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第32話 告白



 憤怒のフィリポフィリポ・デア・ツォルンと、そのゴエティア・グラシャ=ラボラスとの戦いから数日後。

 この日は、ペトロの初仕事である炭酸水の広告が各所に掲出される日だった。

 ペトロは、アルバイトもないのでのんびり過ごす予定だったが、怪我が回復したユダに「せっかくだから見に行こう」と午前中から強引に連れ出された。

 広告は、駅構内やトラムの停留所など各所に出されていた。ペトロを起用してくれたフィッシャーから、どこに掲出されるか情報を得ていたユダは、周れる限り車で周るつもりだ。

 事務所の社長が、新人の初仕事がかたちになったことを喜んでくれるのは大変ありがたいことだが、同行するペトロは、彼女の長ーい買い物に付き合わされる彼氏の気分だった。

 飽くまで、彼女がいた友人に聞かされた愚痴で例えてみただけだが、連れ出されて一時間ほどで飽きてきたので、たぶん理解はできた。


「なぁ。撮り過ぎじゃないか?」

「そんなことないよ。あ。ここにも! ナチュラルバージョンだ」


 ユダは、通りすがりのトラムの停留所の広告を連写する。

 なんとパターンは、ナチュラル・キュート・クールの三種類ある。会議で使う素材を選びきれなかったらしく、それぞれのパターンからイチオシの一枚が選ばれたのだ。

 ペトロ推しのフィッシャーは電話越しに「どれも押しだったので苦渋の選択でした!」と、絞り込むのが本当に辛かったようだ。


「もうやめろって。一緒にいるオレが恥ずかしくなってきた……」


 通行人の視線が気になるペトロをよそに、ユダは広告の前を指差した。


「ペトロくん。ここに立って」

「え。なんで」

「一緒に撮ってあげるよ」


 観光地で記念写真を撮るテンションで、にこやかに言った。


「いいって。何で自分と撮らなきゃならないんだよ」

「でも、初仕事の広告だよ? 記念に撮りたくないの?」

「遠慮する」

「えーっ」


 とても残念がる、ペトロ推し第一号のユダ。今日は、いつもの包容力と紳士さは部屋に忘れてきたらしい。

 その若干甘えた顔を見てしまったペトロは、ちょっと心臓をキュッとさせ、小さく溜め息をつく。


「わかったよ。一枚だけな」


 ペトロは指示された位置に立ち、広告の自分と並んだ。ところが、一枚だけと言ったにも関わらずユダは連写した。


「おいっ! 一枚だけって言っただろ!」

「そんなに恥ずかしいの? でも。かっこいいよ、ペトロくん。惚れ惚れする」


 久し振りの落とし文句を不意打ちされて、違う恥ずかしさでペトロはちょっと赤くなる。


「もう満足しただろ。あとは実物で我慢しろ」

「うん。十分撮ったから満足だよ。掲載されてる雑誌も買ったし」

「いつの間に……。一体どれだけ撮ったの?」

「えっとね……。動画は25本。写真は1056枚」

「マジで撮り過ぎだろっ!」


 生き生きとするユダは、充実感を得られて満足げだ。出会って初めて見る表情に、呆れていたペトロは、ちょっとだけ「ま、いいか」と大目に見てあげた。




 二人は休息場所を求めて移動し、カフェでコーヒーをテイクアウトしてシュプレー川の遊歩道で一息ついた。

 川に掛かる赤レンガのオーバーバウム橋は、中世の城壁のようだ。二階建ての構造の橋の下は歩道と車道で、線路が引かれた上には黄色い車体の電車が走る。

 時刻は夕方。太陽が橋の向こう側に傾き、目の前の川の水面には、陽光が落とした小さなダイヤモンドがいくつも漂っている。


「連れ回されて疲れた」

「ごめん。楽しくなっちゃって、つい……」

「満足そうで何よりだけど」


 ペトロは柵に寄り掛かり、久し振りに甘くしたカフェラテを飲んだ。


「ペトロくんは、自分の広告見てどうだった?」

「何か、変な感じ。自分じゃないみたい。別の次元の自分、みたいな」

「きっと、これからも仕事のオファーは来るよ。またやる?」

「ぽっと出なのに、そんなに仕事が来るとは思えないけど」

「来るよ」


 ユダは淀みなく断言し、そして予言する。


「私は、きみの可能性を見出してる。これからペトロくんは、みんなに知られる存在になるよ」

「それ、社長だから言ってるの?」

「半分半分かな」

「半分は社長としての期待だろ。あとの半分は?」

「私個人の推したい願望、かな」

「またそうやって変なこと言うー」


 ペトロは微苦笑した。数日前までとは違う、自然に出た笑みだった。その笑みに、ユダも目を細める。


