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第9話 燻り



「さて。返信しなきゃならないメールを、先に片付けちゃおうかな」


 事務所に帰って来たユダは、汚れてしまったジャケットを椅子の背凭れに掛け、デスクワークを再開した。

 ヨハネは給仕室でコーヒーを淹れ、二人分のカップを持って来て一つをユダに渡した。


「コーヒーどうぞ」

「ありがとう。ヨハネくん」


 ヨハネにも、途中で切り上げた仕事があった。けれど、コーヒーカップを手にしたままで自分のデスクには戻らず、何やら消化不良の面持ちでユダに質問した。


「ユダ。訊きたいことがあるんですが」

「なに?」

「さっきはどうして、危険があることを承知でペトロを潜入インフィルトラツィオンさせたんですか?」

「理由は、さっきペトロくんが言ってた通りだよ」


 メールを一件返信したユダは手を止め、ヨハネの方を見た。


「補足すると。ペトロくんはトラウマと戦ったことで免疫が付いて、もしもまた精神的な負荷を掛けられたとしても、ある程度は冷静に処理できる。感情のコントロールができれば、悪魔からの干渉があったとしても堪えられるだろうと、考えたからだよ」

「それはやっぱり、ペトロを信じていたからですか?」

「そうだよ。彼は、自分を縛れるくらい芯が強い。今は、以前とは少し違う信念を持っているし、使徒としても成長してる彼を信頼してるよ」

「それは、私情込みですか?」

「私情はない……とは、言い切れないかもね」


 少し痛い質問をされたユダは、誤魔化しの笑みを見せた。その答えは、ヨハネに少しだけモヤっとさせた。


「それじゃあ……。もしも僕だったら、どうだったんですか」

「ヨハネくんだったら?」

「あとから仲間になったペトロよりも、あなたとともに戦って来た僕の方が使徒として成長できていたら? 今日のように、危険が危惧される潜入インフィルトラツィオンを僕がやると言ったら、あなたは任せてくれますか?」

「もちろん、信じて任せるよ」

「本当ですか?」

「仲間を信じるのは当たり前だよ」

「それは、ペトロと同じ信頼ですか?」


 ヤコブやシモンとは違う信頼を感じて安心したいヨハネは、ユダを信頼する自分の気持ちが変形していると気付きながら訊いた。

 問われたユダは少し困った顔をするが、ヨハネの質問の意図を何となく推し量りつつ、誠意を持って答える。


「私情ありを認めちゃった以上、同じとは言えないかもしれないけど、誰かを信頼する理由を関係性で忖度することはしないよ。私たちは、運命共同体だ。戦闘では、みんな平等に仲間だという意識だよ」

