翌日。太陽が昇り、テラスの窓から射し込んでいた日差しが多くなり始めたころ、シモンはようやく眠りから覚めた。
目蓋を開くと、添い寝をしていたヤコブと目が合った。
「やっと起きたか」
「おはよ。ヤコブ……」
シモンは、寝ぼけ眼で朝の挨拶をする。
昨日までと変わらない、朝のひととき。そんな小さな幸せを噛み締めようとしたが、大変なことに気付いて慌てて起き上がった。
「学校……!」
「もう十時。学校には、休むって連絡しといたから。昨日の今日だし」
「ありがと」
ヤコブの気遣いに、シモンはホッと胸を撫で下ろした。
二人は朝食を摂りに、隣のリビングルームへ行く。ユダとヨハネは既に事務所で業務を始めていて、ペトロもアルバイトへ行っていた。
ヤコブはもう食べたのでシモンの分を用意し、ミルクと砂糖入りのコーヒーと一緒に出した。
二人だけの静かな午前。シモンはチョコレートスプレッドをブロートに付けて食べ、ヤコブは本日二杯目のコーヒーを飲みながら、正面からシモンの顔色を観察した。
「顔色よさそうだな。気分は?」
「うん。悪くないよ」
「なら安心した。じゃあ。せっかく学校サボったし、あとでちょっと気分転換に行くか」
ゆっくりブランチを食べ仕度をしたあと、二人は地下鉄とバスを乗り継いでブリッツァーガーデンへとやって来た。
繋がった三つの湖───ハウプト湖、エストリッヒャー湖、ズュートリッヒャー湖を中心に、色鮮やかな花や緑が広がる散歩にもうってつけの場所だ。チューリップやしゃくなげ、つつじやダリアが季節を彩り、バラ園やテーマごとの庭園が広がる。
シモンとヤコブは、自然溢れる園内をのんびりと歩く。自前のカメラを持って来たヤコブは、花や野鳥を収めたり、こっそり撮られたシモンはちょっと怒ったりして、二人は穏やかなひとときを楽しむ。
「気持ちいいねー。風も鳥の囀りも心地いいし。なんていう鳥かな」
ハウプト湖とズュートリッヒャー湖のあいだには、三角形に立てられた柱が特徴の木造の橋が掛けられている。
初夏に差し掛かり気温は少し上がってきたが、木々を揺らし湖面を滑って吹く風は心地良い。中心地から離れているので喧騒とも縁遠く、多くの緑に触れたシモンもリフレッシュができたようだ。
「シモン」
「なに?」
振り向くと、ヤコブが不意打ちでシャッターを切った。
「また、不意打ち撮られたー」
「シモンは広告の写真もいいけど、やっぱ自然体が一番いいな」
「広告のボクは、あんまりかわいくないの?」
「俺は自然体の方が好き、って話だよ」
ヤコブは笑みを浮かべて言った。
撮ったシモンの写真を液晶モニターで見直していると、ヤコブはふと、シモンの印象について口にする。
「……なんか。大人っぽくなったか?」
「そう?」
「印象が少し変わったって言うか。ほんの数日前までとは、何となく顔付きが違う気がする」
「えへへ」褒められたシモンは、素直に照れ笑いする。
「ヤコブにそう言われると嬉しいな。死徒との戦いで、少しは前進できたおかげかも」
「辛かったんじゃないのか」
つい昨日の戦いが、辛くも苦しくもなかったかのような様子のシモン。まだ少し案ずるヤコブは、その心の内を尋ねた。
「もちろん辛かったよ。あの経験は、ずっと消したいトラウマだった。だけど今は、前ほど厭わしく思ってないんだ。自分が本当に恐れていたものがなんだったのか、気付けたから」
「死が怖かったんじゃないのか?」
「それも怖かったよ。それを含めた、本当の世界の姿を知らなかったのが怖かったんだ。巻き込まれたのが幼かったから、戦争とか人が死ぬことがダイレクトに“怖いもの”だってインプットされてたけど、大きくなった今、あの出来事をもう一度経験したら、その恐怖のさらに奥にあるものが本当は恐れるものだったんだ、ってわかったんだ」
「認識が変わったってことか」
「今は、自分が抱えていた本当のトラウマがわかって、少し安心感があるんだ。だから、昔は受け入れ難かった現実を、今ならちゃんと振り返って向き合えそう。これからは、ボクの一部だと思って付き合っていこうって思ってる」
白い雲が流れる空を見上げながら、シモンは新たな決意を表明した。
トラウマを忘れることも、逃げることもできない。けれど今は、背中を向けることは考えなくなっていた。ペトロが言っていたように、自分が生きてきた足跡の一つだから、この先も一生残り続ける。だからシモンは、今の自分を作っているものの一つとして受け入れた。
