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第3章 Nähern─強さの裏側に─

第1話 実りと蕾



 暗闇の向こうから、小鳥の囀りが微かに聞こえてくる。出口はこっちだよと鳴く声に導かれ、意識がふわりと浮上する。

 うつつに戻ると、頭を覆う綿と、身体を包み込む毛布の感触。そして、温もりを近くに感じる。


「ん……」


 ペトロは、重たい目蓋を二度三度、まったりとまばたきする。そんな些細な動作も愛おしいユダは、添い寝をしながら笑みを浮かべて、ペトロがまた夢の中へ戻らないように引き留めた。


「おはよう」


 ペトロは、その穏やかな声で朝に足を着く。


「おはよ」

「調子はどう?」

「おかげさまで」


 ユダは、ペトロの顔に掛かっていた前髪を指先で退かした。ふと触れる指先すら、今は心地良い。


「もうすっかり、私と寝るようになったね」

「だって、呼ばれるから」


 最初は、ペトロの羞恥心を騙して一緒に寝ようと誘い、それからなし崩し的に同じベッドで朝を迎えていたが、今では呼ばれれば素直に一緒に寝るようになった。


「せっかくのベッドルーム、これじゃあ物置きになっちゃうな」

「気にしなくていいよ。ベッドルームは、一時的に準備しただけだから」

「……うん?」

「きみとこうしていられて、私はただただ嬉しいよ」


 ユダはそう言って、ペトロのおでこに小鳥のような唇を落とした。


(オレは、まんまと嵌められたのか……?)


 ユダの発言にちょっと引っ掛かるが、腕の中に収められるとどうでもよくなった。

 朝から甘い言葉を言われて、満更ではない。けれど、油断をすると痕跡の輪郭が現れる。ペトロはその心中を隠すように、寄り掛かりたい胸に擦り寄る。

 氷が解けてできた冷たい水溜まりは、初夏になっても蒸発しきっていなかった。

 すると。毛布の中でモゾモゾが始まった。


「何してるんだよ」

「何って?」


 少し早いが起床するのかと思いきや、足を絡められた。


「足、絡めるなよ」

「離したくなくて」


 ユダはにっこりする。


「昨夜、だいぶくっ付いてたけど」

「仕方ないよ。離したくないんだもん」


 何か意図を感じるにっこり顔だ。


「仕方なくないだろ。今日は大事な仕事があるんじゃないんですか、社長?」

「時間はまだ大丈夫だよ」


 ユダは四つん這いになって、ペトロに覆い被さった。ペトロの心をくすぐるように、さらりと垂れる前髪が揺れる。


「あと一時間」

「ダメ」

「社長命令でも?」

「それは立派な職権濫用だけど?」


 社長の頼みでもそれは受け入れられないと、ペトロは権力に屈しなかった。ユダも強引に抑え込もうとせず、素直に諦めた。


「わかったよ。無理やりして、ストライキなんか起こされたくないしね」

「ユダが常識ある紳士でよかったよ」


 交渉決裂に終わったユダは、ペトロの手を取って上半身を起こしてあげた。


「それじゃあ。目覚めのコーヒーでも淹れようか」




 朝食のあと、二人はすぐに出掛ける支度をした。今日は、オファーがあった携帯電話会社の、新機種の広告撮影の仕事だ。

 行く前に、ユダは事務所でヨハネに今日の業務に関する引き継ぎを行った。


「で。また、お前が一緒に行くのか」

「この度、正式にペトロのマネージャーをやることになりました」


 上機嫌で発表するユダに、ヤコブは若干呆れている。


「それ、勝手に言ってるんじゃないよな? ちゃんとヨハネに許可もらったのかよ」

「許可は出した。圧がすご過ぎて、出さざるを得なかった」


 と言うヨハネは、どこかに生気を吸われてしまったようにいつもより気力がない。

 ヨハネが言う「圧」というのは威圧感ではなく、ユダのペトロへの愛情とだだ漏れる幸せオーラの圧だ。負けてたまるかと一度押し返してはみたが、結局その圧に負けてイエスマン・ヨハネとなってしまった。

