「さて。返信しなきゃならないメールを先に片付けちゃおうかな」
事務所に帰って来たユダはデスクに座り、仕事を再開した。
ヨハネは給仕室でコーヒーを淹れ、二人分のカップを持って来て一つをユダに渡した。
「コーヒーどうぞ」
「ありがとう。ヨハネくん」
ヨハネにも途中で切り上げた仕事があった。けれど自分のデスクには戻らず、何やら消化不良の面持ちでコーヒーカップを手に立ったままだ。
「ユダ。訊きたいことがあるんですが」
「なに?」
「さっきはどうして、危険があることを承知でペトロを
「理由は、さっきペトロくんが言ってた通りだよ」
メールを一件返信したユダは手を止め、ヨハネの方を見た。
「補足すると。ペトロくんはトラウマと戦ったことで免疫が付いて、もしもまた精神的な負荷を掛けられたとしても冷静に対応できる。感情のコントロールができれば、悪魔からの干渉があったとしても堪えられる。そう考えたからだよ」
「それはやっぱり、ペトロを信じていたからですか?」
「そうだよ。彼は自分を縛れるくらい芯が強い。今は以前とは少し違う信念を持っているし、使徒としても成長してる彼を信頼してるよ」
「それは、私情込みですか?」
「私情はない……とは言い切れないかもね」
少し痛い質問をされたユダは、誤魔化しの笑みを見せた。その答えは、ヨハネに少しだけモヤっとさせた。
「それじゃあ……。もしも僕だったら、どうだったんですか」
「ヨハネくんだったら?」
「あとから仲間になったペトロよりも、あなたとともに戦って来た僕の方が使徒として成長できていたら? 今日のように危険が危惧される深層潜入を僕がやると言ったら、あなたは任せてくれますか?」
「もちろん。ヨハネくんは仲間なんだから信じて任せるよ」
「本当ですか?」
「仲間を信じるのは当たり前だよ」
「それは、ペトロと同じ信頼ですか?」
ユダからの信頼を信じたいヨハネは、ユダを信じたい自分の気持ちが変形していると気付きながら訊く。
問われたユダは少し困った顔をするが、ヨハネの質問の意図を何となく推し量りつつ誠意を持って答える。
「私情ありを認めちゃった以上、同じとは言えないかもしれないけど、誰かを信頼する理由を関係性で忖度することはしないよ。私たちは運命共同体だ。戦闘では、みんな平等に仲間だという意識だよ」
「それじゃあ……。ペトロのように僕が死徒の棺に閉じ込められても、心から心配してくれるんですか」
「心配するに決まってるじゃないか」
「傷付いた心の支えにも、なってくれるんですか」
「そうだね。きみがそれを求めるなら」
「それも、仲間だからですか?」
「仲間なら、支え合うのは当然だからね」
ユダは微笑んで言った。
その微笑みにも言葉にも配慮が隠れていることは、ヨハネもわかっている。それが仲間の自分に対する気遣いで、彼の優しさだということも。
「納得できる答えだったかな」
「はい。大丈夫です。少しだけ理由が気になっただけなので。今回のは当然の采配だったと思います」
今までは、自分へ向けられる優しさが仲間の中で一番だと勝手に思っていた。しかし、それが二番目になってしまった悔しさは、ユダの優しさだけでは補えない。
シモンは帰宅してから、脱力してソファーに腰掛けていた。宿題をやらなければいけなかったが、まだそんな気力はない。
ヤコブはシモンを気遣い、カフェオレを作って持って来た。
「悪い。ハーブティー切れてた」
「ううん。ありがとう」
シモンはカップを両手で受け取り、冷ましながら一口飲んだ。ミルクと砂糖の甘さが、今はすごくホッとする。
「寝てなくて大丈夫か?」
「うん。落ち着いてきたから平気」
ヤコブはシモンの隣に座り、ミルクなしのコーヒーを飲んだ。
落ち着いてきたと言ったが、シモンの表情はまだ晴れない。使徒の役目を果たせなかったことも悔しいのだろうが、ヤコブにはその原因を引き摺っているように見えた。
「……憑依された人、シモンと似た境遇だったんだろ?」
ヤコブはシモンの様子を窺いながら訊いた。シモンの過去は、以前少しだけ聞いて知っていた。
「うん。深層に着いて、落ちてるものを見てすぐにわかった。でも、気持ちも理解できるし、大丈夫だと思ったんだ……。だけど、ものすごく苦しそうで、絶望してて。ボク、なんて言ったらいいのかわからなくなっちゃって」
「同じ境遇だと理解しやすいから、本当に掬ってほしい言葉は手に取るようにわかる。だけどその反面、深く干渉し過ぎて相手の感情に引っ張られやすい。それが
「仕方がなかった……」
気にし過ぎるなとヤコブは言うが、シモンはどうしても割り切れなかった。
シモンももちろん、そのリスクは承知している。けれど今までに失敗した例がなく、自分と同じ境遇の人に深層潜入しても何も心配なくできるんじゃないかと考えたこともある。しかしその油断で足元を掬われると思い、戦いのたびに気を引き締めた。
それなのに失敗したのだ。遭遇する覚悟もできていたはずなのに。
「それで片付けていいのかな」
