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第16話 真夜中の氷水



 二人の帰りを待っていたヨハネたちと夕食を食べたあと、今日は食後のデザートも出されるというのにペトロは立ち上がった。


「ペトロ。マフィン食べないの?」

「あー……。うん。いらない」


 少し視線を泳がせて言い、ヤコブがアルバイト帰りに買って来たマフィンを食べずに自室へと戻ってしまった。


「……今日のペトロ、なんか静かだったね」

「静かなのはいつもだろ」

「でも今日は、話を聞いてなかったりしてちょっと様子が変だったよ」

「初めての撮影で、疲れたんじゃないか? だいぶ緊張してたみたいだし」


 ヨハネは、淹れてしまったペトロのぶんのコーヒーカップを自分の前に置いた。マフィンも五個あるので、一つ余ってしまう。


「ユダ。あいつ、今日ずっとあんな感じだったのか?」

「朝から緊張状態だったからね。帰りの車の中でも疲れたって言ってたし」

「でもさ。俺の気のせいかもしれないけど、お前のことちょっと避けてなかったか?」


 食事中、今日の撮影の様子を三人に話していたユダはペトロにも話を振ったのだが、相槌は打つものの、ペトロはユダと顔を合わせてもすぐに逸していた。


「お前、なんかした?」

「何もしてないよ。きっと、無事に撮影が終わって気が抜けたんだよ」


 ヤコブはちょっと怪しんで訊くが、ユダはいつもの爽やかスマイルで否定した。


「疲れてたなら、甘いもの食べればよかったのにね」

「いらないって言ったんだし、俺らで食っちまおうぜ。みんなでベリーマフィンを賭けたじゃんけんやるぞ!」


 ヤコブとシモンは何を出すかをやる前から言って、心理戦を始めた。ユダもその心理戦に乗るが、ヨハネだけは心の中がもやもやしていた。

 ユダが、ペトロを気に掛ける視線を送っていたことを、見逃していなかったのだ。




 疲れたペトロはシャワーをし、今日は早めに寝てしまうことにした。

 キッチンでコップ一杯のミネラルウォーターを飲み、自分のベッドルームに行こうとした時、リビングルームから戻って来たユダと鉢合わせた。


「あ……」

「もうシャワーしたんだ」


 ユダと顔を合わせたペトロは、ふいっと逸した。


「うん。疲れたから、もう寝る」

「マフィン、本当に食べなくてよかった? ベリーもチョコもおいしかったよ」

「うん……。じゃあ。おやすみ」

「おやすみ。今日はお疲れさま」


 いつもと変わらない穏やかな調子で労われ、ペトロはベッドルームに入った。

 明日のアルバイトは午後からにした。いつもより遅い時間にアラームをセットして、ベッドに横になり、目を瞑った。


「…………」


 しかし、なかなか寝付けなかった。一度眠るのを諦めてスマホで動画を観たりして、一時間ほどして再び寝ようとするが、やはり寝付けない。

 その後も、スマホをいじったり寝る体勢を変えたりしながら眠くなるのを待つこと、三時間。


「……眠れない」


 今日はどうしても寝付きが悪い。慣れない撮影で疲れているはずなのに、あることのせいで脳が覚醒している。


(ユダがあんなこと言うから……)


 それは、「もしも、きみのことを好きかもしれないと言ったら、どうする?」と唐突に言われたことだ。それを意識して、食事中も不自然に顔を合わせるのを避けてしまった。


(あれって、告白された……? でも、はっきりと『好き』って言われた訳じゃない。やっぱり冗談だったのかな……。だけど、魅力的とか素敵とかすごい言われた。そういうのって、同性相手にそんな頻繁に言うことじゃないよな。やっぱ、からかってる……? でも、ユダはそんなことするようなやつじゃないと思う。紳士的で、誰にでも優しいし……。あ、そっか。今日はオレが緊張してたから……。でもそれだったら、言うの撮影前だよな。終わってから、あんな小恥ずかしいこと言わないよな……。じゃあ、本気で褒めてくれてたってことか。そうすると、あれも告白……)

「……っ」


 意識したペトロはほんのり顔を赤くする。


(いやいやいや! 『もしも』って言ってたから本当のやつじゃないって! じゃあ、なんで言ったんだよって感じだけど。単なる思わせぶりだと思うと、なんかそれはそれでムカつくような気がするけど。でも、帰って来てからはいつも通りだし。てことは、やっぱ本気じゃないってことじゃん)


 その結論でペトロの戸惑いは収まるはずだった。けれど、まだ一つ疑問が残っていることがある。


(そしたら、あれは? オレの写真を待ち受けにしてた理由はなんなんだ? 褒めてはいたけど、だからって普通待ち受けにはしないよな……。それに。『もしも』ってことは、本当かもしれないんだよな。ユダが、オレのことを、好きかもしれない……)


 眠れずにぐるぐると考え、一周して始めの答えに戻ったその時。ドアのすぐ向こうのリビングで足音がした。

 ソファーで寝る前の読書をしていたユダの靴音だ。ペトロは、その音に意識的に耳をそばだてた。

 立ち上がったユダは、リビングの間接照明の明かりを消して、一度出て行った。すぐ戻って来たからトイレだったんだろう。

 リビングに戻って来た靴音は、ペトロのベッドルームから遠退いて窓際のベッドの方へ行く……はずだった。

 ところが、靴音はベッドルームに近付いて来てドアの前で止まった。


「……」


 ペトロは息を潜める。しかし、すぐにまた靴音がして遠退いていった。

 ペトロは安堵の息を吐いた。


「ちょっとドキドキした……」


 呟いた直後、そう発言した自分に動揺してガバッと毛布を被った。


(え!? オレ今、何を想像した? ユダが寝室に入って来るかもなんて思った?)

「あり得ないだろ」

(でも……)


 ペトロは、撮影の時にユダに励まされたことを思い出す。


(確かにユダは優しいし、包容力もあって頼りたくなる。褒められたのも、本当は嬉しかった。今日の撮影だって、付き添ったのがヨハネだったらあんなに上手くいってなかったかもしれない)

「なんでオレは、ユダの言葉を信じられたんだろう……」

(自分でもよくわからないけど、ユダがオレを信用してくれてるのは感じた。だから、真っ直ぐ目を見て言ってくれた言葉を信じられた。だけど、“信じてる”の一言だけで片付けられないような感情が動いてた。そんな気がする)


 ユダが緊張するペトロを励ましたのは、社長として新人をサポートしたつもりでもあるだろう。だから「信じてる」と言ってくれたのだ。

 けれど、仕事や社長ということは関係ない私情が込められていたような気がした。ペトロを特別に見るような。

『もしも』を考えると、胸がにわかに少しキュッとなった。

 その時、サイドテーブルの上で物音がした。立てていた写真立てが倒れた音だった。

 立て直し、写真を自分の方へ向けたペトロは、持ち始めた熱に氷水を掛けた。


「これ以上考えるのはやめよう」

(オレは何のために使徒になったんだ。強くなりたいからここにいるんじゃないか)


『もしも』なんてこの世にない。あれはきっと冗談で、ユダの気の迷いだ。

 そう区切りを付け頭が冷やされると、自然と眠ることができた。




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