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第2章 Bemerkt─望み、選ぶもの─

第1話 変わりゆく日常



 聖霊降臨祭が終わり、青葉が生い茂り初夏の香りがする。

 今日シモンは、製菓会社のイメージキャラクターに正式採用になったシモンの新しい広告の撮影をする。そんな記念すべき日に、アルバイトのシフト交代ができず付き添えなかったヤコブの代わりに、ペトロが一緒に来ていた。

 衣装に着替えて撮影が始まると、シモンはチョコレートを食べるふりをしたりパッケージを見せたりと注文通りのポーズをし、慣れた様子で撮影は進んだ。


「あ。これ、おいしそうに撮れてますね」

「口にチョコ付けてかわいい〜」

「おいしそうだったから、つい食べちゃいました」

「でも、いい一枚撮れてるよ。これ候補だね」


 撮影後、シモンは関係者らと一緒に撮った素材をチェックした。スタジオの隅で見守っていたペトロも、どんな感じで撮ったのか気になって後ろからちょっと覗いていた。

 すると、ヘアメイクの女性が話し掛けて来た。


「あの。シモンくんと同じ事務所の、ペトロさんですよね」

「あ。はい」

「炭酸水の広告やられてますよね。SNSでもバズってる」

(SNS?)


 ペトロは何のことだかわからず心の中で首を傾げたが、バズりっぷりが気になったヘアメイクさんは事務所の紹介ページも覗いてくれたようだ。


「失礼なこと訊くかもしれないんですけど、あの広告って全員ペトロさんなんですか?」

「そうですけど」

「AIとかでもなく?」

「はい。全部オレです」


 そう答えると、ヘアメイクさんの表情が快晴のようにパアッと明るくなる。


「本当にそうなんだ! パターンごとに雰囲気が全然違うから、それぞれ別人かと思ってました。事務所のホームページの写真も違うし」

「そんなに違います?」

「全然! 今話してる人とあの広告のモデルさんが同一人物なんて、ちょっと信じられないくらいですよ」


 疑問が解消されたヘアメイクさんは心を弾ませて言うが、ペトロ自身は普段の自分と広告の自分の何が違うのか全くわからず、ついに首を傾げた。

 周りの人は自分の仕事を褒めてくれるが、ぽっと出の新米モデルをそんなにヨイショすることもないのに、などと心の中では思っていた。


 似たような眼差しは、帰りのバス車内でシモンからも向けられた。


「ペトロって、何か特別な修行でもしたの?」

「急に何だよ」

「だってさ。この前の憤怒のフィリポツォルン・デア・フィリポとの戦いで勝ったでしょ。ボクたち、極限状態になって精神の死を迎えるって聞かされてヤバいって思ったのに、自力で棺から脱出してボクたち驚いたんだから」

「修行なんてしてないし。ていうか、使徒の修行って何?」

「破壊が不可能で精神的にもヤバかったのに、どうして脱出できたの?」  

「そうだなぁ……」


 尋ねられたペトロは、フィリポとの戦いを思い返す。一皮剥けたので、辛い戦いを振り返ってもそんなに厭わしく思わなかった。


「強いて言うなら、心構えが変わったから……。かな」


 そう言うとシモンは、にやりとして何か期待をして言う。


「心構えだけ?」

「一つ挙げるとしたらそれだけど」

「へぇー。そうなんだー」


 期待した答えは返って来なかったが、シモンは深堀りはしなかった。ペトロも何か期待されていた気がしたが、聞き返さなかった。


「いいなぁ。強くなれて羨ましいー。世間でも噂されてるし」

「噂?」

「知らないの? ほら。SNS見てみなよ」


 シモンはSNSの画面を見せてくれた。

 見ると、ペトロの炭酸水の広告の写真がもれなく上げられていて、「この人だれ? きれい!」「この美人は何者だ!?」「これ男じゃないの?」「同じ商品で三パターンあるけど全員同一人物なの? それとも別人?」「あるいは三つ子!」「いや。AIだろ」などいろいろと書かれている。


「三つ子って……」

(さっきスタッフさんが言ってたの、これのことか)

「ユダもこのSNSの反応のこと言ってたよ。企業からも、『広告のおかげで商品の売上が順調に右肩上がりです。ペトロさんに出会えたおかげです。ありがとうございます。毎日拝みます。これからは足を向けて寝られません』て、感謝されたって」

「そういえば聞いたな」


 この言い回しからわかるように、ペトロ採用理由を熱烈アピールした広報担当フィッシャーからの感謝の言葉だ。

 周囲の反応にユダも嬉しそうで、

「ペトロくんがこんなに褒められるなんて、自分のことのように嬉しいよ。この世間の反応は想像してなかったけど、やっぱりきみにはモデルとしての素質もあったんだ。ペトロくんの輝かしい人生の幕開けだね」