その横顔が、ヤコブには昨日より少し逞しく見えた。その成長が嬉しくて、シモンの頭を撫でた。
「そっか……。やっぱ、シモンは強いな」
「ボクが前向きになれるのは、ヤコブがいるからだよ。棺の中でヤバかった時、右腕に温かさを感じたんだ。ボクを信じて待ってくれてるって思ったら、ボクもボク自身を信じられた。ヤコブの気持ちが、ボクを使徒に留めてくれたんだよ」
シモンは右の袖を捲った。
「見て。ヤコブの名前が、前よりはっきりしてる」
「俺のシモンの名前も」
ヤコブも左の袖を捲り、お互いの名前を並べるようにシモンの右腕にくっ付けた。
「ヤコブの名前が現れた時、運命なんだって思った。今は、もっと運命的なものを感じてる」
「何だよ。もっと運命的なものって」
「言い表せないよ。でも、心がそう言ってる」
「ロマンチストだな」
「ヤコブが大人っぽくなったって言うから、ちょっと背伸びしてみようかと思って」
「シモンのそういう頑張り屋なところが、俺は好きだ」
二人は右手と左手を合わせ、恋人繋ぎをした。
「ヤコブ。ボクは、希望を忘れないよ。これからもずっとヤコブと一緒にいるために、何があっても負けずに頑張るから」
「ああ。俺も負けないからな」
シモンとヤコブが帰って来ると、事務所の前にアルバイト帰りのペトロがデリバリーのリュックを背負ったまま立っていた。何やら様子がおかしく、窓から事務所の中をじっと見ている。
「何してるの、ペトロ?」
「ヤコブ。シモン」
「ボーッと突っ立って覗いてると、不審者扱いされるぞ」
「ユダとヨハネに用でもあるの?」
「いや。何でもない」
そう言って、電動キックボードを持ってペトロは部屋に戻って行った。
その後もペトロの様子は何だかおかしく、夕食時も四人が楽しく会話をしていても静かで、一人黙々と食べていた。
そんな中、ユダからある報告があった。
「実は、みんなに嬉しい発表があります」
「何なに?」
「なんと! ペトロくんに、新しい仕事のオファーが来ました!」
「マジか。すげぇな! ちなみに何?」
「携帯会社の新機種の広告だ」
「やったね、ペトロ!」
「え? ……あ。うん」
ところが、当の本人は話をほとんど聞いていなかった。ペトロは一応リアクションするが、あまり驚いてはおらず、なんだか心ここに在らずな様子だ。
「何だよ。あんま嬉しそうじゃないな」
「いや。一応嬉しいよ。また声掛けてもらえるなんて、思ってなかったし」
「一応って何だよ。初仕事の評判がよかったからって、胡座かいてんじゃねぇよな?」
「そんことないって」
ヤコブが軽く吹っ掛けると、ペトロはいつものノリで付き合った。
しかし、その心の片隅では常に何かに占領されているような気がして、ユダは少し気になった。
夕食が終わり、それぞれの時間を過ごし、夜も更けてきたころ。
シャワーも浴びてあとは寝るだけのペトロは、間接照明が灯る部屋でソファーに座り、少し固い表情をしていた。
そこへ、シャワーを浴びた裸眼のユダが戻って来た。
「ペトロくん、まだ寝てなかったんだ。眠れないなら、ハーブティーでも淹れようか?」
「ううん。大丈夫。そうじゃないから」
ユダが声を掛けた瞬間、ペトロの肩が僅かに跳ねた。それを見逃さなかったユダは、ペトロが口にせずにいることを何気なく訊いてみる。
「新しい仕事、あんまり乗り気しない?」
「そんなことないよ」
「前にも言ったけど。強制はしないから、やるかどうかはペトロくんが決めていいよ。まだ先方に返事はしてないから」
「新しい仕事が来たのは嬉しいよ。まだモデルの仕事やり始めたばかりで、右も左もわからないオレを選んでくれるのは、ありがたいと思うし。やってみたいって思ってる」
それは空気を読んだ訳でも忖度した訳でもなく、本心からの言葉だった。ユダもなんとなくそう感じたが、それなら緊張している理由はなんだろうと、ペトロの隣に座った。
「そっか。それならいいんだけど……。それじゃあ。何か悩みごと?」
「悩みごとって言うか……。この前までは、悩んでたこと……」
ユダから顔を逸らしたペトロは目を伏せ、一度口を閉じる。
その間は、まだ少し残留していたためらいと迷いの、整理の時間だった。
「……大事な話がある」
「大事な話?」
「ずっと、保留にしてたこと」
ペトロは、再びユダに顔を向けた。
「告白の返事」