「それじゃあ……。ペトロのように僕が死徒の棺に閉じ込められても、心から心配してくれるんですか」

「心配するに決まってるじゃないか」

「傷付いた心の支えにも、なってくれるんですか」

「そうだね。きみがそれを求めるなら」

「それも、仲間だからですか」

「仲間なら、支え合うのは当然だからね」


 ユダは、微笑みを浮かべて言った。

 その微笑みにも言葉にも配慮が隠れていることは、ヨハネもわかっている。それが仲間の自分に対する気遣いで、彼の優しさだということも。


「納得できる答えだったかな」

「はい。大丈夫です。少しだけ理由が気になっただけなので。今回は、当然の采配だったと思います」


 今までは、自分へ向けられる優しさが仲間の中で一番だと勝手に思っていた。しかし、それが二番目になってしまった悔しさは、ユダの優しさだけでは補えない。




 シモンは帰宅してから、脱力してソファーに腰掛けていた。宿題をやらなければいけなかったが、まだそんな気力はない。

 ヤコブはシモンを気遣い、カフェオレを作って持って来た。


「悪い。ハーブティー切れてた」

「ううん。ありがとう」


 シモンはカップを両手で受け取り、冷ましながら一口飲んだ。ミルクと砂糖の甘さが、今はすごくホッとする。


「寝てなくて大丈夫か?」

「うん。落ち着いてきたから平気」


 ヤコブはシモンの隣に座り、ミルクなしのコーヒーを飲んだ。

 落ち着いてきたと言ったが、シモンの表情はまだ晴れない。使徒の役目を果たせなかったことも悔しいのだろうが、ヤコブにはその原因を引き摺っているように見えた。


「……憑依された人、シモンと似た境遇だったんだろ?」


 ヤコブは、シモンの様子を窺いながら訊いた。シモンの過去は、以前少しだけ聞いて知っていた。


「うん。深層に着いて、落ちてるものを見てすぐにわかった。でも、気持ちも理解できるし、大丈夫だと思ったんだ……。だけど、ものすごく苦しそうで、絶望してて。ボク、なんて言ったらいいのかわからなくなっちゃって」

「同じ境遇だと理解しやすいから、本当に掬ってほしい言葉は手に取るようにわかる。だけどその反面、深く干渉し過ぎて相手の感情に引っ張られやすい。それが、潜入インフィルトラツィオンのリスクだ。だから、今回は失敗じゃない。仕方がなかったんだ」

「仕方がなかった……」


 気にし過ぎるなとヤコブは言うが、シモンはどうしても割り切れなかった。

 シモンももちろん、そのリスクは承知している。けれど、今までに失敗した例がなく、自分と同じ境遇の人の深層に潜入しても、何も心配なくできるんじゃないかと考えたこともある。しかし、その油断で足元を掬われると思い、戦いのたびに気を引き締めた。

 それなのに、失敗したのだ。遭遇する覚悟もできていたはずなのに。


「それで片付けていいのかな」

「俺たちは完璧じゃない。できないことは、できないんだ。だから、後悔したなら次に役立てればいいんだよ」


 ヤコブは、シモンがこれ以上後悔を引きずらないようにと言葉を掛けた。けれど、シモンはやっぱり、今回の失敗は簡単な言葉で片付けられなかった。


「そうかもしれないけど……。でも、使徒がやるべきことを果たせなかったんだよ? 潜入インフィルトラツィオンのリスクはわかってたけど、ボクが未熟で、本当は心の準備ができてなかったからじゃないのかな」

「そんなことねぇよ。今回のは、不測の事態ってやつだったんだって」

「ヤコブはそうやって、ボクを甘やかすよね」


 シモンは少し腹立たしそうに、ヤコブに視線を向けた。


「そんなつもりじゃねぇよ」

「ヤコブだけじゃなくて、みんなだよ。みんな普段から、ボクが一番年下だからって気を遣ってない? 戦闘中も、一番年下のボクを自分たちで支えてあげようって思ってるでしょ。仲間なのに、僕をラインから一歩下げようとしてるでしょ」

「そんなことないって」


 それは気のせいだとヤコブは気持ちを落ち着かせようとするが、湧き出したシモンの不満は収まらない。


「ボクも使徒だよ? みんなと一緒に戦い始めて、最初からずっとヤコブたちと同じラインで戦ってるつもりだった。ボクにだって使徒の誇りがある。なのに、年齢で忖度されるのはすごく傷付く。みんなの背中を見て戦うのは嫌だよ!」

「シモン……」

「ただでさえ学業優先してるせいで満足に戦えてないのに、『学生』と『年下』っていう枷を二つも付けられたら、誇りを持って使徒でいられない。ボクは、みんなの迷惑になりたくない。これじゃあボクは、胸を張って使徒を名乗れないよ。みんなと同じラインに立てないなら、学校も行きたくない!」


