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第7話 地獄の匂い



 悪魔出現の気配を感じ取ったのは、ちょうど教室から出ようとした時だった。学校から近かったため、シモンはすぐに向かった。


(また、誘い断ることになっちゃった。でも、頑張れって応援してくれて嬉しい。次は一緒にサッカーしたいな)


 建物の屋根を渡って到着したのは、トラディショナルな建物が並ぶ街の一角。ショッピングや食事を楽しむ人の往来が多く、車だけでなくトラムも通る交通量の多い交差点だ。

 駆け付けたシモンが降り立つと、ヤコブが同時に到着した。


「ヤコブ!」

「おっ、シモン。同時に着くなんて、相性いいな」


 茶色いメディア会社の建物の前で、警察が交通整理をしていた。そこに、苦しみ足掻く色黒の男性が蹲っている。どうやら偶然通り掛かって、一般人の避難を呼び掛けてくれていたようだ。

 二人は警察官にお礼を言って、パトカーは走り去って行った。その直後、男性の中から悪魔が異形の姿で現れた。


「@¿σ∀ッ!」

戦闘領域レギオン・シュラハト!」


 シモンは戦闘領域レギオン・シュラハトを展開し、二人は迎え撃つ体勢を取った。

 ところが。悪魔は攻撃することなく、使徒の二人を避けるように向かいの建物の屋上に素早く移動した。


「なんだこいつ。逃げた?」

「何か作戦でも考えてるのかな」

「そんなの考えてるやつ、今までいなかったぞ。こいつらって単細胞じゃねぇのかよ」

「ぽいよねー。でも急にしゃべる悪魔もいたから、気を付けないと。というか。他に誰も来ないね?」

「ペトロはデリバリーの途中だけど、すぐに来れるってよ。ユダとヨハネも合流する予定だ」

「今回は勢揃いだね」

「正直、フルメンバーじゃなくてもいけるだろ。攻撃して来ない今なら、潜入インフィルトラツィオンもできそうだし」

「じゃあ、ボク行って来るよ」

「おう、頼む」

潜入インフィルトラツィオン!」


 誰かが駆け付けるまでは大丈夫だろうと判断し、シモンが倒れた男性の深層に潜入した。




 暗い底に着くと、男性が俯せになって倒れていた。

 周囲には、ガラスやコンクリートの破片が散乱し、汚れている子供用の靴や一部が焼け焦げた洋服など、身の回りのものが散らばっていた。それは全て男性のトラウマに関連するものだが、きれいなものは一つもない。


「これは……」


 それらを一通り見たシモンは、厭わしげに眉をひそめる。

 倒れる男性は「苦しい……」と、やるせない気持ちを乗せて口にする。


「辛い……。嫌だ……。なんでだ……。どうして、こんなことになったんだ……」

(この人、もしかして……)


 散乱しているものの状態を見て、自身にも思い当たる節があるシモンは、男性が過去に置かれた境遇を予感した。


「俺たちが何をしたって言うんだ……。ただ、家族と暮らしていただけじゃないか……。それなのに、一方的に……。身勝手な理由で壊された。全てを奪われた……。こんな地獄のような現実、生きているだけで辛い……」


 男性の言葉の一つ一つが、シモンの記憶の鍵のようだった。一時的に封じ込めていた記憶が断片的に甦り、早くも男性と深い相互干渉状態になっていく。

 シモンは両手を握り、甦る震えを抑えた。


「……そうだよね……。地獄の中で生きてるみたいで辛いし、これが夢だったらって何度も思うよね」

(ボクもそうだった。逃げても逃げても逃げられなくて、辛くて、心が痛くて、どうしようもなかった)

「俺たちはただ、平和に暮らしたかっただけだ……。なのになぜ、突然日常を奪われなきゃならないんだ。大切にしていた家族まで、喪わなきゃならなかったんだ。平和を壊されなきゃならなかったんだ……」


 嘆くその言葉の全てが理解できるシモンは、表情に懊悩を浮かべる。


「それは……わからない……。ボクにも、その理由はわからないよ……」

(あのことは思い出したくない。記憶から消し去りたい。でも、忘れられない。どんなに楽しい思い出を積み重ねても、深い傷は埋まらない)


 深い相互干渉の影響で、シモンの記憶が次々と再生される。目を覚まし始めたトラウマが、檻の中の猛獣のように暴れたがっている。


「大切なものを、取り戻したい……。返してほしい……。家族も。日常も。平和も。全部、返してくれ……。こんな苦しみを一人で抱えて生きるのは、もう限界だ。堪えられない……。こんな残酷で無情な世界には、もういたくない……」