 経緯を聞かずとも、ヤコブは実際に見たかのように事情を把握した。


「嫌ならちゃんと言った方がいいぞ。こいつ、隙きあらば職権濫用するから」

「いや。なんとか僕一人で回すよ。今日から毎日ってわけじゃないし、僕がいないといつもユダに任せてるから」

「遠慮してないか?」

「してないって」


 ユダの前で本心を悟られまいと、ヨハネは平気そうに振る舞った。


「明日も付き添いで抜けるけど、明後日からは私も業務に戻るから。二日間だけよろしく、ヨハネくん」

「わかりました」


 車に乗って出発したユダとペトロを、ヨハネとヤコブは事務所の窓から見送った。

 窓から車が見えなくなってすぐ、「はあっ」と大きな溜め息が背中を丸めたヨハネの口から漏らされた。


「超わかりやすい溜め息」

「溜め息が止まらないんだよ」

「そのうち魂抜けるんじゃね?」


 ユダとペトロがバンデになっただけでなく、付き合い始めたことも知ってから、ヨハネは元気をなくしている。ユダがいる前ではボロを出すまいと、いつも通りですよと気丈に振る舞っているが、胸中を知るヤコブとシモンの前では溜め息を連発している日々だ。

 ヤコブの感覚でだいたい百回は聞いているので、本当にそろそろ魂が抜けるんじゃないだろうか。


「俺、もうちょっと時間掛かると思ってたわ」

「僕も。仲間になったころと比べるとペトロの雰囲気が変わったとはいえ、まだ心を許し切ってない感じがあったから」

「まぁ。どういう心境の変化があったのかはわからねぇけど、くっ付くべくしてくっ付いた感はあるよな。バンデになると絆を結ぶために心を引き寄せ合って、お互いを支え合って強くなってくからな。ユダの心は、面識がないときからペトロに惹かれてた。そう考えると、あの二人は付き合う運命だったんだな」

「はあーーーーーっ……」


 ヤコブの解説に、ヨハネは今度は盛大な溜め息を吐き出しながらデスクに額をガンッとぶつけた。


「大丈夫か? こんなことでくたばるなよ?」

「……だけど。すっごい後悔してる。なんでもっと、積極的にいけなかったんだろう……」


 くぐもって聞こえるヨハネの声音は、表情が見えずとも本当に心底後悔しているのがわかった。


「ユダに助けられて、この人の側にいたいって思い始めて、自分の気持ちに気付くまでそう時間は掛からなかった。だけど、何度もチャンスを逃して、気持ちを伝えるのやめようかと思ったこともあって。側にいられるだけでも、幸せだったから。でも、その小さな幸せに甘んじてたせいで……。僕は一体、何をやってたんだろう」

「……本当だな」


 ヤコブはいつもの冗談混じりの鼓舞で尻を叩くのではなく、その無念を汲んでやった。ちょっと泣きそうになっている声を聞いては、さすがにキツい言葉は浴びせられない。

 ヨハネは頭を上げる。少し目を潤ませ、鼻を啜った。


「……諦めなきゃいけないよな」

「普通はな」

「そうだよな……。諦められるのかな」

「お前次第じゃね?」

「……女々しいよな」

「恋愛なんて、女々しいの上等だろ……。で。そんなことよりもだ!」


 女々しい仲間への同情は早々にさて置いたヤコブは、緊迫感を醸しながらデスクを叩いた。


「そんなこと……」


 自分を心配してくれていると思っていたヨハネは、ちょっと悲しくなった。


「俺は、危機をひしひしと感じてる!」

「なんの?」

「事務所の看板だよ! ペトロが炭酸水の広告やり始めてから、ジワジワ注目が集まってる。しかも、早くも二社目からの起用オファーが来た。これまで俺が稼ぎ頭だったのに、このままじゃ株が奪われる!」


 女々しい仲間への同情よりも、自分の地位が揺らぎ始めていることの方が重要らしかった。今までの応援はなんだったんだと、ヨハネはちょっとだけヤコブの友情を疑いたくなった。


