務所の業務は休んで大丈夫だと自分から言っていた。
「そういうことなら、遠慮なく行って来いよ」
「ペトロのご指名だしね」
ヤコブとシモンは「やっちゃったな」と言いたげな視線をヨハネに送る。
ペトロはすぐにでも出発したいらしく、支度をしにユダと一緒にリビングルームを出て行った。
その直後にヤコブが盛大な溜め息をつく。
「お前またかよ」
「しょうがないだろ! まさか病み上がりで誘うなんて誰が思うんだよ!」
「だからって油断し過ぎだよ。これは確実に進展するかもねー」
「くっ……!」
シモンの一言が効いてヨハネは崩れ落ちた。
予想ができなかったのでヨハネに落ち度はない今回はさすがに仕方がないが、ヨハネが業務に勤しむあいだユダとペトロは二人きりになるので、結局は二人の進展を後押しするかたちになったのだが。
それもヨハネは気付いていない。
ユダもペトロも体調は回復傾向だが、ユダの怪我を気遣い、交通機関を使って行くことにした。
最寄り駅から地下鉄に乗り、途中のフリードリッヒシュトラーセ駅から赤と黄色の車体の都市近郊鉄道のシュレージエン線に乗り換えた。
この時間は混んでいないので二人は並んで座り、電車に揺れる。
ペトロは何か、気掛かりな顔をしていた。
「……ユダ。昨日はごめん」
「何のこと?」
「オレを思って守るって言ってくれたのに、全然嬉しくないなんて言って」
昨日ユダが伝えてくれた気持ちを拒絶してしまったことを、ペトロは後々になって反省したようだ。
ペトロに非はないとユダは首を振る。
「いいよ。気にしてないから。もう少しきみの気持ちを考えて言うべきだったって、反省してる……。でもね。ペトロくんを守りたいという意志は、私が私であることの証明だと思ってるんだ」
「証明?」
「独り善がりかもしれないけど」
ユダは微苦笑して言った。
ユダは以前言っていた。この瞬間の自分は、紙が重ねられるように一秒ずつ作られていると。きっとそれは一つ一つの言葉もそうで、今日交わした朝の挨拶も、昨日の思いも全てが土台となり、これからの彼を作って“ユダ自身”となっていく。
エゴや利他的な思考で「代わりに傷付いてもいい」なんて言った訳ではなく、本当に彼自身の気持ちなんだとペトロは理解する。
「……いいよ。少しくらい独り善がりになってても。オレを思ってくれてる気持ちは、嬉しいから」
「ペトロくん……」
「ユダ。オレを守ってくれて、ありがとう」
あの時ユダが庇わなければ、ペトロが命の危険に晒されていた。だから、守られたからこそ今日があるという事実を感謝した。
電車に揺られること約三十分。目的地の最寄り駅である、フリードリヒスハーゲンに到着した。
赤レンガ造りの駅舎は高架線となっていて、プラットホームも駅舎内も広く、一軒の花屋が健気に営業している。
「ここが?」
「うん。オレの地元」
州の南東にあるトレプトー=ケーペニック区は、中心にはケーペニック宮殿などの観光スポットやホテルがあるが、降り立ったフリードリヒスハーゲンは湖や自然保護区など自然が多く、ミュッゲル湖という区最大の湖がある静かな地域だ。トラムも通っているから郊外でも利便性がある。
(久し振りだな。あんまり変わってないや)
久し振りの帰郷だというのに、ペトロの表情はあまり浮かんでいない。
二人は駅から歩き始めた。ミッテ区のように高いビルはない街は空が広く、こじんまりとした建物が並ぶ駅前には小さなショップやカフェが充実している。懐かしい記憶を思い起こすペトロは、エピソードを話しながら歩いた。
そしてペトロの案内で到着したのは、とある墓地だった。小鳥が囀り、まるで森の中のような敷地を進み、小さな墓石が並ぶ場所でペトロは立ち止まった。
