(……痛い……。痛い……。熱い……。いたい……。あつい…………)
パチパチと鳴りながら燃える木材。
灰と化して強度がなくなり、折れる音。
ミシミシと歪ませながら、身体を圧迫する屋根。
ペトロの身体は、燃え盛る倒壊したクリスマスピラミッドとメリーゴーラウンドに挟まれていた。
身動きが取れない。寧ろ、取れる精神状態ではなかった。
(あつい……。誰か……助けて……)
ペトロの意識は朦朧となる。熱くて、痛くて、堪えるのはもう嫌だった。全ての苦しみから開放されたかった。
「……あ」
そんな時、炎の隙間から人影が見えた。ペトロは助けが来たのだと思い、その人物に懸命に手を伸ばした。
(助けて……。お願いします……。オレを……助けて……)
息ができず、声も出せず、手を伸ばすことで救助を求めた。
ぼやけていたその人物の輪郭が、次第にはっきりしてくる。顔もわかるようになり、ブロンドの男の子だと判別できた。
「……」
それは、十五歳当時のペトロだった。こちらを見ている自分は、恐怖と絶望に満ちた表情で瞳を揺らしていた。
そんな自分の顔を目の当たりにしたペトロは、救助を求めた手を力なく落とした。
(あぁ……。オレはあの時、こんな顔をしていたのか……。助かる見込みはないって、完全に諦めた顔じゃないか……。無力な自分が情けない……? そんなの、自分を少しでも守ろうとした綺麗事じゃないか……。オレは最初から、助けたいなんて思ってなかったんだ……)
家族の側になって始めて、あの時の自分の表情と本音を知ったペトロは、思っていた自分とかけ離れていて愕然とした。
絶望の淵に立たされるペトロの傍らに立つフィリポは、
「
フィリポの眉間に深く皺が刻まれる。
「そんなんは生き残った奴が綺麗に飾った妄想なんだよ!
赤い双眸は炎のように怒りに燃え、悪魔の形相でペトロの頭を踏んだ。
「お……思わ、ない……」
「だろぉ? 無力な自分も、一人で頑張ろうとした自分も、ぜぇーんぶテメェの罪からテメェを守るための鎧なんだよ。詐欺師みたいなやり方で被害者アピールして同情を求める、下衆い糞野郎が! 結局テメェは家族を見殺しにしたんだ! 見殺しにしてテメェだけ幸せになろうとした! 其れは変わらない事実で、テメェが死んで償うべき罪過なんだよ!」
罪を厳しく咎め、頭上から銃弾のごとく撃ち込まれる言葉の数々に、ペトロの精神は闇に蝕まれる。
「此の世は本当に、救いようの無い愚物野郎ばかりだ。テメェの罪すら自覚しねぇまま死んでく。でも、テメェは偉いぞ。ちゃんとテメェの罪を認めた。だから救ってやるよ。其の苦しみから開放してやる。其の死を
脱力したペトロの腕は、指の一本も動かなかった。諦念の幕が降り始め、助かろうとする気力はもはや浮かばなかった。
(オレは、何もわかってなかった。あの時の自分が、本当に抱いた気持ちを。死んだ家族の思いすら……。何が一人で生きるだ。何が強くなりたいだ。全部、自分のためのまやかしじゃないか。オレは、そんなふうに生きたかったんじゃないのに……。やっぱりオレは、幸せになっちゃダメなんだ。そんなものを欲しがっちゃいけないんだ。そんな貪欲な気持ちなんか、持っちゃダメだったんだ。そのしっぺ返しがこれなんだ。オレの選択は、最初から全部間違ってたんだ。だから罪を犯したんだ……)
ペトロの脳裏に、ユダから言われた言葉が甦る。
───生存者のきみに科される罪もない。
(そんなことない。償い切れない重い罪を犯したんだから、そんな優しい言葉はいらないんだ。誰かの優しさなんて、もらっちゃダメなんだ。居場所なんて、作っちゃダメなんだ。大切な存在なんて、求めたらいけないんだ……)
ペトロは、いざなわれるように堕ちていく。二度と陽のあたる場所で生きられなくなり、使徒ではなくなる道を沈んでいく……。
そんな時だった。力をなくした右腕を通して、何か感じるものがあった。
(何だろう。この感じは……。引き留められてるような……。誰だ……。もしかして……ユダなのか? お前が、オレを呼んでるのか? ダメだって……諦めるなって……そう言ってるのか?)
ペトロは思い出す。ユダから与えられた、数々の思い遣りを。注がれた優しさを。倒れそうになっても側にいたいと言ってくれた、愛情を。
(こんなオレでも、お前は受け入れてくれるのか?)
