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第27話 傷の旅─溶け始め─



 トレプトー=ケーペニック区から移動した二人は、ミッテ区のカイザー・ヴィルヘルム記念教会前に着いた。

 第二次世界大戦の際に破壊されたままの姿を保つ旧教会堂鐘楼が現存し、その両サイドに一見して教会とは思えない六角形の新鐘楼と、八角形の新教会堂がある。

 それぞれの壁全面に嵌め込まれているのは、数え切れない枚数の小さく四角い、青いガラス窓だ。ステンドグラスの代わりとなり、陽光が射すと海の色を放って訪れる人々の心を凪のように穏やかにしてくれる。

 道路を挟んで教会を見上げるペトロは、当時のことを想起して懐かしむように話し始めた。


「ここのクリスマスマーケット、あの時初めて来たんだ。いつもは家からも近いアレキサンダー広場とか、赤の市庁舎前のマーケットに行ってたんだけど、すぐそこにある動物園に行きたかったから遠出してこっちまで来たんだ。教会の周りにたくさんのお店が並んでて、ツリーやクリスマスピラミッドも立ってて、まるで遊園地みたいだった。横断歩道を渡ってる時から食べ物の匂いがして、ゲブランテ・マンデルンを食べたくなって、弟たちと一緒に母さんにおねだりしたんだ」

「食べ物の匂いに唆られると、我慢できないよね。特にクリスマスマーケットに来ると、あれもこれもってなっちゃう」

「弟は食べるのが好きだから、まさにそれでさ。わがまま言ったんだけど、誕生日だから今日だけだよって母さんは買ってあげてた。最終的に両手に食べ物を持っちゃって、どこの食いしん坊だよって感じだった」


 その時の弟の姿を思い出し、ペトロは微笑した。ユダも想像して目を細めた。


「そのかわいらしい姿が、目に浮かぶようだよ」

「弟と妹は、双子だけど性格が全然違ったんだ。弟の方は欲望に正直で、妹は自制心があって。母さん曰く、弟は父さん似で、妹は母さん似だって言ってた。思い返すと確かにそうだなって思うよ」

「ペトロくんは、どっち似なの?」

「聞いたら、オレは両方に似てるけど、母さんの方の血が強いんだって」

「確かに。いろいろ我慢してるもんね」

「親と似てるところがあるって言われると、なんとなく気恥ずかしいな……」


 ペトロは、控えめにはにかんだ。

 追想し懐かしむのを終えると、表情がしみじみとした様子に変わった。


「家族で過ごす時間は幸せだった……。夜だったから、鐘楼と教会堂が内側からの光でガラス窓が青く光って、それが水族館の水槽みたいでキレイでさ。辺りもイルミネーションで埋め尽くされて、夢の中にいるみたいだった……。あの出来事も、本当に夢だったらよかったのに……」