「ペトロくん。前よりだいぶ表情が明るくなったよね」

「そうか?」

「うん。最初の頃はほとんど笑わなくて、あんまり表情が変わらなかった」

「だいぶ印象悪かったんだな……」

「きっと、重い荷物持ってたから、そんな余裕がなかったんだよ」

「だとしても、仲間になる相手に愛想悪いのはよくなかったよな」


 自省して苦笑いしたペトロだが、すぐにその表情に少しの陰を落とした。


「……オレ、このまま進んでいいのかな」

「ためらってるの?」

「ユダに声掛けられて使徒になってから、日常が充実し始めた。それはいいことなんだけど、幸せになっていいのかなって」

「ペトロくん」

(まだ、家族のことを気に掛けて……)


 ペトロは、今の心情を一つずつ吐露し始めた。


「新しい日常が始まって、自分の気持ちにも少しずつ変化が起きて、家族の記憶を捨て去って生きようとしてるんじゃないかって自分を疑ってる……。墓地に行って、教会堂にも行って、ある程度気持ちの整理はできたと思ったけど、全然でさ。あいつ……フィリポに言われたんだ。『亡くなった家族が生き残った人間の無事を願うのは、生き残った奴が綺麗に飾った妄想なんだ。死んだ人たちは痛みと熱に苦しんで、そのまま死んだのに、生き残った人間のことなんか考えられると思うか?』って……。そう言われて、オレは自分の都合の良いように家族の思いを作ってたんだってわかって、自分の罪を自覚した」

「前にも言ったけど、きみに罪なんて……」


 ユダは罪悪感を否定しようとするが、ペトロは首を横に振る。


「死者と生存者の思いは、たぶん、擦れ違ってる。怨念の塊だっていうあいつの言うことに、悔しいけど納得したんだ。オレが抱いていたのは全部綺麗事で、自分を罪から守ろうとしていただけなんだ。そんなオレが、幸せとか貪欲に求めちゃいけない。幸せになったら家族のことを忘れてしまうかもしれないって、怖くなった」

「凄惨な出来事で喪った人を、どうやって忘れられるの。忘れられるはずがないよ。もしもフィリポが言ったことを信じているなら、それはコントロールされてるだけだ」


 ペトロがまた心を閉ざしてしまうのでは、自分から離れていってしまうのではないかとユダは憂慮した。


「いや。事実だよ。たぶん、わかったんだ。オレが間違った生き方をしようとしていたことも、死んだ家族に恨まれてるかもしれないことも」

「恨んでるなんて……。きっと、そんなことないよ」

「それも全部願望なんだ。オレはそれを認めた。だから、怨まれててもいい。呪い殺されたっていいって思った」

「そんな……。それじゃあ。死を迎えるのを待つことが、きみのこれからの生き方だって言うの?」


 ユダは哀憐の表情で尋ねた。罪悪感に囚われて生き続けるのかと。

 ところがペトロは、一笑して言う。


「さすがに、そんな考え方はしないよ」


 自分が思っていたよりも明るく返されて、ユダは少し戸惑った。けれどその明るさは、違う意志が芽生えた明るさだった。


「でも、改めて覚悟は決めたよ。だけど、前とは違う覚悟で、自分に向けられてる思いを裏切るような選択はしないことが大前提。その思いが怨みでも温情でも、大切な人からの気持ちを蔑ろにしない。だから、そのためにオレは、これからも強く生きていく」


 決意表明したペトロの表情はどこかさっぱりしていて、突貫で作られた芯がきれいに真っ直ぐになっているように感じさせた。

 フィリポが言っていたことが全て真実ではないのは、ペトロも何となくわかっている。けれど、一度立てた誓いは捨てるべきではなく、寧ろ必要なものなんだと理解した。罪悪感を消すことができない今の自分が、しっかり歩くための重りなんだと。

 ユダはその表情で、ペトロはちゃんと前に向かっているんだと感じ、同情を抱いては失礼だと余計な救いは仕舞った。


「そっか……。そう決意できる時点で、きみはすごいよ」

「でも、不安はあるよ。マイナスの感情が、全部なくなった訳じゃないから。だから、本当に頑張るのはこれからだと思う」

「大丈夫だよ。私が側にいるから、きみは一人じゃない」


 ユダは、ペトロに真っ直ぐな真心を捧げた。

 真摯な眼差しで見つめられるペトロは、ほんのり胸から熱くなる。

 すると。その思いに少しでも返したいと、解氷途中の願望が顔を出す。


「ユダは本当に、オレに優しいよな。一緒にいると安心するし、居心地がいいし。なんか、オレの心まで温かくなって、不思議な感じ。こうして二人きりでいるのも、嫌じゃないって思う」


