職場に早退を申し出て帰って来たヤコブは、ベッドに仰向けになっていた。額に手を置き、半分しか見えなくなった天井を無気力に見つめている。
「ヤコブ」
シモンがカモミールティーを淹れて来てくれたので、ヤコブは怠そうに起き上がってマグカップを受け取った。温かいカップから湯気が立ち上り、甘く優しい香りが鼻腔を撫でた。
「よかったね。カモミールティー買っておいて」
「本当だな」
シモンは隣に座り、二人は一緒に飲んだ。
昼間の暑さは、夕方になり和らいできている。夏の緯度で空を移動する太陽は、まだ地平線より高い位置をのんびりと下っているところだ。
二人の部屋の隣のリビングルームでは、料理当番のペトロが夕飯の準備をしている。きっと、事務所の業務を早めに切り上げたユダが手伝っているはずだ。
シモンはヤコブの体調を窺う。
「気分、落ち着いた?」
「落ち着いてるよ。思ったほどダメージ食らってねぇし」
そう言うわりには、声にいつもの張りがない。
「強がっちゃって」
「強がってねぇよ」
「誤魔化さなくていいよ。バンデだから、嘘つくとわかっちゃうから」
バンデの繋がりが以前よりも強くなっているおかげで、全てではないが、シモンに見透かされてしまっているようだ。
「そうだったな」
それでは嘘をついたり誤魔化しても敵わないと、ヤコブは微苦笑した。
カモミールティーをもう一口飲むと、ヤコブは浮かない表情でシモンに話し始めた。
「……この前さ。公園で戦闘になった時、俺が危険を侵しそうになっただろ」
「うん」
「あの時、あの子供と昔の自分が重なったんだ」
「昔のヤコブと?」
そして、戻れない過去に遡る。シモンはいつも通りの雰囲気で、心を向けて聞いた。
「十二歳の時のことなんだけどさ……。俺には、四つ上の兄貴がいたんだ。頭良くてイケメンでさ。自慢の兄貴だった。趣味でギターやってて、あのギターはもともと兄貴が使ってたやつなんだ」
ヤコブは、クローゼット横のカバーに入ったギターに目をやった。
「そうだったんだ」
「カレッジに上がると、兄貴は先輩に誘われてバンドを組んだ。そのバンドの結成当時のメンバーが、俺にMV出演のオファーをくれたアレンとジェレミーだったんだ」
「お兄さんの学校の、先輩だったんだね」
「俺、しょっちゅう練習に付いて行ってたんだけど、みんな演奏上手くてさ。兄貴の歌声も最高で、俺はプロになれるって毎回言ってた。そしたら、有名レーベル主催のオーディションにエントリーした兄貴たちは、一次審査を通過したんだ。その頃はまだ、インディーズでもなかったのに」
「本当に? すごいね、お兄さん」
自慢だった兄がシモンに褒められると、ヤコブの表情が少しだけ和らいだ。
「だろ? すごいよな。演奏動画を上げてたんだけど、その実力が密かに噂になってて、優勝候補にまで上がってたらしいんだ。親父も母さんも友達もみんな、きっとこのままプロデビューするんだって期待してた。でも……」
しかし、また気持ちが沈鬱し、表情が翳る。
「俺のせいで、できなかった」
「ヤコブのせいで?」
表情が暗くなり、ヤコブの心が沈むのをシモンは何となく感じた。ここから先は、彼の心が許した者しか入ることができない領域だと。
「二次審査は、レーベル本社で審査員を前にした演奏審査だった。その日がちょうど兄貴の誕生日で、俺はサプライズプレゼントを用意してた。兄貴にもそれを予告してて、楽しみにしてるって言ってくれてた」
「どんなサプライズを用意してたの?」
「弾き語りだよ。兄貴に演奏の仕方を教えてもらってたから、隠れて一生懸命練習して、その成果を見せて喜ばせたかったんだ。だけど、兄貴はオーディションに行かなきゃならなくなって、俺は約束を破られたと思って納得いかなくて、当日の出発前、兄貴のギターを奪って駄々をこねたんだ。それがいけなかった」
「……何があったの?」
一瞬、訊くのをためらった。けれど、ヤコブの心の一部を占領している、陰雲に覆われた暗澹を自分が見なければと、慎重に尋ねた。少し、怖い気もした。
ヤコブは、暗澹の中核を口にする。
「……ロンドンの駅で、爆発テロがあったんだ。兄貴は、それに巻き込まれて……」
「……」
兄がどうなったかまでは口にしなかったが、訊かずともわかった。シモンは、言葉の代わりにヤコブの手を握った。
「アレンたちは先に到着してて無事だったけど、兄貴が来なかったから二次オーディションは受けられなかった。せっかくレーベルに注目されてたのに、デビューするチャンスを掴めなかった……。全部、俺のせいなんだ。約束破られて、プライド傷付けられたくらいで駄々こねて困らせて、その挙げ句に兄貴をテロの犠牲者にさせて、バンドのデビューのチャンスを奪った。大切な家族から、大事な夢を奪ったんだ……」
「ヤコブ……」
ヤコブは握られたシモンの手を離し、両手で顔を覆った。
「俺は、兄貴を裏切った。応援してたのに、一時の利己的欲求に負けて最低なことを言った。そのせいで兄貴は……。なんで俺は、『この世から消えろ』なんてことを言ったんだ。その言葉が現実になるなんて、思わなかった……。でも、俺の言葉は現実になった。俺が兄貴を殺したんだ」
