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第23話 大切な人と何気ない日常を



 翌日。太陽が昇り、テラスの窓から射し込んでいた日差しが多くなり始めたころ、シモンはようやく眠りから覚めた。

 目蓋を開くと、添い寝をしていたヤコブと目が合った。


「やっと起きたか」

「おはよ。ヤコブ……」


 シモンは、寝ぼけ眼で朝の挨拶をする。

 昨日までと変わらない、朝のひととき。そんな小さな幸せを噛み締めようとしたが、大変なことに気付いて慌てて起き上がった。


「学校……!」

「もう十時。学校には、休むって連絡しといたから。昨日の今日だし」

「ありがと」


 ヤコブの気遣いに、シモンはホッと胸を撫で下ろした。

 二人は朝食を摂りに、隣のリビングルームへ行く。ユダとヨハネは既に事務所で業務を始めていて、ペトロもアルバイトへ行っていた。

 ヤコブはもう食べたのでシモンの分を用意し、ミルクと砂糖入りのコーヒーと一緒に出した。

 二人だけの静かな午前。シモンはチョコレートスプレッドをブロートに付けて食べ、ヤコブは本日二杯目のコーヒーを飲みながら、正面からシモンの顔色を観察した。


「顔色よさそうだな。気分は?」

「うん。悪くないよ」

「なら安心した。じゃあ。せっかく学校サボったし、あとでちょっと気分転換に行くか」


 ゆっくりブランチを食べ仕度をしたあと、二人は地下鉄とバスを乗り継いでブリッツァーガーデンへとやって来た。

 繋がった三つの湖───ハウプト湖、エストリッヒャー湖、ズュートリッヒャー湖を中心に、色鮮やかな花や緑が広がる散歩にもうってつけの場所だ。チューリップやしゃくなげ、つつじやダリアが季節を彩り、バラ園やテーマごとの庭園が広がる。

 シモンとヤコブは、自然溢れる園内をのんびりと歩く。自前のカメラを持って来たヤコブは、花や野鳥を収めたり、こっそり撮られたシモンはちょっと怒ったりして、二人は穏やかなひとときを楽しむ。


「気持ちいいねー。風も鳥の囀りも心地いいし。なんていう鳥かな」


 ハウプト湖とズュートリッヒャー湖のあいだには、三角形に立てられた柱が特徴の木造の橋が掛けられている。

 初夏に差し掛かり気温は少し上がってきたが、木々を揺らし湖面を滑って吹く風は心地良い。中心地から離れているので喧騒とも縁遠く、多くの緑に触れたシモンもリフレッシュができたようだ。


「シモン」

「なに?」


 振り向くと、ヤコブが不意打ちでシャッターを切った。


「また、不意打ち撮られたー」

「シモンは広告の写真もいいけど、やっぱ自然体が一番いいな」

「広告のボクは、あんまりかわいくないの?」

「俺は自然体の方が好き、って話だよ」


 ヤコブは笑みを浮かべて言った。

 撮ったシモンの写真を液晶モニターで見直していると、ヤコブはふと、シモンの印象について口にする。


「……なんか。大人っぽくなったか?」

「そう?」

「印象が少し変わったって言うか。ほんの数日前までとは、何となく顔付きが違う気がする」


「えへへ」褒められたシモンは、素直に照れ笑いする。


「ヤコブにそう言われると嬉しいな。死徒との戦いで、少しは前進できたおかげかも」

「辛かったんじゃないのか」


 つい昨日の戦いが、辛くも苦しくもなかったかのような様子のシモン。まだ少し案ずるヤコブは、その心の内を尋ねた。


「もちろん辛かったよ。あの経験は、ずっと消したいトラウマだった。だけど今は、前ほど厭わしく思ってないんだ。自分が本当に恐れていたものがなんだったのか、気付けたから」

「死が怖かったんじゃないのか?」

「それも怖かったよ。それを含めた、本当の世界の姿を知らなかったのが怖かったんだ。巻き込まれたのが幼かったから、戦争とか人が死ぬことがダイレクトに“怖いもの”だってインプットされてたけど、大きくなった今、あの出来事をもう一度経験したら、その恐怖のさらに奥にあるものが本当は恐れるものだったんだ、ってわかったんだ」

「認識が変わったってことか」

「今は、自分が抱えていた本当のトラウマがわかって、少し安心感があるんだ。だから、昔は受け入れ難かった現実を、今ならちゃんと振り返って向き合えそう。これからは、ボクの一部だと思って付き合っていこうって思ってる」


 白い雲が流れる空を見上げながら、シモンは新たな決意を表明した。

 トラウマを忘れることも、逃げることもできない。けれど今は、背中を向けることは考えなくなっていた。ペトロが言っていたように、自分が生きてきた足跡の一つだから、この先も一生残り続ける。だからシモンは、今の自分を作っているものの一つとして受け入れた。

