夕方。いつもは全員揃って囲む食卓に、シモンとヤコブの姿はなかった。
食事が終わる頃、ヤコブだけがリビングルームに顔を出した。
「あ。ヤコブ」
「悪いな。一緒に飯食えなくて」
「それはいいけど。シモンは?」
「顔色も良くなってきたから心配ない。でもあんまり食欲ないみたいでさ。軽く食えるものない?」
「カルトッフェル・ズッペがあるよ」
ユダからじゃがいものスープを二皿受け取り、一人分のヴァイツェンブロートももらって部屋に戻ったヤコブは、シモンと二人で窓際のテーブルに座って食べた。
「おいしい」
「今日はユダが食事当番だったからな」
「ユダが作るご飯て、ハズレがないよね」
「顔良くて性格良くて家事もできるって。マジであいつパーフェクト紳士かよ」
「本当だよねー」
シモンの気分もだいぶよくなったようで、ヤコブとの会話を楽しみながら一皿食べ切った。
「体調、大丈夫そうか?」
「うん……。でも、想像してたよりヤバかった。あれを二度も経験したペトロ、すごいよ」
「てことは。やっぱりトラウマを見せられたのか」
「うん。結構リアルだったよ」
話を聞く前に、ヤコブは食後のコーヒーを淹れた。今日は、砂糖の代わりにハチミツを溶かしてみた。
「シモンは昔、戦争を経験したんだよな。六歳のころって言ってたっけ?」
「うん」
シモンは、ミルクとハチミツ入りのコーヒーを飲んだ。いつもと違う甘さが、少しほっとする。
「ヤコブには、どこまで話してたっけ」
「両親はそれぞれ違う国の出身で、シモンが生まれたのは中東の国だよな。その国で六歳のころに戦争に巻き込まれて、停戦後に移住して来たんだよな」
「うん、そう。停戦までは半年くらいで、始まってからはずっと地獄の日々だった。というか。地獄だった」
シモンは表情に暗い影を落とした。
「思い出すの辛いよな。ごめん」
シモンの境遇を聞こうと思ったヤコブだったが、その面持ちを見てためらった。けれど、シモンは首を横に振る。
「きっかけがあれば簡単に思い出せるくらい、記憶に深く刻まれてるから。逃げられないんだよ」
逃げられない。銃弾や砲弾が飛び交う街の中を逃げ回っても、どこにも行けなかったように。
シモンは深く呼吸をした。息が僅かに震える。
「毎日毎日、朝も夜も関係なく爆音が轟いて。安眠なんてできなくて。逃げる場所逃げる場所が戦場になって、着の身着のまま気を休められる場所を求めて。だけど、そんな場所はどこにもなくて。でも逃げないと死んじゃうから、必死に逃げた」
最初は、何が起きているのかすらわからなかった。母親に手を引っ張られ最小限の荷物だけを持って家を飛び出し、父親がどこかに行って三日ほど経ってから日常が戻らなくなったんだと気付いた。
「紛争に巻き込まれてるなんて、あの時はわからなかった。でも、遠くから飛んで来るミサイルや砲弾が街を壊して、たくさんの人が怪我して、死んだりして、わからないなりに“これが戦争なんだ”って知った。地獄って、きっとこういう場所なんだって……」
ヤコブは、目に涙を浮かべるシモンの手を握った。
「武装する大人たちが全員、悪魔に見えた。守ってくれてる人も本当は信じなきゃダメなのに、純粋にそう思えなくて。お父さんも戦闘に参加して、守ってくれてたのに……」
「親父さんは?」
「戦死した。お母さんは精神的に重い病を罹って、入院してた。今は叔母さんのとこにいる」
シモンは、ヤコブの手を強く握り返した。
「いつ自分も死んじゃうんだろうって、すごく怖かった。隣に住んでた親切なおばさんも、友達も、日が経つごとにいなくなっていって。避難してた場所も、人がいるのに攻撃されて。ボクとお母さんが避難してた学校にも、ミサイルが落ちて来て。怪我人もいたのに、目の前でたくさん……」
「シモン……」
「なんでこんなことするんだろう。ボクたち何もしてないのに。同じ人間なのになんで殺すのって、ずっとわからなくて」
「もういいよ、シモン」
「早く寝なさいってお母さんに言われても、言うこと聞かなかったせいかな。嫌いな食べ物もちゃんと食べなさいってお父さんに言われても、残しちゃったせいかな。だから罰が当たったのかなって」
繋いだ手から痛みが流れ込み、ヤコブは堪らずシモンを抱き締めた。潤むシモンの茶色い目には、涙が溢れていた。
「何もかもが嫌になった。生きてる意味がわからなくなって、明日なんか来ないんじゃないかって、希望が持てなくなった。でも、死んだ人がいるから絶望なんてしちゃダメで。死ぬのも嫌で。でも辛いのも嫌で、死ねばそういうのもなくなるけど、死にたくなくて……」
「…………」
ヤコブは、掛ける言葉が見つからなかった。
ヤコブにもトラウマはあるがシモンほど凄惨な経験はしておらず、その苦しみの全てをわかってはやれなかった。ただトラウマに苦しむシモンを抱き締め、気持ちを緩和させてやることしかできない。
「ボクは、死が怖い。自分が死ぬのも。誰かが死ぬのも。でも、その恐怖からは逃げられない。それを、今日知った。きっと、これ以上逃げられないんだ。死徒が……タデウスがまた来るなら、ボクは戦わなきゃならない。タデウスじゃなくて、自分自身と」
「シモン……」
「ボクの中で、あの戦争はまだ終わってない」
本当は向き合うことは避けたい。だが、引き出されたということは戦えという意味なのだ。そう悟ったシモンは溜まった涙を押し留め、自分がすべきことを見据えた。
シモンの決意を聞いたヤコブは、不思議と自分の方が支えられている気持ちになった。弱々しく見えてもその意志は地を踏み締めようとしていて、頑張って背伸びをしようとするのではなく、明日の自分のために背筋を伸ばそうとしていた。
ヤコブはその気持ちを、シモンごと守りたかった。
「シモンが覚悟を持って過去と戦うなら、俺が全面的に応援する。と言っても、実際には何もできないかもしれない。けど、どんなに辛くて苦しい場面に出会っても、必ず俺を思い出せ。俺はお前のことを想ってる。いつも側にいる。絶対に、シモンを寂しくさせない」
「ヤコブ……」
ヤコブはシモンの頭をわしゃわしゃっと撫でた。
「お前なら大丈夫だ。だから頑張れ、シモン」
「うん」