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第4章 zum nächsten─見つけ

第1話 夏を秘めて



 朧げな三日月が静かに浮かぶ、朝ぼらけ。小鳥の鳴き声も、どこかの中庭から聞こえて来る。

 街がまだ起き切らない、そんな時間。スポーツウェアを着たヨハネは、日課のジョギングを始めようと事務所前で準備運動をしていた。


「さて……」


 出発しようとした時、居住者専用扉が開く音がして振り向いた。


「おはよう、ヨハネくん」

「えっ……」


 ユダが現れて、ちょっと驚いた。前髪が下りたままで、しかも、同じメーカーのデザイン違いのスポーツウェアを着ている。


「おはようございます。どうしたんですか?」

「最近サボっちゃってたし、久々に走ろうかと思って。一緒にいい?」

「はい。もちろんです」


 ヨハネを待たせてはいけないと、ユダもすぐに軽く準備運動をする。


「コースは変わってない?」

「はい。1.5km先の公園です」

「じゃあ、行こうか」


 ユダが先に走り出し、ヨハネはうしろから付いて行くように出発した。

 大通りを走っても、人影はまだぽつりぽつり。けれど、朝から営業を始めているベーカリーには数多くのクロワッサンなどが並べられ、既に買いに来ている人がいる。

 夏でも早朝は涼しく、風を切って走るのが気持ちがいいので、ヨハネはこの時期のジョギングが好きだ。


(気持ちいいな……)

「気持ちいいね」

「えっ」


 自分の心の声と同じことをユダが言うので、にわかにドキッとして斜め前を見た。


「涼しくて走りやすい」

「そうですね。でも、ユダは久し振りなんですから、あまり無理はしないで下さいね」


 公園に着いてしばらくした頃には朝日が登ってきて、ジョギングコースを走る二人をまばゆい光で照らす。一日分のエネルギーを与えてくれているようだ。

 斜め後ろを走っていたヨハネは、隣に並んだ。すぐ横から、ユダの息遣いがする。ヨハネはユダの呼吸に合わせて、走るリズムを調節する。


「ユダは、走るのいつ振りになります?」

「いつ振りだろう……。春までは走ってたから、それ以来かな」

「そのあいだ、僕は一人で走ってました」

「あはは……。ごめんね。寂しくなかった?」

「寂しくは……。でも、チャラにします」


 本当は一人で走るのは寂しかったが、本音は言わなかった。久し振りに一緒に走れたので、三ヶ月くらい放って置かれたことは簡単に許せてしまった。


 休憩を挟みながら走り、一時間半ほどで帰って来た。


「それじゃあ、またあとで」

「はい」


 部屋は隣なので、お互いにドアの前で別れた。

 ユダが部屋に入るのを見届け、ヨハネも部屋に入ろうとした。その時、締め切らないドアのあいだからペトロの声が聞こえてきた。


「ユダ。こんな朝っぱらから、どこ行ってたんだよ」

「ごめんごめん」


 目覚めたらベッドにいなかったので、ペトロがちょっとだけ怒っていた。久し振りにユダとジョギングができて、いい一日の始まりだと思っていたのに、その声がヨハネの気分を下げてしまった。




 中庭の青々とした大木から、蝉の鳴き声が聞こえ始める。食卓にも、マグカップとバトンタッチしてグラスが並ぶようになった。


(眩しい……)


 ヨハネは、朝日のことを言っているのではない。朝食を囲む食卓で、真正面からカップルの仲の良さを見せつけられているからだ。


「ペトロ。新しく買ってみたスプレッド、おいしいよ」


 勧められたペトロは、ピスタチオスプレッドを塗ったユダの食べ掛けのミッシュブロートを一口もらう。


「ほんとだ。ハムにも合いそう」

「また口の端に付いてるよ」

「いいよ、自分で取る」


 ユダが手を伸ばし掛けたのでペトロは舌でペロリと舐めると、ユダはちょっと残念そうにきれいになった口元を見つめる。

 見せ付けているのは二人だけではなく、ヨハネの横に座る二人もだった。


「ヤコブ。今日はアルバイト夕方まで?」

「うん、そう」

「じゃあ、また終わるの待ってていい?」

「おう。ちょっとだけデートするか」


 ハムを乗せたミッシュブロートをナチュラルに食べさせ合いながら、今日も充実した一日となる予感を関係のないヨハネにまで感じさせていた。

 二組はごく自然体でわざとではないのだが、ヨハネにとっては非常に肩身が狭く、自分だけ場違いな気にさせられる。


(現状を痛感させられる……。僕のバンデはどこにいて、いつ現れるんだろう……。というか、いるのか? 現れないっていう可能性もあるんじゃ……。嘘だろ。まさかこのまま、プライベートでも使徒でもお一人様コースまっしぐらとか……)


