再び棺に囚われたペトロはまた、自爆テロ事件当日のクリスマスマーケットの夜にいた。
前回と同じ天の川のようなイルミネーションの景色に、楽しげな声や音楽、きらめくクリスマスツリーなど、全く同じ幻覚だった。
気構えて挑んだペトロだったが、変わらない芸当に気も緩んでしまった。
(この前と同じ景色だ)
「同じものを見せたって無駄だぞ」
「無駄だ?」
フィリポの姿は見えないが、声だけは雑踏に紛れてどこからか聞こえて来る。
「
「だからなんだよ。前回と同じ攻撃を繰り返すだけじゃないのか」
「俺様はそんな単細胞じゃねーよ、糞が! 前回はほんの小手調べだったから多少手を抜いたが、今回は比が違うんだよ!」
「比が違うって、どこが……」
全く同じ幻覚だと思い気を緩めていたペトロだが、肌に前回とは違う感覚を知覚する。
「……空気が、冷たい……」
(この前は、気温を感じることはなかったのに)
「寒い……」
ジャケットを着用しているが、冬の空気の冷たさを感じて身体がぶるっと震える。気温を意識すると白い息も出た。
寒さを感じたと思えば、今度は、小屋で売っている食べ物の匂いもしてきた。
「食べ物の匂いまで……」
「此れが、本当の
「そんなことができる訳……」
「相互干渉」
「っ!?」フィリポの声が隣で聞こえ反射的に振り向いたが、買い物客がいるだけで姿はない。
「使徒の得意な奴だろ。此れは其の上位の術だ。俺様がテメェの記憶を覗いて作り上げた、
「記憶を、覗いた?」
「相互干渉は、交信する事で可能となる。だが其れは、似た者同士でないと不可能だ。だから使徒は、トラウマを抱えた人間の深層に潜入出来る。だろ?」
フィリポが何を言いたいのかわからず、ペトロは訝しい表情をする。
「何だよ其の
「そんな訳あるか!」
「しかも、細部まで再現できるって事はだ。どうやら俺様とテメェは、相性が良いみたいだな」
「っ!?」
また耳元で囁かれ振り返るが、やはり姿はない。
死徒と似たもの同士で、トラウマを細部まで再現可能とまで言われ、冗談じゃないと動揺するペトロは辺りを見回し、必死にフィリポを探す。
「なんで姿を現さない!? 一対一を望んでるなら出て来いよ!」
「何だ何だ。急に吠え出しやがって。そんなに不安か。そんなに怖いか!」
「怖くなんか……!」
「良いぜ、良いぜ! 段々と此の幻覚が現実に見えて来て、悪夢のループに迷い込む恐怖に怯える其の表情!」
「怖がってるわけないだろ。オレはもう大丈夫なんだ。こんなもの見せられても堪えられる!」
そう言うペトロだが、顔色が変わり次第に過呼吸になってきていた。寒さではなく緊張で震え、身体に力が入り、無意識に握り拳を作る。
フィリポが再現した空気が、匂いが、音や声が、ペトロの記憶と寸分のズレもなく重なり合う。
「我慢するなよ! 具合が悪そうだぜ!?」
「そんなこと……」
「『もう大丈夫』? んなの気の
フィリポの非難が催眠術のように聞こえ、ペトロに呪を掛ける。精神を侵食し、罪から逃れられないようにペトロと幻覚の世界を鎖で繋ぐ。抗おうとするが、ペトロは呪を拒絶できない。
「兄ちゃん」
「っ!?」
突然手を握られたペトロは、ビクッと肩を跳ねた。
握ってきたのは、当時の姿のままの幼い弟だった。
「兄ちゃん。楽しい?」
弟は、無邪気な笑顔でペトロを見上げていた。側には、妹と母親もいた。
生前と変わらない姿だが、ペトロは怯えた目で家族を見た。
「どうしたの。ペトロ?」
「大丈夫? お兄ちゃん」
「いや……」
「もっといろいろ食べようよ。次は、レープクーヘン食べたい!」
「わたしは、一緒にあれに乗りたい!」
妹は短い腕を伸ばし、メリーゴーラウンドの方を指差した。
「行こうよ。お兄ちゃん!」
小さく温かい手を握られ引っ張られるが、ペトロは顔をしかめてその手を払った。
「乗らない」
「乗らないの? 楽しいよ?」
「乗らない」
「どうしたの、兄ちゃん。顔怖いよ。そういえば……。なんで兄ちゃんは、
