結局あの後、千尋は早退した。そもそも退勤時間まであとわずかということもあり融通を利かせてもらった形である。
ふらふらになりながら、歩いては座り込んでを繰り返していた。何をしていてもまるで酔っているような感覚で、不快この上ない。
すべては……あの男、椿の言葉のせいだ。
(違う……あの人のせいだけじゃない。そうだ、分かってたはずなのに)
峰自身も言っていた。そして自分も、承諾した。ただ、それだけだった。
本当はその上でのし上がるつもりだったし、それができると信じていた。だって自分は、特別だから。
しかし、実際はそんなことはなかった。自分よりも、椿の方が圧倒的に特別だった。それもまた予想していたはずなのに、それでも精神的にキツ過ぎる。
(あの人がいる限り、僕はきっと選ばれない……あの人の、せいで)
脳内にいる椿のせいで、支離滅裂な思考ばかりがぐるぐるする。まるで脳味噌を、彼自身がぐちゃぐちゃと踏み荒らしているような気分だった。
あの二人の絆の深さは結局把握しきれなかった。一体、どうすればいいのだろう。
本来の倍以上の時間をかけて何とか自宅に辿り着き、すぐさまシャワーを浴びる。帰宅道中に二度も嘔吐してしまったせいで、全身から吐瀉物の臭いが漂っていた。
(臭い……)
こんな臭いがするから、峰は自分を選ばないのだろうか。椿のような人間なら、選ばれるのだろうか。
いや、違う。理由はきっと、そこではない。
(僕が元生徒だからなだけだ)
それは峰自身にも散々言われたし、椿もまた言っていた。
つまり、峰にとってそう思えなくなればまだ勝機はある。あの男を、追い落とせるはずだ。だって自分は特別扱いをされているのだから。
臭いをすべて消し去るつもりで丁寧にシャワーを浴び終え、ドライヤーまで済ませてからスマートフォンを見た。そして、気付く。
「先生?」
峰からの着信が、十分前に入っていたようだった。慌てて再度掛け直すと、三コールもしないうちに『はい』と声が聞こえた。
「先生、さっき電話……」
『ああ、悪い。ちょっと聞きたいことがあってな』
その言葉に、心臓がひっくり返りそうになる。どく、どく、と心臓が鳴るのを感じながら「何?」と問う。
『お前、ピアス一つ落としていってないか』
「……ピアス?」
想定外の言葉に、思わず息を飲む。しかし、同時に喉の奥で嫌なものがこみあげてくるのを感じた。
そんなはずはない。いつもピアスを始めアクセサリーは外出後必ず紛失していないか確認している。職業病と言えばそれまでだが、実際……あの時は。
「……どんなやつ?」
分かっている。それなのに、確認を止められない。
『青い石がついてる。お前、似たようなものつけてなかったか』
一気に、喉の奥が冷えた。こみあげてきたものが、その冷気に押し上げられる。急いでミュートボタンを押した。そちらは、何とか間に合った。
「うげ、げええっ、げ、えっ」
しかし吐き気そのものはトイレどころかシンクすらも間に合わず、カーペットに吐瀉物を落とす。とはいえもう内容物はさっきのうちに出し切ってしまっていて、半透明の胃液が落ちただけだった。酸の臭いが、再び鼻腔を焼く。慣れてしまったのに、不快で仕方ない。
『おい、金森?』
峰の淡白な呼びかけすら、もはや耳障りだった。つい先ほどまであんなにも求めていた声だったのに、今となってはまるで器官に栓をする錘か何かのように感じる。
ミュートボタンを切った。そして、告げる。
「僕のじゃ、ない」
『え』
「僕、普段色石なんて、つけない」
息をつまらせながら、何とか口にする。
今唯一着けている色付きの宝石はピンクトルマリンだけだ。それも、あの日衝動的に開けたファーストピアスであり、本来の千尋は。
「僕、金属だけのが、好きだからっ……石がついてるの、つけないっ……」
胃の奥から胃液だけでなく、苛立ちごと漏らす。そればかりは、どうしても止められなかった。
だめだ、悪態と罵倒だけは吐いてはいけない。峰の出方を見るまでは、決して暴走してはいけない。
峰は数拍置いて、『悪い』とつぶやいた。
『じゃあ他の奴かもな』
その言葉に、脳の血管が一気に数十本切れたほどの衝撃が撃たれた。千尋は大きく舌打ちし、耳元からスマートフォンを離して通話終了ボタンをタップする。まるで画面が割れそうなほどの勢いだった。
(クソがクソがクソが! クソがぁああああ!)
峰が憎い。ひたすらに、憎い。胃酸だけでなく、憎しみすら体の内を焼いていく。
自分のことを特別だと誤認させた挙句、何らそんなことはなくて。その上でこんなにも、逆鱗に触れるどころか剥がすような真似すらしてくる。
どうして、こんな想いをしているのに。
(こんな男、もういっそ嫌いになりたいのにっ……!)
まるで千尋の想いを繋ぎ止めようとするかのように、こういう時に限って高校時代の思い出が走馬灯のように巡り出す。
母から救ってくれた、そして自分自身の道を歩む方法を示してくれた、あの男のことが。どうしても、忘れられない。
峰との思い出を否定すれば……それは、千尋の今向いている道すらも否定することになる気がしてしまう。
(どうしたらいいんだよ、先生……!)
それでも、すがる先は彼だった。