土葬された立派なお墓や樹木葬をされたお墓もある中、色とりどりの草花に彩られたベッド一つ分もないお墓が並んでいる。ペトロが立ち止まったお墓の墓石には三人分の名前と、それぞれに二つの年月日が刻まれている。
「ここが家族の?」
目を伏せるペトロは無言で頷いた。
ここに、三年前のテロ事件で亡くした母親と双子のきょうだいの遺灰が埋められている。母親は四十代前半、きょうだいはまだ七歳だった。土葬ではなく火葬したために、このような狭いお墓になっている。
「葬儀が終わってから、全然来てなくて。気が向かなかったから」
「罪悪感で?」
ユダが問うとペトロは頷き、墓石を見つめながら話した。
「ギムナジウムを卒業してからすぐに一人暮らし始めて、進学しないでバイト生活してて。早く一人で生きていけるようになりたくて必死だったから、振り向く時間がなかった……。と言うか。振り向かないようにしてた」
「過去を振り向いたら、立ち止まっちゃうから?」
「オレには、そんな時間は許されないと思ったから。だからその代わりに、家族の写真を見るたびに自分への誓いを再確認するようにしてた。自分がどうやって生きていこうとしているかを」
「そうなんだ。早く立ち直ろうとしてたんだね……。でもそれって、まるで自分自身に呪いをかけてるみたいだね」
「え?」
そこへ、一人の男性が二人に近付いて来た。少しクセのあるアンバー色の髪をした四十代の男性は、ペトロを見ると名前を口にした。
「ペトロ?」
「父さん……」
「帰って来てたのか。久し振りじゃないか。お母さんたちの葬式以来だよな」
「う、うん……」
息子との三年ぶりの再会に父親は嬉しそうに話すが、ペトロは喜ぶ顔は見せず、なぜか気不味そうで目を合わせようとしない。
「元気そうで安心した……。そちらの方は?」
「あ。えっと……。いろいろ事情があって、最近モデルの仕事を始めたんだ。この人は事務所の社長だよ」
「社長さんでしたか。随分お若いですね」
「ノイベルトと申します。すみません。今日は名刺を持ち合わせていなくて」
ユダはペトロの父親と握手する。
「お構いなく。息子がお世話になっています。レーガーと言います」
ペトロの名字は「ブリュール」だが、父親の名字は「レーガー」だ。
ペトロの両親は、五年ほど前に離婚していた。しかし不仲だった訳ではなく、父親と母親がお互いの意志を尊重した円満離婚だったので、離婚後も連絡は頻繁に取り合い、みんなで出掛けることもしていた。ユダは行きの電車の中で、そのあたりの事情も少し聞いていた。
「ペトロがモデルかぁ。確かに生まれた瞬間からかわいかったが、そんな仕事をするなんて想像もしてなかった。学校を卒業したら進学しないで働くとお義母さんから聞いて心配したが、ちゃんと食べてるみたいだし安心したよ」
「母さんが苦労して進学させようとしてくれたのにやめて、がっかりしただろ。周りの期待なんか無視して自分勝手に決めたオレのこと、怒ってるんだろ?」
ペトロはやはり父親と目を合わせようとしない。疎んでいるのか一歩も近付こうとせず、居た堪れないような表情を滲ませている。
ユダはペトロのそんな表情を見て気に掛けるが、久し振りに再会した親子の話に割って入ることはやめておいた。
「まぁ、確かに進学しないと聞いた時は驚いたが、それがお前が選んだ道なら仕方がない」
「仕方がない、か……。そうだよな。母さんの苦労を全く考えなかったオレのことなんか、どうでもよくなるよな」
ペトロは珍しく卑屈な発言をした。
「何を言っているんだ。大学に行く気になれなかったんなら、無理に進学しなくてもいいと思ったんだ。ペトロが決めた進路なら俺は応援する」
「そんなこと言って、母さんが一生懸命にオレを支えてくれてたんだから本当は進学してほしかったんだろ。バイト生活の応援なんて誰がしたいと思うんだよ」
