数日間風呂に入っていなかったので髪も体も臭くて、大衆浴場を見つけたので入ろうとしたらライムントも入ると言ってくる。
貴族の令息であるライムントはカサンドラ騎士団の宿舎では共同浴場を使っていたようだが、こんな平民達の来る大衆浴場は初めてだろう。
こんなに顔立ちも整っていて、体付きも鍛えているのだから周囲の目を引くに違いないと思ったら、ライムントが鼻血を吹いた。のぼせたと言っているが、まだ脱衣所で服も脱いでいないのにのぼせられるとは器用である。
軽口を叩き合って、鼻血が止まってから大衆浴場に入ったが、そこにはカサンドラ騎士団の共同浴場のようにシャンプーもコンディショナーも石鹸もなく、洗面器だけが置いてあるのに驚いていた。
石鹸でダミアンが髪から体まで全部洗って石鹸を貸すと、石鹸で髪を洗っていることに悲鳴が上がる。
髪なんて臭くなければいいので、カサンドラ騎士団でもずっと石鹸で洗っていたと伝えたらもっと悲鳴が上がりそうだったので、ダミアンはそれは言わなかった。
遠征で野宿したり、僻地に行かされたりするときには、風呂に入れない日があったので気にしていなかったが、ライムントは美しい自分を保つのが大事らしい。さらさらの真っすぐな金髪も洗わずに括って纏めて風呂に入っていた。
風呂から出た後で、馬車と馬を預かってもらっていた場所に戻ると、ライムントは名残惜しそうにダミアンの手を握った。
「カサンドラ殿下に報告に一度戻りますが、必ず帰ってきます」
「ライムントの帰る場所はここじゃなくて……あぁ、そうか、故郷なのか」
「ダミアンが辺境に住むのならば、わたしも辺境に住みます」
極端なことを言ってくるライムントにダミアンは苦笑する。
「カサンドラ騎士団はどうするんだ?」
「実は、カサンドラ騎士団に入団したころから、辺境に戻ってくるようにと言われていたのです。わたしの叔父が辺境伯でしょう?」
そういえばライムントの叔父は辺境伯だった。
辺境伯、イグナーツ・ヘルマン。
四十代に入った男性で、辺境の軍の司令官としても名を馳せている。
辺境はいつ戦争が起こるか分からないので、軍備が整えられて、その総司令官は辺境伯そのひとだった。
そうなると、ライムントが辺境に戻るように言われているのも分からないではない。
立派に騎士学校を卒業したライムントを辺境伯は軍の指揮官の一人として迎え入れたいのではないだろうか。
騎士学校では当然、兵を指揮する勉強もあった。ダミアンは座学は得意な方ではなかったが、ライムントは優秀な成績を修めて卒業したはずである。
「叔父さんに望まれていたなら、最初から辺境に来る予定はなかったのか?」
「それは、ダミアンが……」
「ライムントの進路におれは関係ないだろう」
騎士学校を卒業した時点でライムントは十五歳だった。成人年齢の十八歳には届かなくても、十分に教育されていたし、自分の進路を自分で決められる年齢だったと思う。
それなのにダミアンを進路に持ち出されても困る。
「おれがいたからカサンドラ騎士団に決めたとかやめてくれよな。おれはライムントの将来に責任持てないよ」
「そういうわけじゃないんです。カサンドラ騎士団に選ばれたときには嬉しくて、舞い上がって、辺境に戻る気はなかったんです」
「でも、今戻ろうと思っているんだろう?」
「それは……そろそろいい時期かと思って」
「ふぅん?」
よく分からないが、ライムントはライムントなりに手柄を立ててから故郷に戻りたかったのかもしれない。そういう気持ちは分からなくもなかったので、ダミアンも納得する。
「辺境にライムントが来たら、時々食事にくらいは行けるな」
「ダミアンはもう騎士としては……こちらでは軍ですが、軍の兵士としては働かないのですか?」
「そういうのは、もういいかな」
正直な気持ちをライムントに伝えると、「もったいない」という言葉がライムントの口から出た。それはそうだろう。体格にも恵まれていて、まだ二十五歳のダミアンが完全に前線から退いてしまうのはもったいないのかもしれない。騎士学校で学んだことも全て無駄になってしまう。
「正直に言えば、弟が高等教育を受けられて、妹が好きな相手と結婚出来たら、それでよかったんだ。おれの仕事はもう終わりかなと思ってる」