「ヤコブだって、シューズメーカーやアウトドアウェアのイメージキャラクターやってるだろ」

「でも、あいつほど注目されてない!」

「それは確かに。ペトロの方が華があるからだろうな」

「でも、俺もイケてるだろ!?」

「自分で言うことじゃないと思うけど、顔もスタイルも悪くないよ。でも、僕もいろいろと思うところはあるけど、ペトロのことは認めてる。ぶっちゃけ、ヤコブより押し出したい」

「なんだよ、経営者ヅラしやがって。ずっと応援してやった俺の恩を、ドブに捨てたのかよ!」

「副社長だから、事務所の利益を考えるのは当然だし」


 さて置かれたお返し、というわけではないが、ヨハネは上司の立場から率直な意見を発言する。


「今の芸能人ジャンルの流行りとか、各企業が求めてるキャラクターを気にしたり、誰のどの広告にどれだけの人が反応してるのか調べたりもするし。実際、SNSを検索すると、事務所の中ではペトロが一番話題性があった。でもだからって、ペトロ贔屓するわけじゃないから安心してくれ」


 データを子細にまとめているわけではないが、各自の広告の注目度はその都度調査し、把握している。調査の際は主にSNSを参考にしているが、投稿されるコメントを見れば一目瞭然。ペトロの注目度は、露出一発目の炭酸水の広告が出てから右肩上がりで上昇中だ。

 世間のそんな反応を知ってしまっては、事務所としても押したくなる。もちろん、使徒の役目を疎かにしない程度にだが。

 少し眉頭を寄せるヤコブは、ヨハネの正面の使われてないデスクに足を組んで座った。


「ユダは贔屓するだろうけどな。それに、俺もあいつの魅力に気付いてないこともないよ」

「じゃあ、看板は譲れば?」

「認めるけど、それは嫌だって言ってんだよ」


 世間から注目されていようが事務所が押そうとしていようが、稼ぎ頭と看板を奪われるのはどうしてもプライドが許さないようだ。


「負けたくないなら、オーディション頑張れよ」

「頑張ってるって。『使徒』の肩書きが、王家の紋章くらいの効き目があったら超楽勝なんだけどなー」

「だったら、世界的有名ブランドからアンバサダーの声掛かるはずだけどな。まぁでも、ヤコブに魅力がないわけじゃないよ。人それぞれ“らしさ”ってものがある。でないと、イメージキャラクターなんてやらせてもらえてないだろ」


 ヤコブたちが企業のイメージキャラクターを務めるようになったのは、「使徒がヒーロー的認知だったから」という好感度がきっかけだが、人格に難があればすぐに降ろされていたはずだ。「使徒」の肩書きありきでも契約更新や新しい仕事が舞い込んでくるのは、彼らの魅力に惹かれているからではないだろうか。

 パソコンに向かうヨハネは、メールチェックから業務を始めた。


「なあ。俺にオファー来てない?」

「そんな都合よく仕事が……。あ」

「何。来てた?」

「来てるには来てるんだけど……。ヤコブだけじゃないっぽい」

「何件か来たのか?」

「いや。オファーは一件なんだけど……」


 ヨハネが訝しげにメールを読んでいるので、変な詐欺っぽい怪しい内容なのかと思い、ヤコブもパソコンを覗いた。

 件名から読んでみるが、オファーしてきた企業も実在する有名企業だし、詐欺を疑う内容ではなかった。ある化粧品メーカーからなのだが、ペトロかヤコブどちらかの起用を希望しているという内容だった。


「これ、ちょっとだな……。一度ユダに確認してから、検討するか」


 これは社長のユダと話し合う必要があると判断したヨハネは、この件をいったん保留にしようとした。

 ところが、ヤコブがストップを掛けた。


「ちょっと待て、ヨハネ」

「なんだよ。まさか、看板を死守したいからって、ユダにもペトロにも黙って返信しろって言わないよな? そんな不正はしないぞ」

「そんなこと一言も言ってねぇだろ。俺に提案がある」

「提案?」

「俺にも勝算がある方法で決めようぜ」


 ペトロに地位を譲る気はさらさらないヤコブは、何やら自信ありげにこのオファーを勝ち取る方法を思い付いたようだった。




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