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第5話 モスト・ニアミス



 下の階でユダたち三人が飲みながら話していたころ。ペトロはシャワーを浴びながら思いを巡らせていた。

 ペトロには、解決したい悩みが二つあった。一つは、ユダへの返事。もう一つは、父親から言われたある言葉だった。


「人並みの幸せ……」


 その言葉が、時折頭を過ぎっていた。



●●●●●●●●●●



 それは、墓地で再会した父親と別れる間際のことだった。


「たまには連絡してくれ。ご飯にでも行こう」

「うん。連絡する」

「それから……。無理して危険なことを続けないでくれよ」

「え?」

「俺もSNSくらいやってるんだぞ。お前が何をしてるのかは知ってる」


 父親は、ペトロが使徒であることを知っていた。ペトロは余計な心配はさせまいと敢えて教えないつもりだったが、SNSで発信されている使徒の情報を見てしまっていたようだ。


「悪魔と戦ってるんだよな。なんでそんなことをしてるんだ。あんな目に遭ったっていうのに、どうしてまた……。どうしてお前が危険を冒さなきゃならないんだ」


 苦衷を浮かべる父親は、息子が使徒になったことを認められないようだった。悲劇を経験したのならば当然だ。だからペトロも話すつもりはなかった。


「あの。それは……」


 説明責任のあるユダは、ペトロの父親にいきさつを説明しようとした。しかしペトロはそれを止め、これは自分から言わなければならないことだと、ユダに目で伝えた。


「心配かけてごめん」

「なんでお前が悪魔なんかと戦わなきゃならないんだ。神はお前に試練を与えたとでも言うのか」

「そうかもしれない。でもこれは、オレが望んで選んだことだよ」

「危険じゃないのか。それとも、お母さんたちのところへ行こうとしてるのか? そんなことやめてくれ。お前までいなくなってしまったら……」


 父親はペトロの肩を掴み、家族の葬儀の時と似たような表情をした。力が入る手は、尊いものを二度と手放したくないと言っていた。

 ペトロにもその深い愛情が伝わった。そして、父親への申し訳なさが滲み出てくる。

 けれど、意志を示さなければならないと感じた。あのころの自分から変わろうとしていることを。


「バカなこと言うなよ。オレは死ぬつもりなんてないよ。オレは、オレ自身のために戦ってるんだ。捨てられないものを背負ってるオレでも、誰かの役に立つことができるんだ。この力で人を救えるんだよ。自分のことだって……」

「ペトロ……」

「オレが戦うのは、これからも生きるためなんだ。痛い目にも遭うし、凄く辛いこともある。でも、全ては自分のためなんだ。明日を強く生きるための糧になることなんだ」

「無理してるんじゃないのか?」


 父親は憂う眼差しで尋ねた。その眼差しの奥で何を案じているのかは、深層に潜るまでもなく簡単に汲み取れる。

 だからペトロは、口角を上げた。


「少し無理はしてる。だけど、大丈夫だよ。心強い仲間と、支えてくれる人が近くにいるから。だから父さん、オレを信じて見守ってて。オレはちゃんと生きるから」


 言葉だけでは伝えきれない。だから見せる覚悟で思いを受け止めてほしいと、強い意志を示した。

 憂慮していた父親だったが、孤独を連れ立つことを選んだような顔から随分と変わり、あのころとは別の強さを抱いた勇敢な顔付きの息子が、とても頼もしく見えた。


「……わかったよ。だが、本当に無茶はしないでくれ。俺は、お前に幸せでいてほしいんだ。何も金持ちになれとか言ってるんじゃない。人並みに幸せでいてくれたら、それでいいんだ」


 ペトロの意志を尊重することを選んだ父親は、願うようにそう言った。



●●●●●●●●●●



(“人並みの幸せ”って、なんだろう。家族と一緒にいた時が、人並みの幸せって言うのかな……。それじゃあ、家族がいなくなった今は、オレは人並み以下の幸せなのか? そもそも、人並みの幸せってどういう状態なんだろう。普通に衣食住できてること? 学校に行けてること? 働けてること?)

「そう考えると、オレは今、一応幸せなのかな。住む所があって、寝るところもあって、ご飯も食べられてて、バイトしてる」

(これが人並みの幸せなら、心が満たされてるはずだよな。だって、家族といた時は何も不満がなくて楽しかったから)

「じゃあ。オレは今、心は満たされてるのかな」


 シャワーブースから出たペトロは身体を拭き、下着だけ穿いて洗面台で髪を乾かし始めた。


(みんなといるのは楽しい。バイトはやらないと生きていけない。モデルの仕事は、まだ楽しいとかわからない。使徒は楽しいとかいう次元じゃないし……。でも、今の生活に嫌なことはない。だけど、心が満たされてる感じはない)

「何かが足りない……?」

(何が足りないんだろう。前は近くにあって、今はないもの……? オレの心がほしがってるもの……)


