キッチンに向き合う椿からは、気分のよさそうな鼻歌が聞こえる。実際ベッドからでも見える椿の手つきは、料理慣れしているように見えた。
(変なもの混ぜたりしないよね……?)
体調が悪いからこそ、警戒心も上がっているのかもしれない。千尋の目は、どうしても椿から離せなかった。
椿もまたその視線に気付いているらしく、わざと体をキッチンからずらして手元が見えるようにして調理している。ちょうど、鍋で何かスープを作っているところのようだった。
「千尋くんアレルギーとかない?」
「あ……カニとかエビとか」
「甲殻類ね、了解」
その確認がどこか恐ろしいものに思えて、より不安になる。しかし彼は先ほど開いていた戸棚を開けると、中から缶詰を二つほど取り出した。それは自分で買った覚えのない、カニの缶詰だった。彼はそれを、先ほど持ってきていたスーパーの袋に戻す。そして何事も無かったかのように、調理を再開した。
……ますます、分からなくなってくる。
「卵はいける? っていけるか、オムライス食えるんだもんね」
そこまで知っているのか。恐らく、峰が話したのだろうが。つまり、峰は自分の話を椿にとはいえそれなりに他人にしているということか。その事実は、何となく嬉しい。
(やっぱり僕、駄目だなぁ)
あれだけ峰が憎かったのに、その事実に喜んだり。峰に近しい椿に対して、まだ複雑な気持ちを抱いたり。やはり六年間の片思いは、そう簡単に自分のことを離してくれないらしい。
そう千尋が悶々としている間にも、椿は調理を終えたらしい。どんぶりを持って、テーブルまでやってきた。
「ほい、椿お兄さん特製卵粥。美味くて健康になるものしか入れていないから安心して食いな」
こちらの警戒心もすべて悟りきった上でのこの笑顔は、一体何なのだろう。
恐る恐る「いただきます」と口にし、スプーンで卵粥をすくう。冷ますために息を吹きかけても思いの外湯気が強くなくて、それもそれで不思議だった。
そっとスプーンごと口に含むと、強めの塩味と旨みが口の中に広がった。
「……美味しい」
「だろ。体調悪い時って塩分強い方が美味く感じるから強めにしといた。お手製中華出汁も一から手作りしたかんな」
「あと、熱くない……」
「ちょっとだけ冷ましておきましたー」
気遣いの鬼だ、と感じた。しかし同時に……この優しさは、きっと峰に対してより活かされているのだろうとも。
しかし実際美味なものは美味なので、すぐにすべてを平らげた。普通の食事なら今はいらないとすら思えていたのに、この卵粥に関してはどうしても止められなかった。
「ごちそうさまでした」
結局、米一粒すら残さないほどにまで綺麗に完食した。その姿に、椿はくすりと笑う。
「んだよ、めっちゃ腹減ってたんじゃん。どうする、追加作る?」
「いや、それは大丈夫です。あの……ありがとうございます」
さすがに礼は言わないとまずいと思い、千尋は頭を下げた。すると椿は「いいのいいの」と手首を振る。
「どうせ俺のせいでしょ、体調崩したの。会話の最中からどんどん青ざめていってたし」
そこまで分かっていたのか、と思うと喉の奥がぎゅっと締まる心地がした。しかしそれでもあのマウントを止めなかったのは、ひとえに彼が意地悪だからな気もしてくる。
「だから一応、詫びというか。ごめんね」
「それはその……はい」
あけすけな彼のことがなおさら分からなくなってきて、思わず口をつぐむ。しかし椿は千尋を見つめると、ふ、と笑った。
「ところで。千尋くんはさ、何で悠一郎のこと好きなの」
唐突なストレートボールに、思わず「え」と口にした。そんな千尋を、面白そうに椿は見る。
「悠一郎から話を聞いてるのは聞いてるけど、千尋くんからは全然聞いてないからさ。言っちゃ何だけど、悠一郎ってめっちゃ性格悪いでしょ」
「それは……」
性格が悪い、と言えばそうなのかもしれない。実際千尋のことを期待させては突き落とすような真似ばかりする。実際それで、千尋は傷ついてきた。
しかし、それはそれで気になることが一つある。
「じゃあ、椿さんは何で先生の筆頭世話役なんてやってるんですか。その、性格悪い男の」
その言葉に、椿の顔から笑みが消えた。その動きがあまりに露骨で思わずぞっとしたが、彼はすぐに笑みを取り戻す。
「何でだと思う?」
まるで試すかのような言葉に、千尋は何も言い返せなかった。しかしそんな千尋に、椿は「いや分からないから聞いてんだよな」と笑いかける。
「俺ね、千尋くんのこと可愛いなって思ってるよ」
「……は?」
脈絡のない言葉に、思わず間抜けな声が出た。
「悠一郎のことを素直に好き好きってできて、健気に世話役なんて始めてさ。可愛くて仕方ないって思う」
「あ、あの、意味が」
狼狽えながら遮るように言うと、椿の目は柔らかく伏せられる。
「だからこそね、多分千尋くんには分からないよ」
まるでそれを答えと言わんばかりの、言い方だった。