その全ては、一つも零れることなく心に沁みていた。蝕む闇を拒むように、それだけは聖域で守られていた。
僅かに残っていた希望に、ペトロは涙する。
(ユダが、オレのことを信じてくれてる。オレが帰るのを、待っててくれてる。そんなユダの気持ちを、裏切りたくない。きっともう二度とない出会いを、こんな結末で終わらせたくない……)
ユダがくれた真っ直ぐな思いは、彼にとって大切なように、ペトロにとっても大切なものだった。それを何一つ返さずに、別離を迎えたくなかった。
何より、手放したくなかった。
ペトロに、少しずつ生気が戻ってくる。
「こんな結末は、ダメだ……」
腕に力を入れ、足に力を入れ、重くのしかかる罪を押し退けようとする。
「何だと!?」
あと一歩で堕ちるところまで追い詰めたフィリポだったが、復活しようとするペトロに驚愕する。
「オレが思い描いていた自分は、お前の言う通り幻想だった。もう手遅れだと心の底で思ったのも事実だし、被害者ぶっていたのも自覚がなかった。家族も、オレの無事を喜んでないかもしれないし、助けようとしなかったオレを恨んでるかもしれない」
瓦礫を退け、炎の中に立ち上がろうとする。
「オレは、家族の気持ちを自分の都合の良いように想像していた。自分自身を罪から守るために。一人で生きるために強くなろうとしたのも、事実から目を逸らすためだ」
「テメェはテメェの罪を認めたんだろ! だったら潔く償えって言ってんだよ!」
「償うよ。でも本当に、この方法で合ってるのか?」
ペトロはよろけながらも、自身の意志で立ち上がった。
「ああん? 何言ってんだ!」
「オレは、お前が求める償いの方法が一番正しいとは思わない。お前の要求は間違ってない。だけど。呵責に苛まれて人として死ぬだけじゃ、何も解決しない。肉体ごと死んでも同じだ。それだけじゃ、家族への償いにはならない」
「だから、人間らしい尊厳を持った
「そうだ。オレは糞野郎だよ」
絶望を見ていた目は光が戻り始め、己の罪悪感ともう一度見つめ合っていた。
「でも、その生き方を選んだ。裏切り者って恨まれて、呪われようと構わない。寧ろそれでいい。その方が、自分の罪を忘れずに生きられる。家族の存在を心に刻んでいける」
「開き直りかよ!」
「オレはもう決めたんだ……。いや。最初から決めてたんだ。家族の思いを抱いて生きていくって。だから強くなりたいと願った。強くならないと、全部持って歩けないから。開き直りでも、欲望の塊でも何でもいい。これからも、自分が決めた道を歩ける理由になるなら」
ペトロは自分の意志の再確認をするように、胸に手を当てる。
「納得できないなら、オレを呪えばいい。咎めたいなら、死ぬまで好きなだけ咎めればいい。オレはそのぶん強くなる。償いを終えるまで強く生き抜く。もう一人じゃないから何も怖くない。罪も、家族の思いも、全部連れて行く!」
そして力強く前に突き出すと、光が集まり剣の形を形成した。
〈
「
そして輝く剣で空間を切り裂き、棺は内側から破壊された。
フィリポの棺は崩壊し、その中からペトロの姿が見えた。
「ペトロ!」
「無事に戻って来た!」
悪魔たちと戦闘中のヨハネたちは、無事な姿で棺から脱出したペトロに歓喜の表情を浮かべた。
崩壊した棺から逃れたフィリポも影から現れた。ペトロは倒れそうだったが気力で踏ん張り、〈
「彷徨える怨念に、天の祝福が与えられんことを!」
この程度なららフィリポは回避することはできた。だが。
「はあーーーっ!」
一方で、グラシャ=ラボラスがユダに斬り掛かられそうになっていることに目を疑った。
(何やってんだグラシャ!)
使役するグラシャ=ラボラスを失う訳にはいかない。
「〈
フィリポは自身の身体から黒いカットラスを作り出し、ペトロの刃を受け止め、腹を蹴った。「ぐふっ!」蹴り飛ばされたペトロは地面に叩き付けられる。
ペトロを退けるが、そのあいだにグラシャ=ラボラスにユダの大鎌の刃が迫る。
「我らを闇に導く存在を滅する!」
「戻れ! グラシャ=ラボラス!」
ユダが〈
「くっ!」
(あと一歩というところで……!)
「まさか、グラシャが手子摺るとは思わなかったな。しかも、此の俺様が獲物を仕留め損ねるとは。糞愚物のクセに……!」
思い通りにいかず、奥歯を噛み締めるフィリポ。赤く燃える双眸でペトロを睨み付けたが、仕切り直しを選択し、その場から姿を消した。
同時に影は消えて展開されていたテリトリーは解除され、いつもの喧騒の街が戻った。
「終わった……」
「ボクたち、一応勝ったってこと?」
「だな」
ヤコブとシモンは、安堵とお互いの健闘を称えたグータッチをした。
人々の様子もやはり、世界から消えていたことに気付いてはいなかった。だが、突然傷だらけの姿の使徒が現れて騒然とする。
「ユダ」
「ペトロくん!」
ペトロはヨハネに抱えられて歩いて来た。精神的ダメージを負ってはいたが、無事に帰って来てくれたその姿にユダは酷く安堵する。
「……おかえり」
「ただいま……。なんか、ボロボロだな」
「うん。すごく大変だったからね」
ペトロはユダに手を伸ばした。よろけそうになったその身体を、ユダは傷だらけの身体で抱き止めるように支えた。
「オレ、またダメになりそうだった……。でも。一人じゃなかったから、戻って来れた……。ユダがいてくれたおかげだよ」
「きみを信じてた。無事に帰って来てくれて、本当によかった……」
抱き止めた手に、心からの安堵の思いが込められた。
その表情は見られなかったが、衷情を感じたペトロは溢れ出しそうな感情を押し止めたくて、ユダの胸に顔を埋めた。
「オレの心の中にいてくれて、ありがとう。ユダ……」