「俺たちは完璧じゃない。できないことは、できないんだ。だから、後悔したなら次に役立てればいいじゃん」
ヤコブは、シモンがこれ以上後悔を引きずらないようにと言葉を掛けた。けれどやっぱり、今回の失敗は簡単な言葉で片付けられなかった。
「そうかもしれないけど……。でも、使徒がやるべきことを果たせなかったんだよ? 潜入のリスクはわかってたけど、ボクが未熟で本当は心の準備ができてなかったからじゃないのかな」
「そんなことねぇよ。今回のは不測の事態ってやつだったんだって」
「ヤコブはそうやってボクを甘やかすよね」
シモンは少し腹立たしそうに言って、視線をヤコブに向けた。
「そんなつもりねぇよ」
「ヤコブだけじゃなくて、みんなだよ。みんな普段から、ボクが一番年下だからって気を遣ってない? 一番年下だから優しくしてあげよう、自分たちで支えてあげようって、戦闘中も気を遣ってるよ。だから時々、仲間なのに同じラインに立ってない気がする」
「そんなことねぇよ」
ヤコブは、それは気のせいだと気持ちを落ち着かせようとするが、シモンの不満は収まらない。
「ボクも使徒だよ? みんなと一緒に戦い始めたから、最初からずっとヤコブたちと同じ使徒だって思ってた。だから年齢で忖度されるのはすごく傷付く。ボクだけ何歩も後ろは嫌だよ!」
「シモン……」
「ただでさえ学業優先してるせいで満足に戦えてないのに、『学生』って肩書きの上に『年下』っていう枷まで付けられたら、ボクは誇りを持って使徒ができない。ボクはみんなの迷惑になりたくない。これじゃあボクは、胸を張って使徒を名乗れないよ。みんなと同じラインに立てないなら、学校も行きたくない!」
不満をぶちまけたシモンはプイッとそっぽを向いた。口を尖らせ頬を膨らませて、不貞腐れているようにしか見えない。
その顔がかわいらしく思えるヤコブだが、宥めることを優先した。
「ちょっと待て。それはさすがに考え過ぎだ」
「ボクは十五歳で学生だけど、気持ちはみんなと同じだよ。だから余計な忖度しないで」
年上ばかりの中でシモンが必死に頑張って来た姿を、ヤコブはずっと見てきた。もどかしくて足掻くところも。だからヤコブは、真摯な気持ちを向けた。
「シモンの気持ちはわかったよ。俺はシモンのこと、ちゃんと仲間だと思ってる。ユダもヨハネもペトロもそう思ってるよ。気を遣ってるように感じてたことも謝るけど、今回のことはお前を甘やかそうとした訳じゃない。無理なのは明らかだったし」
「そうかもだけど……」
「救えなかったのが、そんなに悔しいのか?」
「こんなこと、初めてだったから……」
「でも、わかってただろ。
シモンはそう言われて、これまで救ってきた人たちのことを思い出す。
苦しみが軽減された人からは笑顔で感謝され、ヤコブからもよくやったと褒められた。思い返せば、仲間と確かに肩を並べていた。
「だからお前も、ちゃんと使徒だ。俺たちと同じ使命を背負った仲間だ。でもだからって、無理な時は無理しなくていい。仲間がいるのは、お互いを補い合うためなんだからな」
「ヤコブ……」
「それに。俺はお前の気持ちを忖度しようなんて考えたことない。ちゃんと一人の人間として見てる。だから対等に、言いたいことは何でも言えよ。付き合い長くなるんだからさ」
ヤコブは微笑んでシモンの頭を撫でた。
シモンが頑張って背伸びをしようとするのは、年上ばかりの中でも対等でありたいという意志の表れだ。ヤコブもそれはわかっていたが、配慮に欠けていたことに気付かされた。
シモンも何とか中退を思いとどまってくれたようだ。しかし、表情はまだ少し曇っている。
「……じゃあ。お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「抱き締めて」
(うっ……)
上目遣いで言われ、ハンマーで理性の壁を殴られた。
「なんで今」
「ヤコブが抱き締めてくれたら、悔しい気持ちとか治まると思う」
日頃は軽くハグはするが、過ちを防ぐために熱い抱擁は避けている。上目遣いで甘えられて理性の壁にひびが入ってしまったので、本当は断りたかった。
「…………」
だが、気持ちが落ち込んでいる恋人を慰めずに何が彼氏だろうか。
ヤコブは甘えに負けて、自分より細いシモンを優しく抱き締めてあげた。
「キスもしてほしい」
「お前……」
「いつものやつでいいから」
「……」
予想外の追加注文に理性の壁に穴が開きそうになる。
またもやシモンに負けたヤコブは、つむじが見える頭にキスをした。
「気持ち、収まったか?」
「うん。もう少しこのままでいれば」
(くそっ。負けるな、オレの理性!)
壁が崩壊しないようにヤコブは懸命に堪えた。
するとシモンが、ヤコブの胸に顔を埋めながら言う。
「ありがとヤコブ。怒ってごめんね」
「気にしてねぇよ」
こうして時々甘えてくるシモンは、ヤコブから見ればまだまだ子供だ。そんなことを正直に言ったら怒られそうなので、絶対に言わないようにしている。