騎士学校時代、剣技が優れていて、辺境で剣の師匠をしている親戚の推薦もあったために、授業料は完全に免除してもらっていて、それ以外の生活費は寮に入って節約していたが、騎士学校が始まる前と終わってから騎士団の使っている厩舎で馬の世話をするアルバイトをして稼いでいた。
それでも生活は厳しかったので、食事を抜くこともあった。
そういうときにはライムントや同級生が食堂にダミアンを呼んでくれて、少しずつ料理を分けてくれた。ダミアンを平民だと侮って苛めようとする輩もいたけれど、優しい仲間もたくさんいた。
無事に騎士学校を卒業してから九年間、ダミアンはカサンドラ騎士団で稼いで実家に仕送りをしていた。弟も高等学校を卒業したし、妹も結婚したので、それももう終わりにしていいのだ。
「これから先はジャガイモを育てながら、狩りをして獣を捕らえて暮らそうと思うよ。それがおれには合っている」
「またわたしを客として呼んでくれますか?」
「ライムントが辺境に来るんなら、喜んで呼ぶよ。でもすぐに辞めるのは難しいんじゃないか?」
ダミアンは平民なので強く引き留められもせずカサンドラ騎士団を辞められたが、貴族のライムントはきっとものすごく引き留められるだろう。ライムントは兵士の指揮もできるし、剣技でもダミアンを超すことはできなかったが、カサンドラ騎士団で二番目の使い手だった。
毎年、御前試合ではダミアンとライムントが剣を交え、ダミアンが一位、ライムントが二位を取ることが多かった。
「そうだ、御前試合! ライムント、エントリーしてるんだろ? それまでは辞められないよな」
「そうでした。御前試合、見に来てくれますか?」
御前試合は毎年春か秋に行われる。
今年は秋に行われるのでもうすぐ開かれる予定だった。
エントリーしているライムントは試合が組まれているだろうし、すぐにカサンドラ騎士団を辞めることは難しいのだ。
「そうだな。カサンドラ殿下がそんなにおれを買っていてくれたなんて嬉しいし、顔を出そうかな」
定期的に王都に顔を出して、手紙でも近況を知らせること。
そう命じてくれたカサンドラの気持ちは嬉しい。
自分の九年間がカサンドラにも評価されていたのだと幸せな気分になる。
「嬉しいです。わたしを応援してください。優勝したら、あなたに花を捧げます」
カサンドラ騎士団の御前試合では、優勝者に薔薇の花が贈られる。その花を優勝者は意中の相手に渡すらしいのだが、ダミアンは意中の相手などいなかったので、ずっとライムントが二位になって「その花が欲しいのですが」というのに、優勝の花がそれほどほしいのかと思って譲っていた。
「おれに? なんで?」
「そ、れは……最後の御前試合になりますし、ずっとダミアンはわたしに花を譲ってくれていたのでお礼です」
ライムントの白い頬が赤く染まったような気がしたが、ダミアンは首を傾げながら「そんなもんか?」と呟いた。
「ライムントは好きなやつとかいないのか?」
「います……ん!」
「ふはっ! 『います』なのか、『いません』なのかどっちだよ!」
妙なところで噛んでしまったライムントは格好いいのに台無しだと声を上げて笑うと、ライムントの顔がますます赤くなっている気がする。
「ダミアンはどうなんですか?」
「おれはいないな。弟と妹の面倒を見るのに必死だったんだよ」
弟は高等学校を卒業して貴族のもとで文官として働いているというし、妹は結婚して商家で幸せにしているという。
そろそろ自分の幸せを考えてもいいころなのかもしれない。
貴族は十代の初めごろから婚約して、二十代に入るくらいにはみんな結婚していると聞く。それからするとライムントもダミアンも結婚は遅い方なのかもしれない。
自分の幸せよりも弟妹の幸せを優先してきたダミアンにとっては、これからが本当の自分の人生なのかもしれない。
「まぁ、独身を謳歌するっていうのも悪くないよな」
カサンドラ騎士団で早くに結婚した騎士が伴侶に尻に敷かれている様子を見ると、ダミアンは一生結婚しなくてもいいかもしれないとも考えていた。
「絶対優勝しますので、わたしの花を受け取ってください」
やけに真剣に言ってライムントは馬車に乗って王都に帰って行った。