リビングルームの掃除当番のペトロは、ユダと一緒に掃除をしていた。各自の部屋も自分たちで掃除するが、共同スペースのこの部屋は二人一組の当番制を取っている。
ユダは水回りを掃除し、ペトロはフロア周りに掃除機をかけたりしている。
(……あ。悪魔の気配が消えた。無事に終わったみたいだな)
ヨハネたち三人は、悪魔を祓いに行っていた。シモンは留守番にさせようとしたが、本人は行くことを頑として曲げなかったので、少し心配していた。
「というか。リビングルームの掃除、広くてマジで大変……」
(二部屋ぶんをリノベーションして繋げたって言ってたもんな)
「母さんは毎日こんな大変だったのか……。もっと手伝えればよかったな」
掃除機をかけ、窓を拭き、一時間かけて掃除が終わった。
「終わったー! あとやり残したことは……。あ。多肉植物戻さなきゃ」
ペトロは、棚からテーブルに移動させたままだった多肉植物のポットを持った。
「水回りは終わったよ」
掃除フィニッシュ間際、トイレとシャワールームの掃除を終えたユダが戻って来た。
「こっちも終わったとこ」
「じゃあ、コーヒーでも淹れて一息つこうか」
「賛成ー……っとお!?」
ペトロは端がめくれていたラグに躓き、転倒しそうになる。
「ペトロくん!」
ユダは咄嗟に手を伸ばし、ペトロの身体を支えた。
「っぶなかったぁー……」
ヒヤッとしたペトロは胸を撫で下ろした。持っていた多肉植物のポットも無事だ。これを落としていたら、掃除のやり直しになるところだった。
「危うくローテーブルに顔をぶつけるところだったね。大丈夫?」
「うん。ありがと……」
顔を上げるとユダの顔がすぐ側にあり、ペトロの心臓が高鳴った。ふいにバスルームで起きた事故の記憶が甦って、赤面して顔を逸らす。
「ポットも無事でよかった」
「このポット、高いのか?」
「ううん。過去にヤコブくんもシモンくんも落として割ってて、ヨハネくんに怒られてたんだ」
「ヨハネのこだわりなのか?」
「この子にはこのポットがいいって、選んでるみたいだから」
(この子……)
ペトロは、ヨハネが店で選んでいるところを想像した。独り言を呟いて店員に気持ち悪がられていないかと、ちょっとだけ心配になった。
「ペトロくんて、掃除中ドジするよね。前にも掃除道具踏んで転んだし。掃除機で家具に傷付けちゃうし」
「あんまり言うなよ」
指摘されたくないペトロは、ばつが悪そうにする。
「アンティーク味が増したと思えば大丈夫だよ。家具はだいたい歴代住人の置土産なんだし」
「注意してるつもりなんだけど、なんでか何かしらやらかすんだよなぁ。昔からずっと」
「そんなに気にすることでもないよ。人には得意不得意があるんだし」
「でもさ。ユダがそつなくこなしてるの、ちょっと羨ましい」
自分は家事が不得意なんだろうと思うが、家事全般を得意とするユダと比べるとどうしてそんなふうに上手くできないんだろうと、ペトロは少し落ち込む。
「それがきみらしさだよ。頑張ろうとしてドジするのも、かわいいし。そんなきみを見てると癒やされる」
ユダは微笑んで全力フォローした。ところが、ペトロの表情は不満げだ。
「肯定してくれることには文句は言わないけど、かわいいとか言われても嬉しくないからな?」
「あれ。そうだった? 照れてるのは、てっきり嬉しいからだと」
「散々性別間違われてきたのに、そんなこと言われても喜ぶ訳ないだろ。自分が言われるの想像してみろよ。オレの気持ちわかるから」
ペトロは、一度同じ屈辱を味わってみろと言う。
「じゃあ、ペトロくんが言ってみて」
「ユダってかわいいよな」
心にも思っていないことだったので、ペトロは無表情と無感情で言った。
面と向かって言われたユダは一度「かわいい」を噛み締めると、フッと笑いを漏らした。
「うん。確かに、嬉しくないね」
そして、顔を綻ばせて笑った。
笑うユダの顔を見た瞬間、ペトロは何かが輝いた気がした。でもそれは、なぜか切なかった。
「ペトロ。まだいる?」
そこへ、帰って来たシモンが顔を出した。
「シモン、お疲れ。大丈夫だったか?」
「うん。二人が気を遣ってくれて、防御に徹してたから」
「ペトロくんに何か用事?」
「ちょっと話したいことがあって……。というか、二人とも。多肉植物持って向かい合って何してるの?」
「二人でこの子に名前を付けようかって話をね」
「そんな話してないだろ」
若干散らかっていた掃除道具を片付け、ユダが淹れたコーヒーをお供に三人はテーブルに座った。