自責するヤコブのくぐもった声は、少し震えていた。
ケンカで、暴言や悪態をつくのは普通だ。一時の感情で発したその場だけの言葉に、誰も重い責任を背負うつもりで言っていないだろう。だが時に。偶然が運命か、言った通りの出来事が起きる。
「言霊」というものだ。
あの時の言葉は魔力が宿り、現実となった。それが偶然か運命かは、誰にもわからない。ただ、ヤコブの中では言霊は存在し、「全ては必然的に起きたのだ」と決定されている。
絶望や自責の念が
「……ヤコブのせいだなんて、誰にも決められないよ」
「全部俺のせいだ。俺のせいでみんなを不幸にした。きっと恨まれてる。親父も、母さんも、笑顔の裏では俺を恨み続けてるんだ」
「そんなこと……」
「あの時の喪失も絶望も、誰から見たって間違いなく俺がきっかけだ。だから、誰も俺の罪を言葉にしなくても、俺は俺を赦したらダメなんだ。たった一度の過ちで、最愛の家族を喪った罪を!」
(ヤコブ……)
シモンはヤコブの罪を否定したいが、どんな言葉を掛けるのが正解なのかわからず迷い、言葉が出てこない。
自分がきっかけで家族を喪ったことが、どれだけ重い枷になり苦しめているのか、心が繋がっていても想像の範疇を出ない。今、名前を通して感じている苦衷も悲愴も、ヤコブが抱えている全てではない。
だからシモンは、共有されている感情が平等じゃないことが悔しかった。けれど、支えられることはあるはずだと、ヤコブの話を聞き続けた。
「だから、音楽に近付いちゃいけないって言ったの? 聴くことはできるけど、それ以上のことは許されないって。みんなの夢を奪ったから。だから、お兄さんのギターも弾かないの?」
「こんな俺が、音楽に関わることを赦されるわけないだろ」
「それじゃあなんで、MVに出ること決めたの?」
「何か償いになればと思ったんだ。少しでも罪悪感を軽くしたかった。シモンが『音楽は誰も拒まない』って言ったし、少しくらい近付いてみようって」
ヤコブは、まるで聴取を受ける容疑者のような雰囲気を放っていた。
「だけど拒まれてると思って、出演キャンセルしたの?」
「やっぱり、こんな俺が罪に素知らぬ顔して出るなんて、間違ってるだろ」
「でも。アレンさんは、ヤコブの罪悪感を知ってるの?」
ヤコブは首を小さく横に振る。
「何も話してない。どんな反応されるか想像できるのに、言えるわけないだろ」
「じゃあ、アレンさんは何も気にしてないってことだよね。それでもダメなの?」
「弟の俺がいればアレンも兄貴のことを思い出すし、俺も罪悪感で居た堪れない。お互いに過去を掘り返さないためには、接触しない方がいいんだ」
縁は切れるが、その方がいい。苦しむなら過去の縁を捨ててもいいと、ヤコブは言う。
しかしシモンには、それは疑問だった。
「ヤコブはそれでいいの?」
「いいんだ。この罪悪感は、今度精算するから」
「精算?」
「次のバルトロマイとの戦いで全て受け止めて、使徒として最後の戦いになっても構わない覚悟でいる。そのつもりで、やつとも再戦の約束をした」
素直に棺から解放された裏にあった取り引きを聞いたシモンは、にわかに信じられず衝撃を受ける。
「約束って、そういうことだったの? 使徒をやめるつもりなの!?」
「罪と使徒の資格の等価交換になったとしても、俺は構わない。それが償いの代わりになるなら……」
「そんなのダメに決まってるでしょ!」
シモンは衝動的に立ち上がり、大声を出した。ヤコブは、珍しく本気で怒っているのが不思議だった。
「……シモン?」
「確かに、罪悪感がなくなれば楽になれるよ。ボクだって、棺の中でトラウマを完全に消し去ってれば、もっと前向きで楽に生きられるよ。だけど、今のこれがボクたちでしょ? 辛くても、その過去があるから今の自分があって、ここにいるんでしょ? 過去を背負って苦しんでる人たちに、寄り添えてるんでしょ? その人たちを見捨てるのなんて言わないけど、せめて償いを盾に取って逃げるのはやめてよ。そんなのヤコブじゃない。少なくともボクには、ヤコブは希望だよ!」
「シモン……」
「ボクが今でもここにいられるのは、ヤコブがいるからだよ。ヤコブがボクを支えてくれてるからだよ。だから、俺なんかとか言わないで。自分を否定しないで。辛い過去を簡単に片付けようとしないで!」
シモンは涙ながらに訴えた。十字架のままのトラウマを背負って生きることが、本当に一番正しい方法なのかと。
「でも。俺は……」
しかし、シモンの訴えを聞いてもヤコブの決心は変わらない。俯き、覚悟しか見ていない彼に、シモンは言う。
「ヤコブが選ぼうとしてることは、全然楽な未来なんかじゃないよ」
シモンの声は、憤っているように聞こえた。だがヤコブが顔を上げると、その面持ちは声に乗った感情とは違った。
「ボクは、これからもヤコブの側にいて支えたい。勝手なことかもしれないけど、ボクの望みを叶えさせて……。お願い」
揺れる瞳で、違う覚悟もあることに気付いてほしいと、心の底から願っていた。