 その横顔が、ヤコブには昨日より少し逞しく見えた。その成長が嬉しくて、シモンの頭を撫でた。


「そっか……。やっぱ、シモンは強いな」

「ボクが前向きになれるのは、ヤコブがいるからだよ。棺の中でヤバかった時、右腕に温かさを感じたんだ。ボクを信じて待ってくれてるって思ったら、ボクもボク自身を信じられた。ヤコブの気持ちが、ボクを使徒に留めてくれたんだよ」


 シモンは右の袖を捲った。


「見て。ヤコブの名前が、前よりはっきりしてる」

「俺のシモンの名前も」


 ヤコブも左の袖を捲り、お互いの名前を並べるようにシモンの右腕にくっ付けた。


「ヤコブの名前が現れた時、運命なんだって思った。今は、もっと運命的なものを感じてる」

「何だよ。もっと運命的なものって」

「言い表せないよ。でも、心がそう言ってる」

「ロマンチストだな」

「ヤコブが大人っぽくなったって言うから、ちょっと背伸びしてみようかと思って」

「シモンのそういう頑張り屋なところが、俺は好きだ」


 二人は右手と左手を合わせ、恋人繋ぎをした。


「ヤコブ。ボクは、希望を忘れないよ。これからもずっとヤコブと一緒にいるために、何があっても負けずに頑張るから」

「ああ。俺も負けないからな」




 シモンとヤコブが帰って来ると、事務所の前にアルバイト帰りのペトロがデリバリーのリュックを背負ったまま立っていた。何やら様子がおかしく、窓から事務所の中をじっと見ている。


「何してるの、ペトロ?」

「ヤコブ。シモン」

「ボーッと突っ立って覗いてると、不審者扱いされるぞ」

「ユダとヨハネに用でもあるの?」

「いや。何でもない」


 そう言って、電動キックボードを持ってペトロは部屋に戻って行った。

 その後もペトロの様子は何だかおかしく、夕食時も四人が楽しく会話をしていても静かで、一人黙々と食べていた。

 そんな中、ユダからある報告があった。


「実は、みんなに嬉しい発表があります」

「何なに?」

「なんと! ペトロくんに、新しい仕事のオファーが来ました!」

「マジか。すげぇな! ちなみに何?」

「携帯会社の新機種の広告だ」

「やったね、ペトロ!」

「え? ……あ。うん」


 ところが、当の本人は話をほとんど聞いていなかった。ペトロは一応リアクションするが、あまり驚いてはおらず、なんだか心ここに在らずな様子だ。


「何だよ。あんま嬉しそうじゃないな」

「いや。一応嬉しいよ。また声掛けてもらえるなんて、思ってなかったし」

「一応って何だよ。初仕事の評判がよかったからって、胡座かいてんじゃねぇよな?」

「そんことないって」


 ヤコブが軽く吹っ掛けると、ペトロはいつものノリで付き合った。

 しかし、その心の片隅では常に何かに占領されているような気がして、ユダは少し気になった。




 夕食が終わり、それぞれの時間を過ごし、夜も更けてきたころ。

 シャワーも浴びてあとは寝るだけのペトロは、間接照明が灯る部屋でソファーに座り、少し固い表情をしていた。

 そこへ、シャワーを浴びた裸眼のユダが戻って来た。


「ペトロくん、まだ寝てなかったんだ。眠れないなら、ハーブティーでも淹れようか?」

「ううん。大丈夫。そうじゃないから」


 ユダが声を掛けた瞬間、ペトロの肩が僅かに跳ねた。それを見逃さなかったユダは、ペトロが口にせずにいることを何気なく訊いてみる。


「新しい仕事、あんまり乗り気しない?」

「そんなことないよ」

「前にも言ったけど。強制はしないから、やるかどうかはペトロくんが決めていいよ。まだ先方に返事はしてないから」

「新しい仕事が来たのは嬉しいよ。まだモデルの仕事やり始めたばかりで、右も左もわからないオレを選んでくれるのは、ありがたいと思うし。やってみたいって思ってる」


 それは空気を読んだ訳でも忖度した訳でもなく、本心からの言葉だった。ユダもなんとなくそう感じたが、それなら緊張している理由はなんだろうと、ペトロの隣に座った。


「そっか。それならいいんだけど……。それじゃあ。何か悩みごと?」

「悩みごとって言うか……。この前までは、悩んでたこと……」


 ユダから顔を逸らしたペトロは目を伏せ、一度口を閉じる。

 その間は、まだ少し残留していたためらいと迷いの、整理の時間だった。


「……大事な話がある」

「大事な話?」

「ずっと、保留にしてたこと」


 ペトロは、再びユダに顔を向けた。


「告白の返事」




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