 ペトロは意識せず、隣にいるユダのコートの袖を掴んだ。


「まるで、昨日のことのように思い出せる。一瞬にして、阿鼻叫喚の世界に変わったことを」


 ペトロの目だけに、現在と当時の光景が重なる。

 突進して来たトラックが出店の小屋を破壊する音と、混乱して逃げる人々の悲鳴が、ペトロの耳に甦る。

 三年前の絶望が鮮明に脳裏に再生され、だんだんと呼吸が早くなる。胸が苦しくなったペトロは、身体を縮めた。


「……っ」

「ペトロくん!」


 ユダはペトロの身体を支え、背中を擦った。


「大丈夫?」

「……大丈夫……じゃ、ないかも。あんまり」


 いつものように気丈に振る舞おうとしたペトロだが、苦笑いをするのが精一杯だった。

 どこかで休むことにし、二人は近くの飲食店に入った。

 テラス席に座り、ペトロはカモミールティーを飲んだ。しばらくして、気持ちも少しずつ落ち着いてきた。


「落ち着いた?」

「うん」

「この前の戦いでトラウマを見せられたから、思い出しやすくなってるのかもね」

「本当にあれ、卑怯なやり方だよ。怨念の集合体とか言ってたっけ。あれがあいつら死徒のやり方ってことだけど、抉られるのはキツイな」


 整理でき始めていたトラウマを見せつけ、それまでの努力をゼロにする。それだけでなく克服への道を遮断し、絶望の沼へと引きずり込もうとする。

 使徒にとっては拒絶したい敵だが、それが死徒の戦い方だ。

 するとユダは、気になっていたことを訊いた。


「……ねえ、ペトロくん。どうして今日は、私を誘ったの?」

「うーん……。ユダとなら、行けそうだと思ったから」


 聳え立つ近代的なビルの方に視線をやりながら、ペトロは話した。


「ここには毎年献花に来て、自分の中ではいったん整理を付けたつもりだったんだけど、やっぱりそう簡単には片付けられてなくてさ。まだ収め切れてなかったものがあったんだってことを、この前の戦いで知った。でも、オレの戦いはまだ終わってない。あいつはきっとまた来る。そしてまた、オレの精神こころを抉ってくる。だから勝つためには、ちゃんともう一度向き合わないとダメだと思ったんだ。収め切れてなかったものを確認するためにも。だけど、一人じゃ行ける気がしなくてさ。ユダが一緒なら、大丈夫な気がしたんだ」

「そっか……。ちゃんと収められそう?」


 ユダがそう訊いてきて、ペトロは少し考える素振りをする。そして、ビルとは反対側の教会堂に視線を移した。


「あそこにはまだ、オレの罪が残ってると思ってた。それをもう一度拾い直して、仕舞おうとしてた。でも、それはできなかった。もう何も残ってなかったから……。実は、父さんと顔を合わせるのが嫌だったんだ。父さんは今でも母さんのことが大好きだから、助けなかったオレのことを恨んでるんじゃないかと思ってたから」

「側で話を聞いてて思ったんだけど。きみが抱えていた罪悪感は、家族を守れなかったことと、お父さんへの後ろめたさもあったんだね」

「だけど今日、偶然会って、背負わせてごめんって言ってくれて、父さんの後悔も知って、ただの思い込みだったってわかった。そしたら、少し楽になれたんだ。その心持ちでここに来たけど、三年前に持って帰ったもの以外は、何もなかった」

「じゃあ、もう忘れ物はない?」

「痛みは消えてないけど、たぶん……」


 ペトロは胸に手を当て、少し穏やかになった表情で言った。


「そういえばさっき、ユダ言ってたよな。過去を振り向かないように、家族の写真を見るたびに自分への誓いを再確認するようにしてた、ってオレが言ったら、まるで自分自身に呪をかけてるみたいだって」

「うん」

「オレが強くなりたいと思ったのは、亡くした家族に自分の生き様を示すためなんだ。この世を去った三人の無念と、生きているオレへの羨望を浄化してもらうために。よく“死んだ人の分まで生きる”とか言うけど、“死んだ家族の無念を抱えて生きる”ことが、オレの決意だった。だから、脆弱な生き方なんて見せられなかった。どこかで見ている家族に、『何でお前が泣いてるんだ』って落胆させたくなかった。誰かに寄り添われる幸せを求めちゃいけないと思った。だから強くいようとした。強くなりたかった。だけどそれが、自分への呪だとは思ってなかった」


 ペトロは、誓いを立てることで強くいられると考えていた。しかし、それが枷となり、本心の自由を奪っていることには気付いていなかった。あるいは、それも償いになると思っていたのかもしれない。


「それはきっと、全てを背負って生きようと覚悟していたからだね。お父さんも、息子のきみに罪悪感を背負わせてしまったことに責任を感じていた……。だけど、二人とも何も背負うことはないんだよ。だって被害者なんだから。そして、生存者のきみに科される罪もない」


