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第24話-戸惑ったのは、僕だった

 散々吐いてしまったせいで、必要な栄養すらも追い出してしまっていたらしい。結局あの後嘔吐が止まらず、翌日にはふらつきのせいでうまく立てないほどだった。

 幸い休みだったのもあり、千尋はひたすらベッドにこもっていた。まるで自分の身を守るように、シーツの中で丸くなる。


(まだ気持ち悪い……)


 あまりにも吐き気が止まらないのでもしかすると何か菌でももらったのか、と思ったがもはや自分の勘で理解できている。これは、精神的なものだ。原因は椿……というよりは、もはや峰自身になっていた。改めて存在を思い出し、唇を噛む。


(ピアス……ってことは、あの人じゃないか。確か開いてなかったし)


 椿による嫌がらせとも思ったが、その事実からして恐らくその線は無い気がする。だとすれば、椿の言っていた他の世話役のものだろう。


(いやそもそも何でそんなにいっぱい呼ぶわけ?)


 呼ぶなら、自分を呼べばいいのに。自分を呼んで駄目なら百歩譲るとして。


(いや、それでも駄目だ)


 峰のためなら、用事なんてどれも捨て去るのに。仕事ですら、どうにか都合をつけるのに。


(結局僕一人で、勝手に勘違いしてたってことか)


 特別でも何でもなかった。むしろ、峰の中での自分の優先順位は下も下なのかもしれない。その予想が恐怖でしかないのに、千尋の中でぐるぐる回る。

 馬鹿馬鹿しい、と思ったがもはやそれはブーメランでしかない。

 考えれば考えるほど、シーツを握る力が強くなっていく。その時だった。ピンポーン、と軽やかな音が鳴る。


「……え」


 宅配の予定はない。宗教勧誘もこの地域はかなり厳しく取締られているので、恐らくありえない。だからこそ気になって、インターフォンのモニターまで這うように進む。未だに、ふらつきは止まらなかった。一歩ずつ歩くごとに、世界が揺らぐ。


(もしかして、先生だったり)


 いや、あるわけがない。彼は千尋の職場は知っていても、家までは知らないはずだ。第一こんな状況でもそんな期待をしてしまう自分が、情けなくて仕方ない。

 恐る恐る、モニターを覗き込んだ。そして、ぎょっとする。そうしている間に、もう一度ピンポーン、と鳴らされた。震える手で、応答ボタンを押した。


「……はい」

『やっほー千尋くん。あーけーてー』


 画面の向こうの椿は、昨日会った時と同じように明るかった。その右手には、ここから一番近いスーパーの袋がぶらさがっているのが見える。

 どうして、彼がここに。狼狽えていると、椿が『聞こえてるー?』と再びチャイムを鳴らした。慌てて、「すぐ行きます」と告げて玄関へ向かった。もうふらつきどころではなかった。

 玄関を開けると、椿はにかっと笑った。


「よかった、いたいた。店まで行ったけど、店の人に聞いたら休みって聞いたからさぁ」

「あの……何で、僕の家知ってるんですか」

「な、い、しょ。あ、お店の人から聞いたとかじゃないから安心して」


 ふざけたようにそう返す椿の目は、どこか嫌な形に歪んでいた。それがどこか怖くて、思わず目を反らす。するとスーパーの袋を見られたと思ったのか、椿は袋をガサガサ揺らした。


「ああ、これ? 千尋くん昨日早退したって言ってたから、念の為色々買ってきた」

「何でそんなこと……」


 分からない。この男のことが、まったく。しかし千尋の混乱をよそに、椿は「上がっていい?」と囁いてきた。逆らえるわけもなく、頷く。


「おじゃましまーす。へえ、めっちゃいい匂いするじゃん」


 結局昨日はふらつきながらも、何とかカーペットの掃除だけはした。その際芳香の強い洗剤を使ったおかげか、吐瀉物の匂いは他者からしても消えているように感じるらしい。


「ふーん、綺麗じゃん。世話役できるくらいには家事スキルあるってことか」


 椿の目線は、どこか部屋中をチェックしているように思えた。その視線があまりに不快なのもあって、彼の言葉を黙殺する。しかし椿はそれをさして気にもしていないようだった。


「体調大丈夫? 腹減ってる?」


 何となく癪で「別に」と答えようとしたが、そのタイミングでぐぅうう、と腹の虫が鳴った。思わず羞恥心で顔が熱くなるが、椿は嫌味なく「体は素直じゃん」と笑う。


「せっかくだし何か作ってやろうか。俺看病飯作るの得意だし」

「いや、自分でできますっ」

「そんなフラフラで何言ってんだかー」


 そう言われてしまえば、それまでだ。仕方ないので、大人しくベッドの上に座る。一応ワンルームなので椿が何をしているかはよく見えるが、気が気ではなかった。


「ちょーっと冷蔵庫開けるよ」


 そういった礼儀は一応あるらしい。警戒心丸出しの声色で「どうぞ」と返すと、椿の手は冷蔵庫の扉を開いた。


「あ、料理する人の冷蔵庫の中身だ。食糧っつーか食材ばっか」


 その言葉に、どきりとする。確かに峰と再会して以来、料理の練習がてら自炊に力を入れているのは事実だ。


「そんなの分かるんですか」

「俺も料理する側だからね。逆に料理しない奴の冷蔵庫がどうなってるか、千尋くん自身分かってるんじゃねえの」


 峰の家の冷蔵庫を思い返す。確かに、あの冷蔵庫はとんでもなかった。しかしふと、疑念が湧く。


「……あの冷蔵庫、消費期限切れのものいっぱいありましたけど」

「ああ、あれ俺の癖。材料いっぱい買いすぎて余らせるんだよね、他の世話役が使うかなって思ってあえて置いてたけど」


 この男の真意が分からない。他の世話役を容認しているのか、それとも追い出したいのか。少なくとも千尋へのマウントには、悪意がないわけがないだろうに。


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