 髪を適当に乾かし、服を着ようとした。

 その時。バスルームのドアが突然開いて、ペトロがいるとも知らずにユダが入って来てしまった。


「あっ」

「えっ!? ちょ、何で……って、うぉおっ!?」


 動揺して慌てたペトロは、落ちていた何かで足を滑らせ倒れかける。


「ペトロくん! ……って、ぉおっ!?」


 ユダは倒れるところを助けようとしたが、ペトロに服を掴まれて一緒に体勢を崩し、ドスンッ! ドタンッ! と盛大な音を立てて倒れた。


「……ったあ〜……。お尻打った……」


 ペトロがパッと目を開けると、目の前にユダの顔があった。ペトロが巻き込んだおかげで倒れたユダは、不可抗力でペトロに覆い被さる体勢になっていた。


(あ……)


 立てたペトロの膝が、ユダの股に当たりそうになっている。膝立ちになっているユダの足も、ペトロの股間スレスレだった。


「…………」

「…………」


 唐突に訪れた場面に二人の思考は止まり、見つめ合う。

 キスができてしまう距離に、ペトロの鼓動は早くなる。

 一体何が起きたのか、ユダは一瞬では考えられなかった。

 血液が身体中を走るように巡る。身体の中心から熱くなる。脳が熱にやられて、理性に火の粉が飛んで焼けるようだった。

 触れたい。でも、まだ触れられない。触れてはいけない。でも触れたい。

 触れてしまいたい。

 ユダは無意識に、少しずつ少しずつ、ペトロに顔を近づける。驚いて少し開いた赤みを帯びた唇を、奪おうとした。


「……ペトロくん」


 ユダはペトロの手を握る。「……っ」構えたペトロは目を瞑った。

 ところが。


「大丈夫?」


 手を取ったユダは、身体を起こしてくれた。


「頭打ってない?」

「え? ……う……うん」

「ごめんね。驚かせて」


 いつものユダに戻っていて、何かされるんじゃないかと思ったペトロはホッとした。


「ううん。オレも、内側から鍵掛けるの忘れてたから……。トイレ?」

「行こうとしてたんだけど、それはいったんどうでもよくなって……。ペトロくん」

「なに?」

「前、隠さなくていいの?」

「……っ!」


 パンツは穿いていたが上半身は裸だったペトロは、真っ赤になりながら慌てて両腕で胸を隠した。ついでに股も閉じた。


「みっ……見なかったことにしろ!」

「それは無理かも。ピンク色のかわいいものが目に焼き付いちゃったし」

「今すぐ忘れろ!」

「どうしようかな……。ん?」


 ユダは手元に落ちていた布状のものを取った。広げるとそれは、ペトロのボクサーパンツだった。


「これはもしや。ペトロくんの使用済みパ……」

「ギャーーーーーッ!!」


 首まで赤くしたペトロは、使用済みパンツを隼のごとく奪取した。


「アレもコレも見なかったことにしろ!! 記憶喪失になれーーーーーっ!!!」



 ペトロに半泣きで記憶喪失を偽装されそうになったユダは、何度も謝って二度目の記憶喪失は回避した。

 難を逃れたユダは、ベッドに腰掛けると深く息を吐いた。


「危なかったぁー……」

(唐突の出来事で、理性を忘れそうになってしまった……。でも助かった。さっきあの話をしたおかげかな)


 ────もしもキスできそうな雰囲気になったらどうする? 流れでしちゃうのか?

 ────しないよ。ペトロくんの返事を聞くまでは何もしないって決めてるから。


 ヤコブとのあのやり取りを思い出したおかげで、ユダは理性を取り戻した。もしも今晩、飲みの誘いがなくそんな話もしていなかったら、欲望に負けてペトロの唇を奪ってしまっていたかもしれない。


(ヤコブくんて、予言者じゃないよね。でも感謝しよう)

「ユダ」


 声を掛けられたユダはパッと顔を上げ、仕切りの棚の隙間からペトロの顔を見た。部屋が間接照明の明かりだけで薄暗く、はっきりとした顔色は窺えない。


「オレ、先に寝るよ」

「あ。うん。おやすみ」

「おやすみ」


 二言交わした限り、隔たりは感じなかった。

 あれは事故だと思ってくれているだろうか。しようとしたことには気付いていないだろうか。

 明日もペトロとの関係が維持できることを願って、ユダも早めにベッドに入った。


 寝室のペトロはベッドに潜り、眠りに就こうとしていた。けれど、目を瞑っても脳が覚醒してまだ眠れそうになかった。


(さっきは本当にびっくりした……。鍵を掛け忘れた自分が悪いんだけど、まさかあんなことになるなんて……)


 自己責任で起きてしまった事故が、頭から離れない。自分の目の前にあったユダの顔を思い出すと、ギュッとなった心臓が手を当てなくてもドキドキしているのがわかる。


(キスされるかと思った。だって。いつものユダの顔じゃなかった)


 メガネ越しに交わったその目は、本気に見えた。だからペトロは構えてしまった。


(ダメなのに、あの目と目が合って、キスされてもいいかもって、ちょっと思った)

「……」


 一連のことが繰り返し脳内再生され、赤面して頭まで布団を被った。


(もう考えるのやめよう。あー、でも。明日の朝、顔合わせづらい。上半身を見られた上に、脱いだパンツを……)

「本当にマジで忘れてほしい……」


 ペトロはちょっとだけ、朝が来ないでほしいと思うのだった。




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