「それで。話したいことって?」
「トラウマのことだよ。ボクもちゃんと向き合えるようになりたくて、免疫付けたペトロにどうしたらそうできるのか訊きたいんだ」
「でも、参考になるかは……。オレとシモンのトラウマは、たぶん違うだろうし」
「だけど、ボクも強くなりたいんだ。これからもみんなと一緒に戦いたいから」
傷を抱えた状況が違えば克服手段も変わってくるだろうが、シモンは真剣な眼差しで聞きたがっている。
その姿勢に一人の人間として背中を押してやりたいと思えたペトロは、僅かでもシモンの力になれればと話すことにした。
「ペトロは前に、心構えが変わったって言ってたよね」
「オレは、思い込みが修正されたことと、自分への呪いに気付いたから一歩が踏み出せたんだ。だけど、自分を縛っていたものを全部取り払った訳じゃない。吹っ切れた考え方ができるようになったんだ」
「もういいや! ってなったの?」
「そんな投げやりな感じじゃないけど。でも、第三者からの言葉がかなり助けになった。自分のことは自分が一番わかってるつもりでも、周りは自分とは違う視点だから、自分が見えていない自分に気付かされるんだ」
「第三者って、ユダのこと?」
訊かれたペトロは隣のユダをチラッと見て、「まぁ……。一応、その一人」心恥ずかしくなりながら答えた。
「とにかく。周りから掛けられた言葉のおかげで、オレは少し心を自由にすることができたんだ。オレには家族や自分への誓いがあって、それが自分から自由を奪う呪いになってた。まだその誓いを捨てることはできてないけど、今はそれが原動力になってる」
「呪いなのに?」
「呪いだったものが、お呪いになった感じかな。お守りみたいな。だから今は前ほど苦しくないし、選び取れなかったものをほしがってもいいのかなって思い始めてる」
「でもさ。ペトロが変われたのは、死徒の棺の中だよね。あの状況でどうやって……」
変われる要素がないだろうと、不可解に思うシモンは訊いた。
「確かにあの状況だと、絶望しか抱けなくなる。自分一人しかいなくて、孤独で、怖くても誰にも縋れない。でも、本当は一人じゃないんだ。心を抉られて潰されそうになっても、誰かが優しく強く心を包んでくれてるのを感じる」
ペトロはテーブルの下で右腕に触れた。
「その存在に支えられてるから、孤独でも一人じゃないよ」
ペトロのその言葉で、シモンはヤコブが言ってくれたことを思い出す。
────俺はお前のことを想ってる。いつも側にいる。絶対に、シモンを寂しくさせない。
その言葉を聞いただけで、すごく心強く思えた。だから、ペトロが言ったことがわかる。誰かの支えが自分の助けになり、その人の存在を感じるだけでいとも簡単に勇気を抱けてしまうことが。
「ボクね、昔、戦争を経験してそれがトラウマなんだ。こうして思い出したってことはいつまでも逃げてちゃダメなんだって思って、次があるなら逃げずに戦おうって覚悟してる。だけど、本心はやっぱり怖がってて、負けたらどうしようって少し不安なんだ。でも、希望があるなら克服したい。これからも使徒を続けたいから」
トラウマを明かしたそのシモンの告白に、ペトロも真摯に答えを返す。
「それなら、一番は怖がらないことだと思う。もう既に怖い思いしてるのにそんなこと言われても無理だ、って思うよな。でもやっぱり、それが一番大事なのかもしれない。だって、自分のことだから。自分にしかわからない苦しみで、自分じゃないとそれをどうしたいのかわからない。このままの状態で付き合っていくにしても、克服するにしても、自分が生きてきた足跡の一つだから」
(足跡……)
忘れたくて、燃やして灰にして土に埋めたとしても、その上を歩く。空に撒いたとしても、灰が溶けた空気を吸って生きていく。心臓を流れる血液と一緒で、自分をつくるものの一つなのだ。
だから逃げられない。けれど、苦しみじゃない意味もある。
「あくまでもオレが感じたことだから、トラウマが違うシモンには通用しないかもしれないけど」
「ううん。話聞けてよかった。もしかしたら逃げ出したくなっちゃうかもしれないって不安だったけど、勇気出すよ」
(ここで恐怖に負けて逃げたら、きっと一生後悔する。背筋を伸ばしてヤコブの隣にいられない。ボクは見つけたい。未来の希望を)
現在は過去の延長ではなく、未来も現在の延長ではない。それぞれが違って、独立している。そして、それぞれを繋いでいるのは自分で、遮断するのも自分だ。
シモンは、遮断していた過去と未来を繋ぎたいと思った。