 想像したら、怪談話でも聞いたように背筋が凍りそうになった。プライベートぼっちすら切ないのに、バンデが現れなければいろんな意味で追い込まれそうだ。


「ヨハネくん」

「えっ。はい。何でしょう」


 背筋はユダのおかげで凍らずに済み、ヨハネはハッとして返事する。


「確認したいんだけど。編集部の人が来るのは、今日の十一時だったよね」

「はい。そのはずです」

「編集部って?」


 シモンが訊いた。


「ペトロに、専属モデルのオファーが来てるんだ」

「専属モデル!?」

「マジかよ!」


 驚くシモンとヤコブは、同時にユダからペトロへと視線を移した。


「実は、オファーをもらうのはこれで三件目でね。でも、ずっと断ってるんだ」

「えー。もったいないよ。なんで?」


 ヤコブは「断るなら俺にくれ」と言いたそうな気持ちを、ちょっとだけ覗かせている。


「僕たちは使徒が本業だろ。平時は急な戦闘に備えてなきゃいけないから、できるだけ自由に動ける状態でいたいし」

「でも、一人くらいいなくたってなんとかなるだろ。憑依タイプなら、最低三人いればいいんだし」

「憑依タイプならな。だけど、死徒の時は全員いないと始まらないだろ」

「まぁ。確かにな」

「それに。ペトロが、専属モデルにあんまり興味を持ってなくて」


 ユダは、もったいなさそうな気持ちを漏らした。それを聞いたヤコブは、頬杖を突いてペトロにジト目を向ける。


「お前は贅沢だな。せっかく声掛けてもらえてんのに。仕事増えるの嬉しくないのかよ?」

「嬉しくないわけじゃないよ。でも、ヨハネが言った通り。使徒が本業なんだし、モデルの仕事優先して戦闘に穴開けてみんながピンチになるくらいなら、全然断るよ」


 将来へのレッドカーペットが敷かれるかもしれないというのに、ペトロは眩しい照明よりも目の前の目的の優先を考えていた。自分にはまだ、そこまで自由は許されていないと。


「オレも、オファー来るたびにユダから話は聞いてたけど、そう思ったから、使徒都合の理由で断わってもらってるんだ」

「そうだったんだね。でも、やっぱりもったいない気がするなぁ」

「ライバルの俺すら、もったいないと思うぞ。初の露出であれだけ注目されたんだから、モデル続けることもできるだろうし。将来の仕事にする気はないのかよ」

「それは、今のところ考えてないよ。バイトのぶんの収入もあるから、別に今のままでいいし」


 生活費はかかるが家賃はタダで、娯楽も少しは楽しめている。ペトロの場合は、既に二つの専属イメージキャラクターを務めているので、現状に満足しているようだ。


「でもペトロ。ヤコブくんが言うように、使徒の役目が終わったあとも、ペトロならモデルの仕事を続けられると思うよ。もしも、本当はもっとやりたいけど、私たちのことを考えてセーブしようとしてるなら……」

「遠慮なく、モデルの仕事やれって? できるわけないじゃん。中途半端に使徒をやるつもりはないよ。オレにはオレの信念があるから」

「ペトロの信念て?」

「自分がやるべきことを、ここでみんなと最後までやり遂げること。だから、仕事は今のままでいい。この日常で、満足してるから」


 忘れていた人並みの幸せは得られた。他愛のない話で笑い合える仲間もいる。今のペトロに、これ以上贅沢なものは必要なかった。

 ユダはペトロと目を合わせ、微笑み合う。その光景が、ヨハネには朝日に負けず劣らず眩しかった。




 ヨハネは朝食の後片付けをする。食器を洗う隣で、ユダが手伝ってくれていた。


「ありがとうございます」

「二人でやった方が早いしね」


 ユダは、ヨハネが洗った食器を拭いて棚に仕舞っていく。何気ない日常の一コマに過ぎない時間でも、ユダに隣に立たれると少し落ち着かない。


(ペトロと恋人になったのは、とっくにわかってるのに。腕が触れそうな距離にいると、ドキドキする……)


 ヨハネはバレないように、チラッと隣のユダを見る。

 まだセット前の前髪が、腕の動きと連動してサラサラと揺れている。シャワーを浴びたあとなので、ボディーソープの香りもほんのりとした。


(こんな少ない片付け一人で十分なのに、それでも手伝ってくれる気遣いが好きだ。出会った瞬間から、僕に向けてくれるその優しさが好きだ)


 その気遣いや優しさは、自分だけに向けられている特別なものではないのはわかっている。八方美人でない自然な振る舞いは、誰にでも分け隔てない。

 それでも、二人きりの時に優しくされると、自分だけのものだと思いたくなってしまう。


(やっぱり僕は、まだユダが好きなんだ)


 ユダの特別でありたいというヨハネの思いは、盛夏に向かうとともに、また少しずつ熱を持ち始めていた。




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