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第15話 昨日の枷



 夕方。いつもは全員揃って囲む食卓に、シモンとヤコブの姿はなかった。

 少し寂しい夕食が終わる頃、ヤコブだけがリビングルームに顔を出した。


「あ。ヤコブ」

「悪いな。一緒に飯食えなくて」

「それはいいけど。シモンは?」

「顔色も良くなってきたから、心配ない。でも、あんまり食欲ないみたいでさ。軽く食えるものない?」

「カルトッフェル・ズッペがあるよ」


 ヤコブは、ユダからじゃがいものスープを二皿受け取り、一人分のブロートももらって部屋に戻った。そして、シモンと二人で窓際のテーブルに座って食べた。


「おいしい」

「今日は、ユダが食事当番だったからな」

「ユダが作るご飯て、ハズレがないよね」

「顔良くて性格良くて家事もできるって。マジであいつ、パーフェクト紳士かよ」

「本当だよね」


 シモンの気分もだいぶよくなったようで、ヤコブとの会話を楽しみながら一皿のスープを食べ切った。

 ヤコブは、食後のコーヒーを淹れた。シモンのカップにはミルクを入れ、今日は砂糖の代わりにハチミツを溶かしてみた。


「体調、大丈夫そうか?」

「うん……。でも、想像してたよりヤバかった。あれを二度も経験したペトロ、すごいよ」

「てことはやっぱり、トラウマを見せられたのか」

「うん。結構リアルだったよ」


 シモンは、ミルクとハチミツ入りのコーヒーを飲んだ。いつもと違う甘さが、少しほっとする。


「シモンは昔、戦争を経験したんだよな。六歳のころって言ってたっけ?」

「うん」


 ヤコブは、棺の中でどんなトラウマを体験させられたのか聞きたかった。けれど、それは戦争なのは明らかなので、簡単に口を開くことができない。

 それを感じてか、シモンからきっかけが作られた。


「ヤコブには、どこまで話してたっけ」

「両親はそれぞれ違う国の出身で、シモンが生まれたのは中東の国だよな。その国で六歳のころに戦争に巻き込まれて、停戦後に移住して来たんだよな」

「うん、そう。停戦までは半年くらいで、始まってからはずっと地獄の日々だった。というか。地獄だった」


 シモンは、表情に暗い影を落とした。


「思い出すのが辛いなら、無理に話さなくていいぞ」


 語られる境遇に耳を傾けようと思ったが、表情に落とされた闇を見てヤコブはためらった。けれど、シモンは首を横に振る。


「きっかけがあれば簡単に思い出せるくらい、記憶に深く刻まれてるから。逃げられないんだよ」


 逃げられない。銃弾や砲弾が飛び交う街の中を逃げ回っても、どこにも行けなかったように。

 シモンは一度、深く呼吸をした。息が僅かに震えているのが、ヤコブにも聞こえた。


「毎日毎日、朝も夜も関係なく爆音が轟いて。安眠なんてできなくて。逃げる場所逃げる場所が戦場になって、着の身着のまま気を休められる場所を求めて。だけど、そんな場所はどこにもなくて。でも、逃げないと死んじゃうから、必死に逃げた」


 最初は、何が起きているのかすらわからなかった。最小限の荷物だけを持ち、母親に手を引っ張られて家を飛び出し、父親がどこかに行って三日ほど経ってから日常が戻らなくなったんだと気付いた。


「戦争に巻き込まれてるなんて、あの時はわからなかった。でも、遠くから飛んで来るミサイルや砲弾が街を壊して、たくさんの人が怪我して、死んだりして、わからないなりに“これが戦争なんだ”って知った。地獄って、きっとこういう場所なんだって……」