弟は、大きな青い瞳を真っすぐに向けて訊いた。妹も、同じ青い目をペトロに向ける。
「そっか。メリーゴーラウンドに乗らなかったからだ」
「メリーゴーラウンドに乗らなかったから、まだそっち側にいるんだね」
「どうしてメリーゴーラウンドに乗りたくないの?」
「どうして乗るのを怖がってるの?」
「乗れば、また一緒に暮らせるのに」
「乗って
双子のきょうだいは無表情の同じ顔で、同じ青い瞳をまばたきもせずに、面責するようにペトロを凝視する。
「いや……。オレは……」
「乗らないの?」
「乗りたくないの?」
「どうして?」
「どうして。お兄ちゃん?」
「それは……」
感情の見えない、ガラス玉のような四つの眼球が問う。ペトロに贖罪を求めるように。
すると、母親が口を開いた。
「あなたは、私たちのことを忘れようとしているのね」
表情のない顔に付いたペトロに似た碧眼を向けて、面責した。
「ちが……!」
「私たちのことなんて忘れた方が、楽しく生きられるものね」
「何言ってるんだよ! 忘れるわけないだろ!」
罪を鷲掴みされるペトロは激しく動揺する。すでに判別能力を失い、目の前の家族は本物だと錯覚していた。その言葉も本物だと。
気付けば、母親ときょうだいの顔は黒く塗り潰されていた。
「いいのよ。時が過ぎるとともに、記憶からも存在を消される。そうやって過去の記憶と一緒に葬られるのが、
「そんなことない! オレはみんなのことを消し去ったりは……!」
「本当に?」
「本当だよ! 家族なのに忘れるなんて……!」
「嘘」
母親と双子のきょうだいが、声を揃えて咎めた。
すると。そのきれいだった姿は、焼けただれた腕や足が剥き出しになり、焼けてなくなった髪と、目も当てられない顔に変貌した。
「あなたは忘れようとしてる。忘れたがってるのよ。新しい幸せを得て、新しい記憶を作って、私たちのことを埋もれさせようとしてる。辛いことを全て、なかったことにしようとしてるの」
「なかったことになんて、そんなこと……」
動揺するペトロは何度も首を横に振る。見えないはずの家族の表情が、その目に映る。罪悪感から脳が勝手に情報処理をして見せる、嘘か本当かわからない表情が。
「辛いことを全部なかったことにできるんだから、兄ちゃんは幸せだね。ぼくたちは、そんなことしたくてもできないのに」
「お兄ちゃんはいいね。これから、幸せになれる人生を選べるんだから。だけど、生きてるだけで満足できないなんて、贅沢だね」
「違う! オレは、そんなこと思って……」
「裏切り者」
「っ……!」
家族に非難されたペトロは追い詰められ、ついに膝を突いた。背中を丸めて涙を浮かべ、息苦しそうに呼吸する。
いつしか雑踏が消え、煌めいていた星々も夜陰の闇に飲み込まれた。そして、深閑の世界に息もなく潜んでいた顔のない人が一人、また一人と現れペトロを囲んだ。
「裏切り者」
「裏切り者」
「うらぎりもの」
「裏切り者」
「ウラギリモノ」
「裏切り者」
ペトロは蹲り、頭を抱え、何度も首を振る。
「違う……。違う……。ちがう……」
催眠術のような呪の言葉が、絶え間なく降り注ぐ。まるで、首を絞められるようだった。
まさにここは、絞首台のような世界だ。
責め苛まれるペトロの傍らに、ようやくフィリポが姿を現した。
「家族の事すら記憶から捨て去ろうとするなんざ、本当に糞野郎だな! しかもテメェだけ幸せになろうだなんて、死んだ家族になんて酷ぇ仕打ちしやがるんだ! そんな野郎、救う価値もねぇ!」
「ちがう……。ちがう……」
「そんなにテメェの罪を無かった事にしたいのか。正直に言ってみろ。俺様達に許されてぇか?」
「……許されたい……」
ペトロは震える声で懇願した。
「そうか! よく正直に言ったな! じゃあ、許してやるよ。特別な罰を受けた後にな」
フィリポがそう言うと、ペトロの前に猛火に包まれたクリスマスピラミッドが現れた。