「俺は嘘は言っていないぞ」
「息子に嘘つかなくていいよ。本当はオレのことなんか、心配してなかったんだろ?」
ペトロは父親を疎んでいるのではなかった。父親の思考を想像して自分を卑下していた。父親に対して何かを後ろめたく感じ、罵倒され咎められることを恐れていた。
全く目を合わせてくれない息子が何を思っているのか、父親はある程度わかっていた。それが原因で故郷の街から離れたことも。自分を卑下していることも。
「本当に心配していたんだよ」
「えっ……」
「期待外れのダメな息子だ」と言われると思っていたペトロは、父性溢れる温和な声音に思わず視線を上げた。父親の顔をまともに見ると、眉尻を下げ、迷子の幼子を見つけたような表情をしていた。
「あの出来事のことを、だいぶ引き摺っていただろう。母さんたちが死んでしまったことを自責していると、お義母さんたちから聞いた……。ペトロ。お前が責任を感じる必要はない」
「で……でも。オレは側にいたのに何もできなかった。みんなメリーゴーラウンドに乗ってたの知ってたのに。危険を感じてすぐに助けに走っていれば……」
「そんなことはない。仕方がないことなんだ。どうにかしたくてもどうにもできないことは、必ずある。この世は、起きるなと願うことがどうしても起きてしまう、不条理な世界なんだ。だから、仕方がないんだ」
「仕方がないだなんて……」
「そう言い聞かせていないと、気持ちの整理も付かない。だから、母さんたちを守れなかったお前を憎んだりはしていない。辛い思いをした息子を責められるはずがない」
自分の想像とは違った言葉が父親の口から次々と出てきて、ペトロは返す言葉を失う。
「俺が側にいればよかったのにな。そしたら、お前の代わりに炎の中に飛び込めたのに」
「父さん……」
父親は悔しそうな表情で、かつての家族たちの名前が刻まれた墓石に視線を移した。
「離婚したけれど、俺は人間として魅力的な母さんが大好きだった。みんな大好きだった。だが、家族の輪から離れた上に助けられもしないなんて。それだけでなく、息子にだけすごく辛い思いをさせて……。ごめんな。ダメな父親で」
後悔を口にした父親はペトロの頭を撫でた。
「背負わせてごめん」
父親は泣きそうになって目を潤ませていた。
家族を守れなかった後悔は、父親もずっと抱いていた。ペトロはそれを知らず、唯一の命綱であったのにそれを渡そうとしなかったことを恨まれていると、今日まで勘違いしていた。
父親の後悔の念と涙を見ることになるとは思っていなかったペトロは、酷い勘違いをしていたと後悔した。
「……だったら。父さんも悪くないよ。今でも母さんたちを大切に思ってるのに、誰が責められるんだよ」
「ペトロ……」
「守りたいって思ってくれてたこと、俺は嬉しいよ。オレたちをずっと家族だと思ってくれてて嬉しいよ。オレは、そんな父さんが大好きだよ」
背負っていた痛みは同じだった。家族なのだから、それは当たり前だったのだ。
一人で苦しんでいたのではなかったのだと安堵し喜ぶペトロは、父親と抱き合った。
「本当は、もしかしたら父さんに恨まれてるかもしれないと思って、顔合わせるの怖かったんだ。でも、父さんもずっと悔やんでたんだね」
「俺の方こそ。父親らしいことをしてやれないから、嫌われたんじゃないかと思ってた」
「そんなことないよ。今は父さんがいることが、すごく嬉しいよ」
ずっと避けていた場所は、自分の罪が示された場所でもあると感じていた。だからペトロは、罪を背負うと決めても避けて、振り返らなかった。
その場所で、花の種が一つ芽を出した。きっとこれから、木漏れ日を浴びて蕾を付け、いつか小さな花を咲かせるだろう。
そしてやがて、墓標を埋め尽くすほどの花で満たされることだろう。