 川面が穏やかに波打つ。ペトロは、自分の心音が可視化されているように見えた。


「嫌いじゃないよ。ユダのこと」


 初めて、ユダに対する自分の気持ちを言葉にした。思っていたよりも、抵抗感はなかった。

 風が吹いて、川面が少し大きく波を打つ。

 ペトロから初めて素直な気持ちを聞いたユダは、本当に大切なものを確信した。

 それがわかった瞬間、ペトロの右手を握り、言葉を紡いだ。


「好きだ……。私は、きみのことが好きだ」

「……」


 ユダから真剣な面持ちで唐突に告白されたペトロは、顔を赤く染める。今までにないくらい心臓が高鳴り、身体じゅうに熱が広がっていくのを感じる。


「それって、バンデだから?」

「バンデなのは関係ない。きみだから好きなんだ」

「……本当に?」

「私がきみへ言うことは、嘘なんて一つもないよ」


 その気持ちは本物だ。わざわざ確かめなくてもわかることだった。


「きみと一緒にいて、本当のきみを知って、これからも側にいたい、大切にしたいと思った。だから、きみの中に残る懺悔と喪失を、私にも預けてほしい」

「でも……」

「全然重くないよ。時間が経てば軽くなる。私といれば、きっと」

「……」


 握っている手が熱い。ユダから伝わってくる熱で、燃えそうだ。自分の中の熱と合わさって、どっちの熱かわからなくなりそうだ。

 思いを受け止めるペトロは、視線を下げて少し考えた。


「……ありがとう。その気持ちは嬉しい……。でも。まだ応えられない」

「恋愛対象にできない?」

「そういう訳じゃないんだ」

「幸せになることを、ためらってる?」


 ペトロは頷く。表情に後ろめたさと憂いを浮べて。


「だから、時間がほしい。ユダの気持ちに、適当に応えられないから」

「じゃあ、返事を待ってていい?」


 ペトロは、申し訳なさげにもう一度頷いた。

 返事が保留になっても、ユダは少しも肩を落とさなかった。「今は無理だ」とはっきりと断ってもいいのに、自分の気持ちを思い遣ってくれるその素直さがとても嬉しく、愛おしかった。


「それじゃあ……。保留になった代わりに、いくつか私の願い事を聞いてくれるかな」

「願い事?」


 ユダは、戸惑うペトロにささやかな願いを並べる。


「ソファーで隣に座ってもいい?」

「え? ……うん。そのくらい別に」

「あと。また、デートに誘ってもいい?」

「う……うん。まぁ、いいよ」

「それから。時々、手を繋いでいい?」

「……誰にも見られないなら」


 三つ目は恋人同士じゃないとおかしいのでは、と思ったが、手を握られても嫌じゃないのでとりあえずOKした。

 願い事は以上……ではなく。「あと、一つ……」と、ユダは遠慮がちに言う。


「ちょっとだけ、ハグしていい?」


 ペトロはまた頬を染める。

 ハグなんて、仲がいい相手となら挨拶ですることもある。戦闘後に、一般人から感謝のハグをされたこともある。だから、今さら恥ずかしがることもないのだが、告白されたのを意識してちょっとドキマギしてしまう。

 これは拒否するべきか。それとも、そこまで頑なになる必要はないのか。自制心と本心が葛藤し、視線を泳がせて迷う。

 そして、十数秒の葛藤の末。恥じらいを覗かせながら、許可をする。


「まぁ……。ハグくらい、ちょっとだけならいいよぉおあっ!?」


 ペトロが返事をしたした瞬間にユダはハグした。突然のことでうろたえるペトロの顔は、また真っ赤になる。


「ちょっ! 今? ここで!?」

「いいって言ってくれたでしょ?」

「だけど! 人見てるっ!」

「見てないよ」

「見てるから!」

「ハグなんだから、日常風景だよ」

(こんなのハグじゃないって!)


 がっつり抱き締められるペトロは、他人の視線が気になって恥ずかしかる。けれど、ユダは離そうとしない。


「ごめん。本当に、ちょっとだけでいいから」


 耳元から聞こえた、囁くような声。

 声に乗せられた思いは、ダイヤモンドのようだった。手が届きそうで届かなくて、扱いを間違えれば壊れてしまうかもしれない、この世で唯一の無敵で儚い宝物。


「……」


 包み込む腕は、少しだけ力強かった。

 ペトロは、その思いが寂しくならないように、コートの袖を少し掴んだ。

 川面が眩しくて、目を瞑った。




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