 不満をぶちまけたシモンは、プイッとそっぽを向いた。口を尖らせ頬を膨らませて、不貞腐れているようにしか見えない。

 その顔がちょっとかわいらしく思えるヤコブだが、くすぐられる心を抑えて宥めることを優先した。


「ちょっと待て。中退はさすがに考え過ぎだ」

「ボクは十五歳で学生だけど、気持ちはみんなと同じだよ。だから余計な忖度しないで!」


 年上ばかりの中でシモンが必死に頑張って来た姿を、ヤコブはずっと見てきた。もどかしくて、足掻くところも。使徒の使命を優先するために、学校を休学する選択肢も考えていたことも知っている。

 だからヤコブは、真摯な気持ちを向けた。


「シモンの気持ちはわかったよ。俺はシモンのこと、ちゃんと仲間だと思ってる。ユダも、ヨハネも、ペトロも、そう思ってるよ。気を遣ってるように感じてたなら謝る。けど、今回のことは、お前を甘やかしたんじゃない。無理なのは明らかだった」

「そうかもだけど……」

「救えなかったのが、そんなに悔しいのか?」

「こんなこと、初めてだったから……」


 失敗を引き摺るシモンは、今にも悔し涙を浮かべそうだ。立派な責任感を持っていなければ、そんな表情はできない。


「でも、わかってただろ。使徒俺らはヒーロー扱いされてるけど、映画の主人公みたいなヒーローじゃない。中身はその辺の人と大して変わらない、不完全な人間だ。だけどそういう部分があるから、悪魔に憑依された人を救える。お前だって、今までに何人も救ってきただろ」


 シモンはそう言われて、これまで救ってきた人たちのことを思い出す。苦しみが軽減された人からは笑顔で感謝され、周りの人にも称えられた。

 ヤコブたちからも、よくやったと褒められた。活動開始初期は気を遣われたことはたくさんあるけれど、ちゃんと思い返せば、仲間と肩を並べることができていた。


「だからお前も、ちゃんと使徒だ。俺たちと同じ使命を背負った仲間だ。でもだからって、無理な時は無理しなくていい。仲間がいるのは、お互いを補い合うためなんだからな」

「ヤコブ……」

「それに。俺はお前の気持ちを忖度しようなんて、考えたことない。ちゃんと一人の人間として見てる。だから対等に、言いたいことは何でも言えよ。付き合い長くなるんだからさ」


 ヤコブは微笑んで、シモンの頭を撫でた。

 シモンが頑張って背伸びをしようとするのは、年上ばかりの中でも対等でありたいという意志の表れだ。ヤコブもそれはわかっていたが、改めてシモンを仲間の一人として認めてやらなければと感じた。

 シモンも、なんとか中退を思いとどまってくれたようだ。しかし、表情はまだ少し曇っている。


「……じゃあ。お願いがあるんだけど」

「なんだよ」

「抱き締めて」

(うっ……)


 上目遣いでお願いされ、ハンマーで理性の壁を殴られた。


「なんで今」

「ヤコブが抱き締めてくれたら、悔しい気持ちとか治まると思う」


 日頃は軽くハグはするが、過ちを防ぐために熱い抱擁は避けている。上目遣いで甘えられて理性の壁にひびが入ってしまったので、本当は断りたかった。


「…………」


 だが、気持ちが落ち込んでいる恋人を慰めずに、何が彼氏だろうか。ヤコブは甘えに負けて、自分より細いシモンを優しく抱き締めてあげた。


「キスもしてほしい」

「お前……」

「いつものやつでいいから」

「……」


 追加注文に、理性の壁に穴が開きそうになる。

 またもやシモンに負けたヤコブは、つむじが見える頭に唇を落とした。


「気持ち、収まったか?」

「うん。もう少しこのままでいれば」

(くそっ。負けるな、オレの理性!)


 理性の壁が崩壊しないように、ヤコブは懸命に堪えた。

 するとシモンが、ヤコブの胸に顔を埋めながら言う。


「ありがとヤコブ。怒ってごめんね」

「気にしてねぇよ」


 こうして時々甘えてくるシモンは、ヤコブから見ればまだまだ子供だ。そんなことを正直に言ったら怒られそうなので、絶対に言わないようにしている。




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