「────ン……。きて……。シモン!」
「ん……」
呼ばれて目を開いたシモンは、ゴツゴツとした灰色の地面に俯せになっていた。
「大丈夫? 早く起きて! 逃げるのよ!」
シモンは母親に手を引かれて走り出した。
膝や腕は擦り傷だらけだ。周りの人も必死の形相で逃げている。
辺りは瓦礫と化し、砂埃と煙が漂い、焼け焦げたような匂いと火薬の匂いが混ざってする。太陽が隠れ鈍色の空になっているせいか、汗が体温を奪っているせいかわからないが、いつもの暑さは感じず少し涼しかった。
砲弾や銃撃の音が、数百メール離れたところから響いてくる。その銃撃音は、逃げるシモンたちの後ろからも聞こえてきた。
振り向くと、ライフル銃を持った味方の戦闘員と反勢力の戦闘員が銃撃戦をしている。味方は逃げる市民の壁になっていたが、敵が撃った弾が一般市民を撃ち抜いた。血飛沫が悲傷の世界に最後の温かみを散らした。
味方は応戦するが数が足りず、一般市民の犠牲が一人、また一人と増えていく。
「あっ。おばさん!」
シモンは後方に、いつも声を掛けてくれる隣に住むおばさんを見つけた。息子と一緒に逃げている彼女に危険がすぐそこまで迫っていることを伝えたくて、「早く!」と叫ぼうとした。
しかし。銃弾が足に当たり、二発目が背中に命中して倒れた。
「……っ!」
一緒にいた息子も頭部に食らい、寄り添うように倒れた。二人とも、動くことはなかった。
シモンは母親とともに、どうにか避難所になっている別の学校に到着した。他の避難所からも逃げて来た人でいっぱいで、ここでも怪我人が応急処置を受けていた。
じわりと暑い中でも我慢して、人々は身を寄せ合う。しかし一時も気を緩めることは許されず、もう二週間以上安眠できていない。日常は壊され、心身の健康を脅かされ、地獄で生きているような日々に涙も枯れた。
シモンも母親に寄り添われながら、教室の片隅に身を縮めた。その幼い目に焼き付いた映像が、どうしても消えなかった。
(おばさんが撃たれた。おばさんの他にも、知らない人が何人も血を流して倒れてた)
シモンは怯えた目で母親に尋ねる。
「お母さん。何でこんなことになってるの?」
「男たちが、反勢力と戦争を始めたからよ」
「戦争……。お父さんも、戦争に行ったんだよね?」
「そうよ。でも、悪いことじゃないの。私たちを守るためなのよ」
「戦争は悪いことなんだよね。でも守るのが理由だったら、正しいことなの?」
「ええ。守ることは正義だもの。悪いのは、先に攻撃して来た敵の方なのよ」
「でも。おばさん死んじゃったよ? この戦争で、たくさんの人が死んだよ? それでも、守る戦争は正しいの?」
「犠牲が出るのは、諦めなきゃいけないの。それが戦争なんだから」
母親はシモンの肩を抱いた。
しばらくして、誰かがラジオが付けた。避難所となっている幼稚園のすぐ近くで戦闘していると、アナウンスされる。
安全だと思っていた地域に、今朝になって反勢力が攻めて来たのだ。そこには一時避難をしている園児とその保護者だけで、偉大なる指導者も危険な思想を持った者もいないのに。
「子供たちは!?」
その幼稚園の教員をしているシモンの母親は、食い入るように聴き入る。
別の避難所へ逃げるために、建物から次々と人が出て来ているようだった。しかし、その最中にも拘わらず銃声や爆音が絶え間なく聴こえる。
その時。一層大きな爆音がラジオから放たれた。それは、合計三回聴こえた。聴衆から悲鳴が上がり、耳を塞ぐ人も少なくなかった。
アナウンサーは伝える。
「反勢力が放った砲弾が幼稚園の建物に命中した! なんてことだ。まだ多くの園児が残されていたぞ。やつらは悪魔か!」
仕事を忘れ本心が出てしまうほど、惨い現場になってしまったのだろう。
アナウンサーは重ねて言う。
「人の血が流れていない者のせいで、罪のない多くの命が奪われた。これはもう虐殺だ」
聴いていた人々は顔を覆い、悲しみに嘆き、啜り泣き、誰かが「神よ」と呟いた。
新たな恐怖と絶望を生むには十分だった。
「あああああ……っ!」
シモンの母親は金切り声を上げた。愛しい幼子たちを失った絶望感に襲われ、床に伏せた。
「お母さん」
シモンは、未熟な手で慟哭する母親に寄り添った。
(犠牲が出るのは、諦めなきゃならない。これが、戦争なんだ……)
シモンも恐怖でどうにかなりそうだった。
いつ自分も死んでしまうかわからない、命が安く扱われる地獄のような世界。逃げても敵は追って来て、無実の自分たちを追い込むように周りの人を撃ち殺していく。
しかしこれが戦争で、人が死ぬのは諦めなければならないこと。正義のためでも仕方がないことだと、幼心に言い聞かせた。
そんな悲愴の中、外で銃撃が聞こえ始めた。その直後、ライフル銃を持った味方の男性が飛び込んで来て叫ぶ。
「敵がここまで攻めて来た! 早く避難しろ!」
聞いた人々は一斉に立ち上がり、性急に逃げ始める。シモンも母親とともに立ち上がろうとした。
「お母さん。ボクたちも! ……お母さん?」
ところが母親は、園児を亡くしたショックで放心状態となっていた。
「お母さん早く! 立って!」
シモンは懸命に母親を立たせ、周りに少し遅れて何とか学校の外へ出た。
その時ちょうど、激しい銃撃戦の音が聞こえ始める。人々はその音を背に散り散りに逃げた。
シモンも、母親の手を引いて死に物狂いで走った。だが、途中で母親が瓦礫に躓いて転んでしまった。
「お母さん大丈夫!?」
シモンは再び母親を立ち上がらせようと腕を引っ張る。しかし、母親は逃げる気力を失い、シモンの言うことを聞かない。
けれどシモンは、一生懸命に母親の腕を引っ張った。
「お母さん早く! 逃げないと死んじゃうよ! ねぇ、早く立って! 立ってよお母さん!」
シモンは泣きそうになりながら母親に訴えた。だが、絶望に打ちひしがれる母親は逃げる意志をなくし、微動だにない。
「お願い……。立ってよ、お母さん……!」
(近くから銃撃の音が聞こえる。すぐそこで戦ってるんだ。いつこっちに来るかわからない。早く……。早く……!)