 シモンは目に涙を浮かべる。ヤコブは、その手を握った。


「武装する大人たちが全員、悪魔に見えた。守ってくれてる人も本当は信じなきゃダメなのに、純粋にそう思えなくて。お父さんも戦闘に参加して、守ってくれてたのに……」

「親父さんは?」

「戦死した。お母さんは精神的に重い病を罹って、入院してた。今は、叔母さんのとこにいる」


 シモンは頼るように、ヤコブの手を強く握り返した。


「いつ、ボクも死んじゃうんだろうって、すごく怖かった。隣に住んでた親切なおばさんも、友達も、日が経つごとにいなくなっていって。避難してた場所も、人がいるのに攻撃されて。ボクとお母さんが避難してた学校にも、ミサイルが落ちて来て。怪我人もいたのに、目の前でたくさん……」

「シモン……」

「なんでこんなことするんだろう。ボクたち何もしてないのに。同じ人間なのになんで殺すのって、ずっとわからなくて」

「もういいよ、シモン」

「早く寝なさいってお母さんに言われても、言うこと聞かなかったせいかな。嫌いな食べ物もちゃんと食べなさいってお父さんに言われても、残しちゃったせいかな。だから罰が当たったのかなって」


 シモンは、恐怖と絶望が流れ出るままに吐露した。繋いだ手から痛みが流れ込んできて、ヤコブは堪らず抱き締めた。シモンのブラウン目は潤み、涙が溢れていた。


「何もかもが嫌になった。生きてる意味がわからなくなって、明日なんか来ないんじゃないかって、希望が持てなくなった。でも、死んだ人がいるから絶望なんてしちゃダメで。死ぬのも嫌で。でも、辛いのも嫌で、死ねばそういうのもなくなるけど、死にたくなくて……」

「…………」


 ヤコブは、掛ける言葉が見つからなかった。

 ヤコブにもトラウマはあるが、シモンほど凄惨な経験はしておらず、その苦しみの全てをわかってはやれなかった。ただトラウマに苦しむシモンを抱き締め、気持ちを緩和させてやることしかできないことが、歯痒い。


「ボクは、死が怖い。自分が死ぬのも。誰かが死ぬのも。でも、その恐怖からは逃げられない。それを、今日知った。きっと、これ以上逃げられないんだ。死徒がまた来るなら、ボクは戦わなきゃならない。タデウスじゃなくて、自分自身と」

「シモン……」

「ボクの中で、あの戦争はまだ終わってない」


 本当は、向き合うことは避けたい。だが、引き出されたということは戦えという意味なのだ。そう悟ったシモンは溜まった涙を押し留め、自分がすべきことを見据えて顔を上げた。

 しかしヤコブは、憂患の表情を浮べる。


「無理するな、シモン。次はきっと、完全なトラウマを体験させられる。やつの術が半端な状態で倒れそうだったのに、それに堪えられるのか」

「堪えるよ。そうしなきゃボクは、死徒とも自分とも戦うことができなくなるから」


 決意を言葉にしたその瞳には、僅かに恐怖が揺れている。細い身体で、一人では抱え切れないものを連れて行こうとしている。

 だが、弱々しく見えても、強い意志で地を踏み締めようとしていた。頑張って背伸びをしようとするのではなく、明日の自分のために背筋を伸ばそうとしている。

 シモンが苦しむ姿は、ヤコブは本当は見たくない。けれど、その強い決意に、不思議と自分の方が支えられている気持ちになった。その決意を、シモンごと守りたかった。


「……わかった。シモンが覚悟を持って過去と戦うなら、俺が絶対フォローする……。と言っても、実際には何もできないかもしれない。けど、どんなに辛くて苦しい場面に出会っても、必ず俺を思い出せ。俺はお前のことを思ってる。どんな状況でも側にいる。絶対に、シモンを寂しくさせない」

「ヤコブ……」


 ヤコブは、シモンの頭をわしゃわしゃっと撫で、微笑む。


「シモンなら大丈夫だ。俺は、お前を信じてる」

「うん。ありがと。ヤコブ」


 二人は、強く手を握った。

 シモンはこれからも、ヤコブの隣にいたかった。この繋がれた手があれば、また倒れてもきっと立ち上がれると信じた。




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