「そんなこと言っちゃダメだよ。辛くても負けないで。ボクたちがこうして生き残ってるのは、きっと何か意味があるんだよ」


 絶望し、生きるのを諦めたがっている男性を、シモンは引き止めようとした。すると。


「理由……? 理由って、なんだ……」


 倒れていた男性は、四つん這いになりながらゆっくりとシモンに近付いて来た。


「俺たちは、聖職者じゃないんだ。善意だけで生きられるほど、心はきれいじゃない……。寧ろ、全てを奪われ壊されたせいで、悪魔に心を売ってもいいとすら考える。それで、全部がリセットできるなら……。亡くした家族が納得できるなら……」

「そんなこと考えちゃダメだよ。ボクたちが復讐なんて考えちゃいけないんだよ」

「なら、何を考えて生きればいいんだ?」

「祈るんだよ。何も奪われない日常と、誰にも壊されない平和を」


 足元に辿り着いた男性は、シモンを見上げた。


「……無駄だ」

「……っ」


 既視感のあるその表情を目にしたシモンは、ゾッとする。

 男性の片方の頬は焼けただれていて、希望を失ったその目は絶望しか見えていなかった。


「祈りは無駄だ。俺はそれを知っている。だから、この世界に希望を抱かない。どうせ変わらないなら、祈ったって無駄だ……」

「そ……。そんなこと……」

「祈りは、誰にも届かない。無情な世界にとっては、雑音でしかない。それなら、俺は何もしない……。全てを諦める……」


 恐れを懸命に振り払い、シモンは救いの言葉を届け続ける。


「諦めちゃダメだよ。ボクもその気持ちはわかるよ。だけどそれは、投げやりになってるだけだよ。絶望に心が支配されたとしても、諦めることだけはやめちゃダメなんだ!」


 暴れ出そうとする自分のトラウマを必死に抑え、負のエネルギーに支配される男性のためにシモンは訴える。自分になら、この人を救えるはずだと。

 男性は、シモンの衣服を掴んで膝立ちになる。


「それは、希望を見い出してるやつの言い分でしかない。俺たちの言葉は、誰にも届かない……。どうせそのうち、世界に殺される……。俺も、お前も、みんな死ぬんだ……!」


 シモンは身体をビクッと震わせた。


「……死ぬ……」

「そうだ。死ぬんだ……。神に祈ってるやつも、普通に生きてるやつも、みんな死ぬ……。この世界に殺されるんだ……!」


 生ける屍は、シモンのトラウマを暴れさせる。警鐘は、シモンの中で轟音のように鳴り響いていた。




祝福の光雨リヒトリーゲン・ジーゲン!」


 その頃。悪魔と一人で対峙するヤコブが、建物の屋上から降りて来ない悪魔に攻撃し、地上に誘き出そうと試みていた。


天の罰雷ドンナー・ヒンメル!」


 しかし、悪魔は屋上を飛び回って逃げるだけで、一向に降りて来る様子がない。接近するべきだが、深層潜入中のシモンに攻撃される危険もあるため、離れる訳にはいかない。


「何なんだこいつ! イラつくなぁっ!」


 思い通りにいかないヤコブは、ストレスを溜める一方だ。


「お待たせ!」


 そこへ、ペトロとユダとヨハネが遅れて到着した。


「遅っせーよ!」

「え。なんかキレられた」

「あ。わりぃ……。あの悪魔が、全っ然降りて来ねぇんだよ。シモンが潜入中だから離れらんねぇし」

「なるほど。そういう理由で不機嫌だったのか」

「やつはずっと屋上に?」


 ユダは無傷の悪魔を見上げて訊いた。


「ああ。出て来てからずっとだ。攻撃しても逃げやがるし」

「悪魔でもチキンがいるんだな」

「本当にチキンだったら笑えるけど、そうじゃなかった時が怖いよね」

「それじゃあ、どうしましょうか。四人いるし、一人地上で、あとの三人は上でチキンをいじめ倒すというのでもいいんじゃないですか」

「そうだね。じゃあ、とりあえず……」


 ヨハネ提案の作戦で動こうとしたその時、屋上で大人しくしていた悪魔が急に雄叫びを上げた。


「⊄σゥ……。グ&%ォ#◆@オッ!」

「なんだ!?」


 すると、憑依した男性と繋ぐ鎖が太くなり、悪魔の体躯が規格外の大きさに急成長した。


「デカくなった!?」

「この前遭遇したやつと似てるね」


 以前遭遇した脚と手を強化したあの個体は、俊敏さと破壊力を手に入れていた。しかし今回の悪魔は、身体全体が大きくなった。あの個体とは違った個性を持っているのではないのかと、四人は警戒する。


「……ゼ……絶、ボµ……」

「しゃべった!?」

「また人間の言葉をしゃべるやつに進化したのか」

「絶ボゥ、ダζ……だ……。全、ξ、ゥバ、£ヤル」


 身体的進化だけならず、人間の言葉を使う個体の再出現に、ユダたちは警戒心を強める。

 そんな時。ペトロがシモンの異変に気が付いた。


「なあ。シモンの様子、おかしくないか?」


 ペトロに言われたヤコブが振り向くと、深層潜入中のシモンが男性の横で倒れていた。




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