 そのことを、ユダに気付かされた。誓いでがんじがらめにされてしまっていたから、願望まで氷で閉ざしてしまっていたことも。

 それがわかった今、向けられている柔和な微笑みが酷く心に沁みる。また少しずつ解氷し始めた氷の雫が、目から零れ落ちそうになる。

 だからペトロは、誤魔化してぎこちない笑みを見せた。これからは、少し違った生き方ができそうだと。


「やっぱり、ユダに一緒に来てもらってよかった」

「助けになれた?」

「うん。今日だけじゃなくて、いつもだよ。この前の戦いで閉じ込められた時も、微かにユダの声が聞こえたんだ」

「本当に? 聞こえるかわからなかったけど、私の思いがきみに届くように叫んでたんだ」

「そうだったのか。自己否定の沼に沈みそうになってたんだけど、おかげで落ちなくてすんだよ」

「そっか。届いてたんだ……」


 掛ける言葉を間違えることはあるけれど、ちゃんと届いた言葉もあった。ペトロの力になれたことに、ユダは嬉しくなった。


「だから。またピンチの時は、オレに立ち上がる力をちょうだい。ユダの言葉なら、大丈夫な気がするんだ」

「もちろん。きみのためなら……。私たちは、強い絆を結べるはずだから」

「絆?」


 ユダは徐に、左の袖を捲り腕を見せた。


「私の腕には、きみの名前が現れてる。シモンくんにも確認してもらった」


 ユダの前腕の裏に、ヘブライ語で「פטרוペトロ」と薄っすら浮き出ていた。


「きみにも似たようなものがない?」


 訊かれたペトロは、自分にも似たような傷があると思い、右の袖を捲くった。

 白い右腕の裏には、薄っすらと「יְהוּדָהイェフダ」と現れていた。


「それは、私の名前だよ」

「ユダの名前?」

「私ときみはバンデなんだ。だから、唯一無二の存在になれる」




 その頃。シェオル界では、使徒を倒せずむざむざと逃げ帰って来たフィリポが、集まった仲間にイジられ倒されていた。


「情け無いくて、此方こっちが顔を合わせられないわ」

「がっかりしたよ……」

「フィリポって、口程でも無いんだね」

「人選を間違えたな」

「テメェら、チクチクネチネチズルズル煩ぇんだよ! 俺様は戦略的撤退したんだよ!」


 誰が何と言おうと敗走ではないと言い張るフィリポに、腕を組むマティアは冷静に矛先を向け続ける。


「撤退に戦略も何も無いわよ。貴方の傲慢さが呼んだ結果じゃないの。敗戦の原因を明らかにして猛省する事が、貴方に出来る責任の取り方じゃないの? そうでしょ、バルト」


「……」バルトロマイは眉間に深い皺を刻み、無言で同意を示した。


「おい、アンデレ! テメェ今なんつった? 敗戦? オレ様が人間如きに負けたって言ったか!?」

「そうよ。『慙愧に堪えない』の『慙愧』くらいは言いなさいよ」

「誰が言うか! 其の喧嘩買ってやるよ! 表出ろ性別半端野郎! タイマン勝負しやがれ!」


 喧嘩腰のフィリポは興奮して椅子から立ち上がるが、喧嘩を売られたマティアは毛先を気にして微塵も動こうとしない。むしろ、まともに相手をしていなかった。

 また調和が乱れ始めた場を、マタイは整えようとする。


「落ち着けフィリポ。お前も動揺しているだろうが、俺も使徒が棺から脱出する事は想定外だった。今回の事は、今後の俺達の利益にもなったのだし、此れで終わりにしよう。トマスも、タデウスも、バルトロマイも、いいな?」


 統括のマタイがそう言うならと、三人は口を閉じる代わりに意志を示した。

 ところが、フィリポは黙らなかった。


「おいマタイ。負け犬呼ばわりされたままの俺様に、此の儘このまま引っ込めなんて言わねーよなぁ?」

「其の口振りは、勝てる勝算が有るのか?」

「そんな物はねぇ。有るのは自信だけだ!」


 こんなアホが仲間にいるのかと、バルトロマイたちは嘆息を漏らす。


「フィリポは汚名返上をしたいのか」

「当たり前だろ! 仲間に襤褸糞ボロクソ言われて大人しく反省するなんざ、俺様じゃねぇ!」

「そんなにリベンジしたいか?」

「しないと気が済まねぇ!」


 この興奮が収まらなければフィリポは暴れ、破壊の限りを尽くし、城が瓦礫と化してしまうかもしれない。

 同士たちと同様に勝算がないのは心配だが、一度わからせなければ大人しくならないだろうと考え、マタイは判断する。


「なら行って来い」

「任せろ! テメェ等も見てろよ! 今度は必ず仕留めて、俺様達の恐ろしさを刷り込んで来てやる!」


 気負い立つフィリポは、同士たちに指を差しもう一度宣言した。

 なんだか、似たようなことを聞いたような気がすると、五人は同じ既視感を抱いた。




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