死の足音が近付く中で、シモンは恐怖で涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
そんな時、すぐ側で爆音が轟いた。反勢力のロケットランチャー部隊が、目の前に迫って来ていた。
「お母さん! お母さん立って! 逃げようよお母さんっ!」
ロケットランチャーが発射された。煙を吐き放物線を描きながら迷いなく飛んで来るロケット弾が、シモンの揺れる双眸に映る。
「……!!」
(なんで……。何でこんなことになってるの? 誰が何のために始めたの? 何でボクたちは巻き込まれてるの? ボクたちが何かした? 誰かを傷付けた? 誰かをイジメた? ボクは何もしてないよ。お母さんとお父さんと仲良しだし、友達にも優しくしてるよ? 何も悪いことしてないよ? なのに何で殺されそうにならなきゃいけないの? 罪を犯してないのに命を奪われなきゃいけないの? ボクたちは普通に生きてただけなのに……。これが、戦争だから……?)
ロケット弾は放物線の頂点を超え、弾頭を目標に向けた。
その時だった。ロケット弾は突然、空中でピタッと静止した。同時に、争っていた大人たちも動きを止め、砲弾が着弾する音や銃撃音もぱたりとしなくなる。
「そーだよねー。普通に生きてただけなのに、酷いよねー」
すると、どこからともなくタデウスが現れ語り掛ける。
「理由は有るみたいだけど、勝手に始めたくせに、普通に生きてたぼく達を巻き込まないでほしいよねー。其の
後ろ手を組むタデウスは、シモンの周りをダラダラと歩きながら話し続ける。
「痛いよね。身体も心も傷付いて、血が出そうなくらい痛いよね。でも奴等は、ぼく達の痛みなんて知ったこっちゃないんだよ。だって、同じ人間を殺す事を躊躇わないし、何も悪い事してない人を傷付けるのを、何とも思ってないんだもん。戦争だから、人が傷付いても死んでも仕方無いって考えてるんだよ。酷いよね。ぼく達は、誰も傷付けても殺してもいないのに。此の世の善悪の判断もはっきりと付いてない、幼い子供まで。悪魔みたいだよね」
シモンは悪魔の牙から視線を逸らさず、絶望の色の声音で言う。
「悪魔だよ……。だって。ここは地獄だもん」
「うん。地獄だね。生き地獄だよ。こんな世界を作った奴等は、痛みなんて知らないんだ。だから人を傷付けたり、殺す事が平然と出来るんだよ。本当の正義が何かなんて知らないくせに、偽物の正義を信じてさ……。だからさ。奴等に仕返ししようよ」
タデウスはシモンに囁いた。その緑色の双眸は、悪意に満ち満ちている。
「仕返し?」
「そう、仕返し。報復だよ。どうせ奴等は簡単には戦争を終わらせないし、説得なんて無駄なんだから。だったら、同じ方法で報復するんだ」
「でも。報復なんて……」
シモンは報復に刹那の魅惑を抱いたが、ためらいを見せる。
「そのくらい許されるよ。だって、正当防衛だもん。それに、ぼく達には立派な正義が有るから、悪い事にもならないよ。奴等に、ぼく達の正義を思い知らせてあげようよ」
「ボクたちの、正義……」
「そうさ。そして、ぼく達が受けた痛みを、其の魂に刻んでやるんだ。何度も、何度も。痛みが何層にも重なって、呼吸する度に痛くて悶えるくらいに。ほら。皆も言ってるよ」
周りには死体となった犠牲者たちがいて、皆小さく口を動かしている。呪文のように聞こえる声は、「やれ……やれ……」と唸るように呟いていた。
「君が、皆の痛みを奴等に思い知らせるんだ。此れは、君しか出来ないんだよ。君の正義。君の使命だよ」
「ボクの、正義……。ボクの使命……」
「ね。報復しようよ。でないと、死んで此の人達の仲間入りだよ?」
「死ぬ……」
シモンは死体たちを自分と重ねて青褪め、背筋を凍らせる。
「死ぬのは嫌だ」
「嫌でしょ? 嫌だよね? 死は究極の痛みだもん。死んでも痛みは付き纏うよ。そんなの嫌でしょ?」
「死ぬのも痛いのも、どっちも嫌だ」
「じゃあ、君が報復しないと。でないと、何も終わらないよ。こんな希望なんて何処にも無い世界は、終わらせないと。君の手で」
「ボクが、終わらせる」
タデウスに唆されたシモンは、ハーツヴンデ〈
そして弦を引き、自分たちを殺そうとする敵に光の矢の狙いを定める。
「そう。君が終わらせて」
(そうすれば君は、復讐することでしか生きられなくなる。堕ちて、使徒なんか出来なくなる)
最初は戦うことを拒否していたタデウスは、生の負の感情に味を占めたようにニタリと笑った。