 と本当に自分のことのように喜んでいた。「輝かしい人生の幕開け」は大袈裟過ぎるが、おかげでこの数日ユダは上機嫌だ。


「でも。ヤコブやシモンの時もこんな感じだったんだろ」

「全然! こんな反応なかったよ。これって使徒の子だよね、くらい。ペトロみたいな盛り上がりはなかったよ。だからボクたちみんな驚いてるんだ」

「そうなんだ……」

「事務所のホームページも、ペトロのプロフィールが追加されたし。もしかして、アクセス増えたんじゃないかな。新しい仕事来てないの?」

「いや、全然聞いてない。たぶん、使徒のオレと広告の人が同一人物だと思われてないんじゃないか?」


 注目される一方で仕事が来ないことをユダは腕を組んで悩んでいて、贔屓して過剰な広報戦略を打ち出しそうだったからペトロは止めておいた。


「普段と仕事のギャップが思わぬ弊害になってるんだね」

「別に見られなくていいよ。プロフィール写真だし」


 事務所ホームページのペトロのプロフィール紹介で使われている写真は、あの奇跡の一枚だ。もちろん使用したのはユダの独断で、ペトロは変えてほしいと交渉したのだが、社長の自分が決めたことだからだと言って変えてくれなかった。職権濫用である。


「あれ、いい写真なのに。ペトロは嫌なの?」

「不特定多数に見られるの、まだ慣れないんだよ……。社長ユダに言ってダメなら、副社長ヨハネに言ってみようかな。副社長が説得してくれれば宣材写真変更してくれるかも」


 しかしシモンは「それは無理かも」と即可能性を否定した。


「だってヨハネ、ユダ相手だと“イエスマン”だもん」

「副社長がそんなんでいいのかよ……」

「ユダは、ペトロのこれからに大いに期待してるんだよ。だから、目を引くあの写真使ったんじゃない?」

「職権濫用じゃなくて?」

「職権濫用かもしれないけど。でもきっと、あの写真がジワジワ役に立ってくるよ。それまでは、アルバイトしつつオーディション頑張らないとね」


 シモンも、ペトロのこれからの活躍に期待しているようだ。

 しかしペトロには、周囲の反応というのはまだ遠く感じる。これからどの道へ進もうかと悩んでいる今は、環状交差点ラウンドアバウトでグルグルと回り続けている状態だ。




 帰宅したペトロは、乾いた洗濯物を取り込んだ。


「アルバイトしながらオーディションも、か……。ヤコブがそんな感じでやってるんだよな」

(でも、まだモデルを本気でやろうとは考えてないし。オーディションは強制されない限り行かないかな……。ていうか。普通にモデルの仕事の話するけど、オレたちの本業は使徒だよな?)

「本業がわからなくなりそうだ……」


 自分の下着を手に取ると、ある出来事を思い出して羞恥がひょこっと顔を出した。


「家事分担のことも、ちょっと考えようかな……」

(自分のパンツをユダに干されてるのを見ただけで、動揺するなんて……)


 数日前。正式に告白されたあとだったこともあり、自分に好意を抱いているユダに自分の下着を触られているのを見た瞬間、恥ずかしさが噴き出して朝から取り乱してしまった。


「自分のは自分で洗おうかな……」

「ただいまー」


 そこへ、本日の業務を終えたユダが戻って来た。ジャケットを脱いでネクタイも取り、すっかりオフモードだ。


「おかえり。お疲れ」

「洗濯物たたんでくれてるんだ。ありがとう」

「どういたしまして」


 ユダはジャケットとネクタイをハンガーに掛けると、ジッとペトロに視線を送る。


「……何だよ?」

「なんかこのシチュエーションが、新婚夫婦みたいだなと思って」

「新こ……」


 唐突な発言に動揺して、ペトロは一瞬で赤面する。


「何言ってんだよ! 付き合ってもいないのに!」

「じゃあ。同棲ホヤホヤのカッp」

「カップルでもない! 同室なだけ!」

「そんなに否定されると傷付くなぁ」

「否定じゃなくて事実だろ! お前の洗濯物たたんでやらないぞ!」


 ペトロはユダの洗濯物をバサッと投げ付けた。「そう言いながら投げないでよー」とユダは笑いながら洗濯物をキャッチする。

 ユダから告白され返事を保留にしているペトロだが、関係性は以前と変わらなかった。ユダは返事を迫ることもなく、無理やり何かをしてくることもない。なので、同室でもギクシャクせずに過ごせていた。

 そのユダの気遣いは大変ありがたいペトロだったが、返事を待たせてしまっていることが少し申し訳なく思っていた。それは、バンデのこともある。

 ペトロはこれから、バンデであるユダとの絆を深めていくことになる。しかし、告白の返事を先送りにすることでバンデとしての成長が遅れ、戦いに影響が出てしまうのではないかと気にしていた。


「……なに?」

「え?」

「だって。見つめてくるから」


「っ!」考え事をしてユダを見つめていたことに自覚がなかったペトロは、また赤面して慌てて顔を逸らした。


「……あ……。あの、さ」

「うん?」

「その……。アレ……」

「アレ?」

「……やっぱり何でもない」


 もしかしたらユダもこれからのことを気にしているのではと思い「返事を待たせてごめん」と言おうとしたが、やめた。そんなことを言えばユダはまた優しい言葉を掛け、その優しさに絆されて返事をしてしまいそうな気がした。

 けれど、今はまだ言えない。環状交差点ラウンドアバウトから出る道はわかっていても、車線変更ができず抜けられない。

 抜け出る機会を探っている今は、ペトロは自分からも返事の言及は避けようと思った。




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